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横笛⑤

 結局、二人の再会は叶わず、涙に暮れたまま横笛は往生院を後にした。 
 滝口はその後ろ姿を見届けながら、使いの者を呼んだ。
「ここ、往生院では世離れした静けさの中、勤行することが出来ていました。ですが、こうして彼女に今の住まいを見られてしまいました。今回こそ、自分の想いを抑えることが出来ましたが、次彼女がやって来た暁には、遁世者の戒めを破ることになりかねません。ですので、ここを離れることにいたします。短い間ではありましたが、ありがとうございました。さようなら」
 こう呟いて、滝口は往生院を後にし、高野の山の金剛峯寺に赴いた。
 横笛は帰京後、主人や同僚の下女に心配されながらも仕事に復帰した。だが、往生院に赴く前よりも一層物思いの色は強くなり、憔悴した様子になっていた。仕事にも支障が出るようになっていた。
「横笛さん、大丈夫ですか。隈も見えますし、寝られていないのでしょう。くれぐれもご無理のないように」
 主人にも、このように心配されることが多くなった。
 あまりにも続くので、横笛は暇をもらい、実家に帰ることにした。もう如月になり、仲春らしい晴れ模様の中、彼女の心はあの日から沈んだままであった。そんな中で帰路についたつもりだったが、気付けば足は東寺(教王護国寺)に向いていた。堂内に入ると、ひんやりしていてどこか厳かな雰囲気を感じる。鎮座する大日如来は、悲しみに打ちひしがれた自分を、優しく包み込んでくれるような出で立ちであった。しばらく眺めた後、横笛は勤行する僧を尋ね歩いた。
 かくして、横笛は十七歳にして出家した。
 東寺の僧は、若くして出家したいと申し出る横笛を、何とか制止しようとした。しかし、彼女は僧に頼む前から既に剃髪し終え、尼の姿となってしまっていたのであった。

 噂というのはどこから漏れていくのか、今も昔もその発信元は特定できないものだが、横笛の出家も、例に漏れず何者かによって噂された。その噂は風に乗り、紀伊の国まで伝わって、高野山にいる滝口の元へも伝わった。
 滝口は高野山まで来たとはいえ、あの夜の事を拭い去ることは出来ずにいた。そんな中でのこの噂。遁世者とは言いながら、同じ往生の道を志していることを知り、感慨深い気持ちになった。その思いを伝えようと、彼は横笛に手紙を書いた。

「そるまでは うらみしかども あづさ弓 まことの道に いるぞうれしき
 貴女が尼になるまでは私の事を恨み続けておりましたが、そんな貴女がこうして仏道に入ったという知らせを聞いて、嬉しい。あの日の無礼を許してください。共に祈りましょう」
 三日後、東寺で勤行を続ける横笛の元に、滝口の手紙が届いた。言葉少なながらも、自分の気持ちを素直にぶつける手紙であった。あの日以来、ようやく自ら返事をしてくれたことを嬉しく思い、彼女はその手紙を胸に抱きしめ、返事の手紙を書いた。

「そるとても なにかうらみむ あづさ弓 ひきとどむべき 心ならねば
 剃髪して出家したとしても、どうして恨みましょうか。貴方の決心は固くて、とてもひきとどめそうにもなかったものですから。お知らせ、ありがとうございます。往生して、同じ蓮の台に生まれるように、私も一緒に祈ります」
 それを届けようと使いの者に頼もうとしたその時、元の主人の使いが訪れてきた。思わず持っていた手紙を見つからぬように押しやった。
「横笛さん。今からでも遅くありませぬ。宮中へ戻りましょう」
 東寺は都にほど近いため、こうして横笛に縁ある者が尋ねてくる事が往々にしてあった。自らの出家を咎めてくる人も多くおり、この場所での生活に嫌気が差していた。


 ある日の夜半、草履を履いた尼が嵯峨の往生院を指して歩いていた。桂川に沿って上流の方へ向かい、渡月橋の見える辺りで川の方へと体を向けた。水面に映る月は、隈なく輝いていた。

「恋しなば 世の儚きに 云ひなして 跡無きまでも 人に知らすな
 如来様。私がこうして恋死にするのなら、世の中が無常なものだというせいにしてください、亡骸が無いということまでも、人に知らせないでください」
――さようなら。

 小さな水飛沫が立った。


 横笛からの返事を待ちわびていた滝口は、その返事を受け取ることはなく、代わりに横笛の訃報を耳にすることとなってしまった。
 それからというもの、彼はより一所懸命に仏道の修行に励むようになった。まだ30歳にも満たないというのに、頬はこけ、痩せ衰えた老僧のようになっていた。
 その姿を見て、遍く人々から敬われ、尊ばれるようになった。滝口の父親も、この様子を見て、彼の勘当を許したのであった。
 かくして滝口は、「高野聖」と呼ばれるようになったのである。


 最愛する者の苦しみを分かってやれず、あまつさえ未来への光をも奪ってしまった、不甲斐なく、不器用な者への戒めの為に、ここにこれを記す。(「不器用」改め「横笛」完)

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