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横笛②

 翌朝、滝口は身なりをいつも以上に整えて出仕した。遠目に見える帝の竜顔や、同じ詰所で勤める同僚の顔を見て、涙が数行流れた。
 無事に最後の仕事を終え、その日の夜も横笛のもとへと向かった。彼女はいつもの通り部屋に迎え入れ、今日あった事を語る。滝口は笑顔で返事をするが、朝から別の事に頭が捕らわれていて話が殆ど入ってこなかった。
 別の事、とは、昨日の父の勘当に関しての事だった。彼は、想い人と添い遂げられなくては浮世で生きていても仕方が無い。しかしそちらに進んでしまっては、男手一つで育ててくれた父への不孝になってしまう。だからといって、縁談の道へ行ってしまっては、横笛と誓い合った言葉の数々が皆嘘偽りとなってしまう。こうなってしまっては、もう自分には遁世して往生を願うことしか道が残されていない、そう考え続けていたのである。
 横笛はそんな事とはつゆ知らず、いつものように無邪気に語りかけてくる。もうこの顔を眺める事が出来なくなってしまうと思うと、彼の目には自然に涙が湧いてくるのであった。
「滝口さま?どうなさったのです?なんでそんなに悄然しおれているのです?」
 横笛はただ不思議そうに無垢な顔で滝口を覗き込む。
「大丈夫。何でも無いんだ。・・・・・・目に何か糟が入ってしまったようで」
 滝口は下手な嘘で誤魔化して、目元を拭った。
 ――いつもは、出仕しなければならない事を嘆いていたけど、何故今日に限ってこんな様子なのだろう。絶対に何かあるはずなのに。何故滝口さまは打ち明けてくださらないのだろう――。
 横笛はそう思っていたが、結局聞けぬまま、滝口の腕の中で眠りに落ちてしまった。
 曇天一色の日の夕暮れ時とも見間違う、水色とも灰色とも分かち難い空に、東から陽が頭を出し始める。遂に朝がやって来てしまった。滝口は隣で眠る横笛をひしと抱きしめ、物音が立たぬようにそっと部屋を後にした。
 そうして滝口が向かった先は、嵯峨近くの法輪寺であった。


 激しい風が吹き荒ぶ十月半ば。一面に敷き詰められた枯葉の絨毯を踏みしめながら、滝口は日頃世話になっていた、蒼海という僧が勤行する坊へと向かった。
「蒼海殿、いらっしゃいますか。私です。滝口時頼でございます。相談がございまして参りました」
 門前に立ち、声をかけると、中からゆっくりと床板を踏む音が聞こえてきた。
「おお、時頼殿。こんな山奥までよくお越しになった。ささ、茶でも」
「いやいや、そんなにお気遣いなさらず。すぐに終わる事でございます故。」
「何を隠そう、出家の志があってやって来たのです」
 想定外の話に、蒼海の顔は名の如く青ざめた。滝口は宮中で勤務する、老い先長い青年である。そんな男がどうして出家など思いつくのか。蒼海は全く理解が及ばなかった。
「出家ほど尊いことはござらぬが、お主はまだ若い。俗世の関係も、断ち切れぬほど多く、強固なものだろう。残念だが、時頼殿。事情は分からぬが、お主を出家に導くことは出来ぬ」
「なんと。聖人は遍く人々を導いてくれるものではないのですか」
「それは山々のことではあるが・・・・・・」
「・・・・・・もう結構でございます」
 滝口は言い終わるや否や、懐から小刀を取り出し、自らの髪を押し切り始めた。その眼は一文字だったが、手や腕には血筋が浮き出ていた。
「時頼殿・・・・・・。それほどまでに俗世を捨てたい事が・・・・・・。承知した。この蒼海、すぐに受戒の儀式を致そう」
 蒼海は見るに堪えず、時頼へ寄り添った。そして、彼の手に握られた小刀を両の手で包み込むように抜き取り、代わりに彼の髪を剃った。
 かくして、滝口は十九歳にして出家した。彼はその後、往生院に赴き、その中の一角に居を構え、勤行するようになった。

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