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古典劇上演雑感 ショーン・ホームズ演出『桜の園』をめぐって

 ショーン・ホームズ演出のチェーホフ『桜の園』英語版サイモン・スティーヴンス版がPARCO劇場の会場50周年記念シリーズとして上演中である。
 ラネーフスカヤに原田美枝子、ロパーヒンは八嶋智人、フィールスを村井國夫という布陣で、安藤玉恵、川島海荷、前原滉、市川しんぺいなど中堅・若手を揃えて、ガーエフに松尾貴史を起用している。
 10年前の三谷幸喜版では、喜劇であることを全面に押し出しすぎたいささか賑やかな仕立てにやや困惑したことが懐かしい。同じ劇場で名作古典をどう観せてくれるのか大きな関心興味をもって、新装なったPARCO劇場に足を運んだ。
 三谷幸喜は、前説という位置付けで家庭教師役の青木さやかにプロローグ風味の歌唱を担わせていたが、今回の舞台は現代の木材伐採業者の身繕いの長島敬三(浮浪者役であることが劇中で分かる)がヘルメットを被りチェーンソーを手に冒頭登場し、舞台『桜の園』の開幕を告げる。現代戯曲家は、素朴に物語を開始することに何かしら課題意識を有しているのだろうか。そう感じさせられた相似形だった。
 物語が始動し、ロパーヒンは今風の仕立ての良い三揃い。三輪車が、幼くして早世したグリーシャを象徴する形見として小道具として際立っている。この舞台は、このトーンなんだなと受け止めたところでラネーフスカヤ一行の到着。この場面の直線性とスピード感は刺激的だった。とりわけその集団性にあっての原田美枝子の艶やかさが美しく素晴らしい。台詞のやりとりも間然とするところなく胸すく鮮やかさ。ガーエフの口喧しさを唐突なハンドマイク使用で戯画化するなどは、なるほど、と膝を叩きたくなるしつらえである。古典を現在に再生させるとはこのことかと納得させられたことだった。
 しかし原作第二幕目の第2場以降、一挙に個人的感興は舞台の風船とは反対にしぼんでいくしかなかった。同幕原作設定は「野」である。いかようにも出来る脚本、演出の腕の見せ所と言えるだろう。物語としても重要で、若い世代の恋愛模様や世界観、最後には新たな旅立ちなどが示され、ラネーフスカヤはロパーヒンの提案を一蹴し、伯母からの借金を思いつく。古きにしがみつくものと新世界へと向かおうとする者との明らかな隔たりが描出される場なのだが、これをショーン・ホームズは、あたかもすべてが白日の元に晒されるとでも言わんとするかのように真夏のピクニックの様相でビニールプールを配置し、家庭教師シャルロッタは、なんと水着である。加えて登場する小道具が理解不能の100円ショップで見かけるピコピコハンマー。もはや哲学、教訓どころではない。演出は、それをこそ笑止千万と意味づけようとの仕立てなのかもしれないが、これはいただけない。せっかくの舞台がすっかり学芸会である。 
 原作の三幕、四幕に相当する後半第二幕目は、3幕目の舞踏会がさらに深刻で、学芸会にすらならない乱痴気騒ぎ。被り物不要!終幕のみ一幕目のトーンに復したが、観客である自分の思いは戻らない。ただひたすら原田美枝子の美しのみを追いかけ、フィールスの最後の述懐のみを待ち続けていた。そして、ずっと古典名作の上演とはなんだろうと考え続けさせられた。学生の頃に観た劇団四季の、ただただ真っ白だった藤野敬子のラネーフスカヤが懐かしいというより愛おしくてならなかった。
 老齢者の偏屈な享受拒否でしかないのだろうか。溜息をつきながら、このレビューを記した。やれやれ。

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