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「私達のオーガズムってめちゃくちゃ似てるよね!」

「間(マ)」についてnoteに書いた後、
「どうしても本物に思えてしまう間」と「どうしても偽物に思えてしまう間」について考えていた。




世阿弥が「風姿花伝」の中で[時節感当]と言い当てたアレである。

時を当てて行く、最初の一音だけではなく、常に時が当たる瞬間を確かに舞台上では感じるのである。

姿形の無い、目に見えない「間」に本物と偽物があるなんてなんだか変な話だが。


何故そのように感じてしまうのか、
そのように感じる感覚はいったいどのあたりからやって来るのか。


考える過程で、開祖も教義も無いナイナイづくしの古代神道に辿り着き、何も無いのに「何か」があるように(居るように)感じてしまうのは何故なのかを、
「ポチのようなもの」という仮説で遊んでみたりした。


その後、これはかなり近い間隔なのかもしれない!と思わせる文章に辿り着いた。

それは、「性と芸術」(会田誠)p165に書かれていた。

「性と芸術」会田誠

男性に限った話になりますが、なんせ昨日まで黄色くて透明でサラサラしたおしっこを出す管としか思ってなかったところが、突然鎌首をもたげ、ネバネバした白濁液を吐き出すのですから。少なくとも僕にとってそれは「精神の天変地異」と呼ぶに相応しい大事件でした。
あの時一瞬にしてすべてを了解した気がするのです。
多くの言葉や情報によるのではない、一つの体験というシンプルな要素による、肉体的・直観的な了解。あれ以来人生に新しいことは本質的に何一つ加わっていないあの瞬間が人生のピークで、あとはすべて惰性と余剰の時間だったのではないかー。努力や進歩を拒絶した悪い考え方とも思いつつ、僕はこの実感を手放すことが未だできません。

「肉体的な了解」

今の段階では、この言葉がしっくりくる。


「どうしても本物と思えてしまう間」はオナニーによるオーガズム体験前と体験後くらいに違うものだと言える。


その感覚は既に肉体(脳など)に記載されている情報ではあるが、かなり奥の方にあり容易にはアクセス出来ない。

しかし、一度アクセスすると二度目は一度目の体感➕記憶を頼りにアクセスしやすくなる。


時が当たる感覚、すなわち「どうしても本物に思えてしまう間」は一度体験すると二度目からはアクセスしやすくなり、わざとアクセスしないという風にも出来る。



しかし、ここで、疑問が生じてしまった。



みんなが感じているオーガズムは私が感じているオーガズムと同じ(もしくは非常に似ている)ものなのだろうか?
それを確かめる術はあるのだろうか?

座談会でも開いたら
「オーガズムって、どれもおんなじ感じなんですねー。」って事になるのだろうか?



伝統芸能における「どうしても本物と感じてしまう間」は、

「私達のオーガズムめちゃくちゃ似てるよね!」

って言えるくらい皆んなが同じように感じてしまうという現象が起きる。



「あ!いま間を外したね」

「あ!今度は間延びしたね」

「あらあら、今度は間が詰まり過ぎたね、まだまだ若いね」

と言った感じに。


不思議。



このあたりの事は更なる追求が必要なので、今回はこのへんで。

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