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小澤實『芭蕉の風景』下 レビュー

小澤實『芭蕉の風景』下巻、読了。上巻読了後、一気呵成に下巻まで読み通す気持ちは有していたものの、年末の些事および諸行事その他とともに、別の主題で学術書を読む必要にも迫られ、それらを言い訳に、あえて下巻はゆっくりと読み進めていると自分自身に言い聞かせて、気づけばひと月以上の読書時間となった。
言うまでもなく下巻の白眉は、芭蕉の、というより日本文学の最高峰の一角に堅牢に位置付けられる『奥の細道』をたどる前半部である。『奥の細道』からこぼれた句作にも言及し、松尾芭蕉というある種、奇跡、とも称したくなる俳人が何故、同書となる旅路にあったのか、その道すがら何を観て、何を聴いたのか、小澤氏は、それらについて先学の達成に敬意を払いつつ丁寧に誠実に向き合って、実際にそれらの地に赴き、風の音を聞き、木々の魂と向き合っている。その小澤氏の道のりに読者として同行し、あまりに名高い名句ひとつひとつを噛みしめる。なんと幸福な瞬間の連続だろう。読書の喜びここに極まれりといった感興を何度ももたらしてもらえたことだった。さりげなく触れられた、個人的には中学生のとき夢中になった庄司薫の小説で接して以降耳奥に残り続けてきた芭蕉忍者説への共感表明もまた楽しかった。そして、小澤氏が体感したように、松尾芭蕉という俳人が、様々に点在するゆかりの地でどれほど深く愛されているか、その奥深い実態にも触れることができた。それは決して街の名士とは限らない。小澤氏が何気なく乗ったタクシーの運転手さんまでが、芭蕉についての知見を有しておられる。そのことを小澤氏のたおやかな筆致により読者であるわれわれは教示され、驚愕させられるばかり。どのページにも各所での芭蕉を愛する人々との出会いに表情をほころばせる小澤氏の心の浮きたちようが横溢し、それを相伴させてもらえることでで、あらためて『奥の細道』の大きさを体感させられる章立てとなっている。
ところが、その旅路を終え、京都と大津、そして伊賀など上方を漂白し、そののち江戸深川に戻るも伊賀を目指し大坂へと向かう続く2章は、連載読みものらしく終始結構そのものはなんら変化ないのに、読む側の問題なのだろうか、一頁一頁の印象が変容する。
芭蕉自身、新境地とも言える「かるみ」を追求し始め、そのことで高弟と不穏な関係を生み出してしまい、また、何人もの高弟たちの早世に心砕かれ、自らの「老い」とも向き合っていく。そのせいなのだろうか。いや違う。『奥の星道』後は、本書から語りかけられるものに間違いなく大きな変容があったのだ、とそう思う。
まずもって頁を繰るごとに目の当たりにさせられる小澤氏の行動範囲は瞠目させられるばかりに広大である。一句から「海苔」の生産現況を知るべく金沢八景に出かけたり、「鰹」を求めて鎌倉の西のはずれの漁港に立ち寄ったり、昨年大きな話題の中心になった「鎌倉殿」ゆかりの武士の鑑とされる偉丈夫の故郷で伝承の意味合いを見つめたりまでしている。そしてそれらの踏査は、芭蕉の内奥に迫る以上に、現代俳句を牽引する俊秀小澤実その人の『奥の細道』そのものであるような趣を醸し出しているのだ。
そして、なんということだろう。筆者小澤實その人が、いつしか俳聖に重なり始めてしまうのである、というと、何を馬鹿なとご本人から叱責されそうだが、尾形仂、山下一海の名も並べられ、小澤氏と過ごした遠い学窓の時空を想起させられる、この上巻も併せての大冊2巻に詰まった時間の重みは、少なくともぼくに通り一遍の読書を許さない。あの頃から、弛まず小澤氏は確実に俳人としての歩を重ねているのだな、と思いを飛ばすと、ある側面にあっては、確かに俳聖に重なってしまうのである。芭蕉の足跡を辿り続ける小澤實氏に黙して同行しながら、いつしかぼくらは小澤實の内側に分け入り、氏自身の発見に立ち会い、句によっては従前の評価に意を唱える字句に納得して、素直に賛同している。
中学生のころから蕪村が描いた芭蕉像を当たり前のように受け止め続けてきたせいなのかもしれないが、芭蕉の没年51とあらためて知らされると心穏やかではいられない。同書大団円部分の芭蕉最晩年の描出は、芭蕉の諦念、慟哭とともに、なお果しえない四国、九州への旅、蕉風の真の完成への夢を読者につきつけ抒情とどまるところがない。高弟の諍い仲裁に疲弊し、夢は枯野を駆け巡らざるを得なかったとは、なんと悲痛な終幕だろう。下巻前半部に溢れていた小澤氏の笑みが消え細り、最終章は悲しみに縁取られて、芭蕉と小澤實ふたりの畳み重なる見果てぬ夢への慟哭沈痛。それゆえにこそ、当たり前のように添えられた巻末索引に慰撫されるのである。
しばしの時をおいて、再読必須の大冊2巻であった。

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