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No border 一兵卒の思索

最近また英会話を頑張ろうと、海外の人と話す機会を増やしている。国籍は様々だけれども、ほとんどが同世代以下である。

他国でオープンに知らない人間とコミュニケーションを取ってくれる年長者はそう多くない。
見た目幼く見えるアジア人の特権を生かしながら、20代の友人も増えた。

だけどその日は、還暦をすぎたアメリカ人男性と話す機会に恵まれた。いつもは誰とでも盛り上がる仕事や音楽、ダンス、旅行の話などをすることが多いのだけれど、彼が興味を示したのは、私の副業の方だった。

「I wanted to be a soldier.」

ベトナム戦争の時、若かった彼はそう思ったそう。
怪我によってその望みは叶わなかったそうだけど。

テキストの退屈なダイアログを終わらせて、今の北朝鮮問題について意見を求めてきたので、安全保障について少し意見交換をした。

異文化交流や国際的なコミュニティに属すると、国境にとらわれず誰とでも仲良くなれるように思うし、それはきっと事実なんだろう。それでいて、どの国の友人達も自国内で衝突を抱えている。

いつかの週末にBarであった20代のLAの青年と、このベトナム戦争の時代を生きたNYの紳士が、対話しようとするならば優れたファシリテーターが必要になるかもしれない。
どちらも故郷と世界の平和を願っていても だ。

それだけ個人の生きた時代や環境の影響は根強くて、"国"、"戦争"、"軍隊"という言葉の解釈はgoogle翻訳でも対応しきれないほど千差万別なのだと思う。

言葉と同じように自分というものをDefineして、誰かに伝えようとするときに、私達はその輪郭を太くハイライトする。

「私はこう考え、こういう(多くの場合、善人で正しく、味方である)人間です。」

と強調する。
そうするとその輪郭は境界となり、我々と他を区別するようになる。

やっかいなのはこの輪郭は、自分の経験や想像の範囲でしか描けず、1度描いてしまうとなかなか修整が出来ないことだ。むしろそれを補強しようとばかりしてしまう。
偶然の積み重ねの中で信じるようになった概念上の境界に過ぎないものなのに。

国境は心の中にある

年代、性別、国籍、思想、嗜好性…自分はどこで境界を引いているだろうか。その入国審査はどんなものだろう。

世界平和を願うなら、世界の有り様と自分の描ける国境とのギャップを理解しよう。
自分の心はだれに制約を受けることもない。
いたずらに閉鎖的にならないように気をつけたいと思う。

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