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寒暁のノクターナス(仮) 第一話

 頭の上で、ケータイの震える音が響いている。硬い板の上に置かれたケータイは、硬質な音を目一杯響かせる。深い眠りについていた私の意識は、小刻みな振動と冷たくて硬い枕に呼び起こされた。
 うっすら目を開けると、散らかり放題の見知らぬ部屋で、冷たいテーブルに突っ伏していた。背中に掛けられていたのは毛布ではなく、私の上着。空調もその他の暖房器具も見当たらない部屋で、よく風邪を引かずに済んだものだと思いながら身体を起こした。
 いつ寝たのか、どれだけここで寝ていたのかも思い出せないけど、身体の強張りが一番雄弁かもしれない。椅子の上で身体を解しながら、まだ血が巡り切っていない頭で辺りを見回す。目もまだ開き切らないし、そもそもメガネをかけていないから見えるはずもないが、やはり見覚えのない部屋な気がする。
 ケータイの横に、赤いフレームのメガネも置いてあった。ケータイの下には、一枚の一万円札が挟んである。メガネをかけ、両手に息を吹きかけると、部屋の中だというのに吐いた息は白かった。足元にずり落ちてしまった掛け布団代わりのコートを拾い上げ、袖を通して暖をとりながら、寝る前の出来事を必死に思い出す。
 昨夜は確か、編集長の帰社と入れ替わる形で外に出て、駅前の現場に駆けつけたはず。非常線の前にいた警官に断られ、肝心の現場には踏み込めず、有力な目撃者の証言も得られないまま、手ぶらで事務所へ戻るつもりだった。
 空振りで帰社して編集長にドヤされるのが嫌で、見落としがないか周辺を念入りに調べていたら、黒尽くめの怪しい若い男を見かけたから追跡してたんだ。暗がりで顔とか年齢とか、細かくは分からなかったけど、スラっとしていて背の高いシルエットだった。
 それで、その後どうしたんだっけーー。
 肝心なところを思い出せず、椅子の上で頭を抱えているとケータイが再び震え始めた。画面を見ると、編集長からの電話だった。私は慌てて電話に出た。
「おはようございます、じゃないんだよ。いつまで取材してるつもりだ、茂上」
 電話の向こうで、編集長はお怒りらしい。私は腕時計を確かめた。すでに午前八時を迎えようとしている。取材に出てくると事務所を飛び出してから、連絡もなしに八時間弱。そうなるのも、致し方ない。
 私は見えるはずもないのに頭を繰り返し下げながら、「はい、はい」と相槌を打った。
「それで、いつ戻ってくるんだ?」
「えぇっと……」
 編集長の問いに、私は顔を上げて周囲を見渡した。横にあったバッグから手帳を取り出すものの、ネタとして使えそうな記述はほとんどない。おまけに、ここがどこかもよく分からない。
「九時前には戻れると思います」
 散々答えを迷った挙句、一時間も見積もってしまっては、「九時だぁ?」と編集長が怒るのも無理はない。私がひたすら、すみませんと頭を下げると、編集長は「九時には絶対に戻って来い。一秒でも過ぎたら、お前の私物は窓から投げ捨てる」と電話を切った。
 これまでも、入社以来ポンコツ記者を貫いてきたけど、今度はマジでヤバいかも。電話を切ってから通知を確かめると、編集長からの電話もメールも何件も届いていた。取材に行くと長時間外出しておきながら、連絡もなしに手ぶらで帰社は、私物どころか席も危うい。
 クビになる覚悟はしておこう。後はそれらしい見た目と雰囲気も作っておかねば。ケータイのカメラを切り替え、鏡代わりに自分の顔を確かめた。無理な体勢で寝たからか、髪はボサボサ、我ながら顔も酷い。元々大したメイクはしていないけど、寝起き丸出しは不味い。
 念のため、服の上から身体の匂いも確かめる。シャワーも入浴もしていないはずだけど、匂いはなんとか誤魔化せそう。後はどこかで顔を洗おう。コンビニに駆け込んで、最低限のメイクをするのも良い。
 まずは、ここがどこなのかを確かめなくては。大きな掃き出し窓から外を見るに、昨夜駆けつけた現場、駅前付近らしい。それなら、コンビニも事務所もそんなに遠くない。コンビニで朝食を摂っても、一時間も掛けずに戻れる。
 せめて家主に挨拶しよう。どんな経緯でここまで来たのか、なぜ椅子の上で寝ていたのかもまだ思い出せないけど、一声かけるぐらいは常識だろう。
 散らかり放題の部屋の中、大事なものや尖ったものを踏まないように気をつけながら、ゆっくり足を運ぶ。今いるのがどうやらリビングで、正面に見える細い廊下の向こうに、玄関らしいドアが見える。
 マトモに使われていなさそうなキッチンの横を抜け、薄暗い廊下に出た。トイレやお風呂、納戸がついていて、玄関の横にもう一つ部屋があるらしい。玄関の靴を見る限りでは、家主はそこにいるみたい。
 私はドアを軽くノックして、返事を待った。しばらく待っても反応はない。仕方なく、「失礼しま〜す」と小声で静かにドアを開けた。北向きの大きな窓にはブラインドが降ろされ、部屋の中は薄暗い。僅かな明かりで微かに見えるのは、ダブルサイズより一回り大きいベッドと、その上に横たわっている長身の少年。彼は毛布や掛け布団にくるまらず、真っ黒なロングコートを身体にかけて寝息を立てていた。
 暗がりなのと、コートで鼻の下が見えないのもあって全部は見えないけど、美男子の部類に入りそうな顔立ちだ。アイドルグループとか、モデル出身の俳優さんにいても良さそうな、可愛らしさもある。
 ベッドの横にある机に目をやると、天板の上に、少年のものとは思えない身分証が置いてあった。名前は、朽木京志郎。五十代男性。顔立ち的に、彼の父親とも思えない。
 この名前と顔、つい最近もどこかで見聞きしたような……。
 身分証に手を伸ばすと、そちらに気を取られて足元の注意が疎かになっていた。床に転がっていたフィギュアを踏みつけ、足に激痛が走る。つい、大きな声が出てバランスを崩した。そのまま前のめりに倒れるかと思いきや、途中で誰かに受け止められた。顔を上げると、少年が私を抱き抱えていた。
 彼は眠そうな目で、大きなあくびをした。
「何?」
 線の細い顔立ちに似合わない、心地いい低い声で言った。私は彼の手を借りて、ゆっくり身体を起こす。私が握り締めていた身分証を見て、少年は「ああ、昨日やった人だ。その人が、どうかした?」と、面倒臭そうに言った。
「昨日やった?」
「それで、ウチまでついてきたんでしょ。オバさん」
 私の質問に、彼は飄々と答えると再びベッドへ戻った。オバさんという呼び方に引っかかりながら、それを一旦棚に上げて眠ろうとする彼を呼び止める。
「私が、キミを追いかけた?」
「延々と追いかけて来て、昨夜の晩メシとシェイクを奢って、ウチまで押しかけた。深潮社の記者さんでしょ。じゃ、お休み」
 彼はそう言うなり、コートを首元まで引き上げて再び寝始めた。中学生には見えないけど、社会人にも見えない。一人暮らしの未成年をストーキングして、上がり込んで一晩明かしたとなると、「何か」があってもなくても、よろしくはない。
 追加の質問をしたくても、彼は目覚める気配がなかった。腕時計に、新着ニュースの通知が表示された。私は通知の内容より、時間を見て慌てた。九時には戻らねばならないというのに、余計な時間を費やしてしまった。
 家主への挨拶も済ませたと判断して、さっさと靴を履いて外へ出た。下へ降りるには、すぐ脇にある階段を降りるしかない。「関係者以外立ち入り禁止」のロープを跨いで、一つ下のフロアに降りると、「キツネ亭」の前に出た。流石にこの時間は暖簾が出ていない。
 私はキツネ亭の前で下に降りるエレベーターを呼び、ゴンドラに乗り込んだ。ゴンドラが下へ動き始めてから、誤って朽木京志郎の身分証を持ち出したことに気がついた。

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