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横笛③

 その頃横笛は、今日も今日とて宮中で忙しく働いていた。
 滝口が悄然しおれていたあの日以来、横笛は片時も彼の事を忘れずに待ち続けていた。だが、彼がやって来る気配は一塵も無かった。
 ――悄然れていたし、身の上に何かあったのではないか。いや、もしかしたら違う女の人のもとへ行かれたのかもしれないわ。いやいや、あれだけ一途に私の事を思ってくださって、言葉にもしてくださったのだから、それはないわ。でも――。横笛の思いは、歯車のように回り続けた。日々の物思いは、積もり積もって、僅かな疑念さえ抱くようになっていた。
 そんな煩悶も虚しく、あらたまの年も暮れてしまった。

 正月を迎えた。七日には宮中で白馬節会あおうまのせちえが開かれ、終了後には宴が行われた。数々の公卿や昇殿を許された人々がこれ見よがしに身を繕い、それは輝かしいものであった。続いてやって来た舞妓による舞楽も、新年を迎えるに相応しい心躍るものだった。給仕する身である横笛もこの宴の場にいて、その様子を目にしていたが、その頭の中は、心の中は、滝口の事を思う気持ちで一杯になっていた。器一杯に水が張っていて、そこに何か衝撃が加わったり、あと一滴垂れたりしたらもう溢れてしまうような、そんな悲しみに沈んでいた。主人の世話にもなかなか身が入らなかった。
 そんな時だった。主人のもとに、直衣を着た、菊の香りのする男がやって来た。
「時にあなた。いつか色恋に現を抜かしていたという滝口時頼をご存じですか」
 横笛は、これを片耳にした瞬間、全意識がこの男の話に向いた。主人はこう返す。
「ああ。おりましたね。最近詰所に居ないようですが、どうしたのですかね。何かあったとも聞きませんから」
「そうそう、気になってある筋に聞いてみたのですが、どうやら彼は・・・・・・」
 横笛は息を呑む。その口元を凝視してしまう。
「彼は・・・・・・」
「去る神無月半ばに、嵯峨の山奥で出家してしまったそうです。今は往生院にいるとか・・・・・・」
 横笛は思わず声が出そうになり、周章てて口元をおさえた。世捨てしたなんて、思いも及ばなかった。ただ悲しみよりも衝撃の感が強すぎたためであろうか、不思議と、涙は流れなかった。
 その後も宴は賑やかに行われていたが、横笛はただ、先ほど耳にした滝口の噂だけを、頭の中で反芻させていた。
 宴も酣のうちに終わった。後片付けを澄ませ、横笛は自室に戻ってきた。着替えも何も出来ぬままに、布団に倒れ込み、引き被った。
 ――どうして彼は、私に何も言ってくれなかったんだろう。他の女の方に目移りするのは百歩譲ってまだ許せても、出家までしてしまったなんて・・・・・・。まあ、出家したとしても、あれだけ一緒にいた私に何も言わないなんて――。
 横笛は、滝口の振る舞いや行動に対して、怒りを感じるようになってきた。
 ――おかしい。あれだけ誓っていた私に対して何も言わないで世を捨ててしまうなんて。なんでも言い合える仲だったのに。なんでこんな事をしてしまわれたのだろう。・・・・・・噂を待つだけじゃ駄目だ。自分で聞きに行かなきゃ。信じて待ち続けた日々の恨みを直接言いに行かなきゃ――。
 横笛は、気付けば旅の準備を済ませ、自室を後にしていた。
「すぐに戻ります。突然の暇をお許しください」
 小さくなよやかな字で書いた紙切れを残して・・・・・・。

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