見出し画像

横笛①

 高野の山には金剛峯寺という、弘法大師が開いた真言宗の総本家たる寺がある。そこに、頬はこけ、手足は牛蒡のように痩せ細った、あらまほしき一人の僧が修行をしている。
 彼の名を、滝口時頼という。彼は今や人々から「高野聖」と呼ばれ、尊ばれている。何も、最初からこのような呼ばれ方をしていたわけではない。そこには深い所以があるのである。

 滝口は遁世前、宮中の警備役として出仕していた。あの平治の乱の立役者、小松の内大臣、平重盛にもお仕えする者であった。そんな彼は、宮中での仕事の合間を縫ってはある一人の女の元へ通っていた。彼女の名は、横笛という。こちらも宮中で給仕する下女であった。
 滝口は公務が終わるや否や、すぐに横笛の元へと赴いていた。横笛の方も、拒むことなく自室の中に招き入れ、歌を詠み合ったり、月を眺めたり、二人の今まで、そしてこれからの事を語り合って、契りを交わして過ごしていた。
 二人は、艶やかに照り映える二人だけの幸せな日々を謳歌していた。
 しかし、この二人の関係をよく思わない宮中の人間がいたのだろうか。二人が恋に現を抜かし、宮中での公務を疎かにしているという噂が流れ始めた。「悪事千里を走る」、その噂は漏れて瞬く間に滝口の父親の耳にも伝わった。
 滝口が久々に暇を貰い、故郷へ戻ってきた夜半、門前には仁王立ちした父の姿があった。
「父上、只今戻りました」
「時頼よ、長らくの出仕ご苦労だ。ただ、これから聞く事への返答によっては、残念だがお前の帰ってくる家はない」
 滝口は父の発している言葉の意味がよく飲み込めなかった。
「ど、どういうことでしょうか」
「長くなるが話すとしよう。私は若くして妻、つまりはお前の母を亡くしてしまった。悲しみに苛まれながらも、お前を忘れ形見だと思って今まで育ててきた。本当は一人息子を出仕させることは苦しかったが、それでも、お前が時の人の婿となって、安心して暮らせるようになれたら父として本望だと思ったのだ。それで警備役として宮中に遣ったのだ。少し前に縁談の知らせが来たときは、お前がよく働いているのだと実感して、飛び上がるような気持ちだった。しかしなんだ。お前は下女などというつまらぬ者との恋に溺れているそうじゃないか。それは本当なのか、よからぬ噂なのか」
「ね、根も葉もあらぬ噂でございましょう」
 滝口は元来、嘘がつけない男であった。言葉ではこう返していても、俯きがちで、右手をこれでもかというほど握りしめていた。それに気付かぬ鈍感な父ではない。すぐに察して、ため息交じりに話した。
「やはり、そうなのだな。・・・・・・縁談も来ている。そんなつまらぬ下女とは早々に別れなさい。私を苦しませないでくれ」
 滝口の掌は限界まで握られていたが、この言葉を聞いて、その拳は緩んだ。そして、おさえていた感情が溢れ出した。
「父上。お言葉ですが言わせていただきます。人の人生というのは、果たして永遠のものでしょうか。・・・・・・違うことはおわかりでしょう。どれだけ長くても、7,80年の短いものでございます。その中でも人として、輝きを放っていられるのはたった20年ほどでございます」
「それがどうしたというのだ」
「現世というのは、儚いものなのです。そんな儚い世で、歯牙にもかけぬ人と共に過ごしたって何になるというのですか。私は、儚いからこそ、想い人と添い遂げたいと思うのです。」
 滝口の目はどんどん潤んでいき、遂には涕泣するような形になっていた。「否。儚いからこそ、確実な地位を築き、安泰を得るべきなのだ。色恋なぞ夢まぼろしのようなものにかまけている場合ではないのだ。時頼よ。私はお前の為を思って言っているのだ。いい加減に目を覚ませ」
「いくら人の夢は儚いものだからと分かっていても、私は見ていたいのです。」
 こう言って、彼は待ちわびた実家につゆ入らず、来た道を引き返していった。
「・・・・・・もういい。知らぬ」
 父の声でそうはっきりと聞こえた後、門の閉まる音がした。しかし滝口は振り返らなかった。振り返れなかった。
 見上げた夜空には、二十七日の月がぼやけて見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?