「カッコいいババアが足りない」
カッコいいジジイは居るのに、
カッコいいババアが足りない。
美魔女とか、
ロリババアとか、
いくつになっても男性から性的に見られるとか
そういうんじゃなくて。
「SAND LAND」(鳥山明による日本の漫画作品)に出てくるシバ将軍のような、
顔面に深い皺が刻まれた苦みばしった賢いババア、
そういうカッコいいババアが主人公の物語りが、
圧倒的に足りないのだ。
女の子には“多様なロールモデル”が必要なんじゃないのか、何故そういう物語りが少ない(ほぼ見当たらない)のか。
「映像研には手を出すな!」(大童澄瞳による日本の漫画作品)の浅草氏や金森氏を観た時、こういう女性キャラクターが主人公の作品が幼い頃にあったら良かったなぁと心底思った。
当たり前だが、
女の子は成長して女性になり、老婆になる。
「いつまでも若く」はいられないのだ。
大人が最新技術を高いお金で買って全身整形するのはお好きにどうぞだが、
小学生が美容体重を目指してダイエットしたり整形するとか、怖すぎて震える。
40歳を過ぎた女性がノーメイクやグレーヘアになっただけで、「女を捨てた」とか言われる事も腑に落ちない。
そもそも、「女」というのは捨てるものなのだろうか。
仮に捨てられるものとして「女」を捨ててみる。「女」を捨てたとして急に「男」にはならないように思うが、「男」はどうだろうか?
「男」を捨てるとはどんな状態を指すのか、女らしい仕草をする男性?女装だろうか?
「男」が男として居ながらにして「男」を捨てるという状態が「女」の場合よりも想像しにくい。
もしかしたら、捨て難いのが「男」という状態なのだろうか、やはり、「女らしさ」も「男らしさ」もどちらもやっかいなものだなと思う。
既にある物語りの主役を「多様性」って意識を元に変えまくるのには賛成出来ないが、
可愛かったりセクシーだったりする主人公が居たり、そうじゃない主人公が居たりしたほうが
女性達は自分を重ねやすいのではないかと思う。
この話に共感してくれる女性達は居るには居るが、
「なら、一緒にカッコいいババアを目指しませんか?」
と誘うと、波が引くように誰も居なくなる。
あ、また、
誰も居なくなった。
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