インターネット上における、匿名性と実在性への視線 『Search 』と『デス・ウィッシュ』を見て

『Search』と『デス・ウィッシュ』を見た。方法と程度に違いはあるが、父親が娘を守り、救う話であった。ここでいう救いとは、精神的、内面的な悩みを解消するということではなく(もちろんゼロではないが)、もっと直接的な生命の保護であり、日常の安心を取り戻すということである。公権力に“裏切られ”、失望した父親は、自らの能力でもって、求めるものを探し始める。
インターネット、通信・SNSが生活に深く食い込んだ現代社会は、彼らにとって頼りであり、脅威でもある。興味深いのは、つぎのことである。娘の捜索のため、自分の顔や名前を全世界に公開したSearchの父親は、インターネット上において、“身勝手な父親”として、安全で無関係で匿名性が保たれた多くの“観客”から、軽んじられ、ネタにされ、より多く侮蔑に晒される。一方で、最後まで世間に対し正体を隠し続けたデス・ウィッシュの父親は、“英雄”そして悪を裁く“死神”として、まさに神格化される。少なくともそのように映画内で描写される。
人々は“身勝手な父親”を一方的に評価して、面白半分に断罪するが、“死神”が悪人に対して行う一方的な裁きを歓迎したりする。集合体のなかにおいて、具体的で限定された、生々しい人間の存在は、まるで降ってあらわれた気楽なおもちゃのように扱われる。反して、その真の姿がわからない対象のことは、逆に丁寧に、感嘆と畏怖をもってしてむかえたりする。実名で募金した者と、匿名で募金した者へ向けられる目の違い……「あいつを見ろよ、善人ぶってはした金を入れてるぜ!それに比べてこの記事を読みなよ、名前も明かさずに寄付をして……どんなに立派な御仁なんだろう!」 この二人が他人だと、誰にわかるのか?
ともかく私はこの二本の映画から、特にインターネットにおける、匿名性と実在性への相反する反応を感じ取った。ただし、Searchに登場する父親がアジア系男性であり、デス・ウィッシュで言及される“死神”の姿は“白人男性”であることは、考えないといけないと思う。舞台は両方アメリカだ。あと、両方とも妻の描写がなんというか……安直というか……まあわかりやすいからいいか。二本とも大変よく楽しめた映画なので、映画館で見られるうちに見るのをオススメします。Go Go Go Go!!!!!!!