「味のしないガムです」と書かれたガムを食うか?
ハワイで夕陽を見ながら、波の音に耳を澄ます。それだけの時間。
そんなものが今後、僕の人生に訪れるのだろうかと考えた。
波の音に耳を澄ませる時間と、都会でのナイトライフ。
どちらが楽しいかという問いは馬鹿らしい。だけれど、それを問いておくことで、僕の人生における今後の方向性みたいなものはより明確になる気がした。
生産的なものと、非生産的なもの。
都会にいる限りは、どうしても生産的なものばかりに目が向くような気がしている。それがわるいことだとは言わないが、なんだか人間としてすこし味気ない気もする。
僕はたまに、最寄りの駅から自宅まで歩いて帰ったりする。
駅からバスを使うとかかる15分と、歩いて帰る30分を天秤にかけた時。たいていの場合、僕は後者を選ぶ。(ふだんはチャリンコだけど)それは節約が一番の目的だ。
だけれど、実のところ、アイデアが浮かんだり、頭がスッキリするのは歩いて帰るときで、それを求めている自分もいる。
これって、どちらが生産的だと呼べるのだろう。たしかにバスで帰ることにはお金がかかるけれど、時間と労力を節約できる。そしてそのうえ、バス内では、いまどきスマホさえあれば好きなことができる。
それに比べて、歩くという行為は基本的に自由が縛られるものだ。時間と労力を使っても、なにも浮かばない日だってある。
最近、知らない駅で降りてみるという試みをすることが減った。
むかしは、知らない駅で降りてみて、あたりを散策することで、まだ見ぬ街の魅力に気づけたり、いい店を見つけることができると思っていたからだ。
しかしいまでは、そんな労力と手間を使わずに、グーグルでその街のことを事前に調べてしまう。そして、面白そうだと感じれば降りるし、感じなければ、降りない。
生産的とは、いわば確実性みたいなものだと思う。
確実性の高い行動は極めて生産的だ。なぜならそこに、「失敗」という非生産的な営みは生まれにくいから。
無駄が好きだ。でもちょっとずつ、無駄よりも確実になにかを得ることのできる体験に走っている自分もいる。
そしてそれがたまらなく嫌だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?