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初めての断髪

 「お母さんのかみ」

 お母さんのかみはとてもきれいです。おしりまでとどくかみはまっすぐできらきらしています。
 お父さんも「お母さんのかみはきれい」だってほめてくれます。
 お母さんはかおを赤くします。
 そしてお母さんはうれしそうにかみをまるでたからもののようにブラシでとかすのです。
 そのときのお母さんはいつもよりきらきらとかがやいてとてもきれいです。
 そんなお母さんのすがたを見ると、わたしまでうれしくなります。
 わたしはそんなお母さんがだいすきです。

                               二年三組 手塚知美

 知美が満足そうに作文を読み上げると、一斉に拍手がなる。知美は少しはにかみながら席に着く。
「はい。よくできました。手塚さんのお母さんのことが大変よく書けてますね」
 後方で妙齢の女性が恥ずかしそうに軽く頭を下げる。その動作に合わせるかのように胸まで届く長い髪がさらりと揺れる。
 しっとりとしていてまっすぐな黒い髪は、授業参観に参加したほかの女性たちの羨望のまなざしを受けていた。
 それは上品な陶磁器を思わせるみずみずしく透き通るような肌によく似合っていた。
 清楚でそれでいてどこかに意志の強さを感じさせる手塚翠の姿にこのクラスの担任である奈良原由里菜も思わず見とれていた。
「――せ……先生! もう座っていいですか?」
 知美の声に由里菜は強引に現実の世界へと引き戻される。
「ああ、ごめんなさい。手塚さん、もう座っていいわよ。
 それじゃあ次は並木さん」
 授業参観は再開される。しかし由里菜の両の瞳は授業が終わるまで翠の黒髪に釘付けのままだった。

 授業参観の後の下校は母親と一緒に帰るのがこの学校の暗黙の規則となっていた。中にはそのまま家族そろって外で夕食としゃれ込むの者も少なくはない。
 知美も翠の背中でたっぷりと揺れる長い髪を見ながら家路に向かう。
「並んで歩けばいいのに……」
 すぐ後ろを歩く我が娘に翠は苦笑いを浮かべる。知美はすっかり上機嫌だ。
 小学校に入学したばかりの知美は、それこそぴったりと横に貼りつくようにして並んで歩きたがったものだ。

(自分の知らないうちに娘はどんどん大きくそして大人に成長してゆく……)
 これが「幸福」といものなのだろうか……翠の胸の中に嬉しさとほんの少しだけの寂しさが沸き上がった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「やだ……昔の作文」
 クリアファイルにきちんと折り畳んだ作文を見て、知美は思わず苦笑いを浮かべる。
 もうすぐ使うことのない中学校の教科書を押し入れにしまい込んでいる際ひょっこり出てきたのだ。
 目を覆いたくなるほど稚拙で汚い文章だが、それでもその頃の思い出が甘く鮮明に浮かび上がる。
「……『お母さんのかみはとてもきれいです』か……うふ、うふふふ」
 知美は頬にかかる一房の髪を手に取る。母親の影響で一度も短くしたことのない髪は膝にかかるほどだ。
 母のように長い髪にしたいという思いで伸ばし始め、そして腰まである母親の髪よりもすっかり長くなってしまったが、知美は切りたいと思うことはなかった。
 ここまで長いと手入れも大変なのだが、むしろ知美はこの髪のために長い時間を惜しむことなくむしろ喜々として費やす。
 母から貰った鏡台に座り、一房一房丁寧にブラッシングをする。

 ――きれいになれ……きれいになれ……きれいになれ

 それに答えるかのように櫛が通るたびに長い髪は光沢を増す。それを鏡越しに見ているのが知美にとって至福の時間だ。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「お母さん? 今なんて……言ったの?」
「妊娠したの。きっと女の子よ」
 それはいつもの夕飯の会話だった。いつもと同じ和やかな日常の世間話から急に翠の口からその言葉が出たとき、知美は一瞬空気が凍りついた気がした。

 そう言えば最近気分が悪いかのようにお母さんは何度か嘔吐をしたことがあった。あの時はまさかと思ったけれど
「知美?」
「あ……ご、ごめんね」
「それでね明日、髪を切ろうと思うの?」
「え? か……み?」
 翠はいつもと変わらぬ笑みを知美に返す。
「でも……なんでお母さん髪切るの? 妊娠と髪を切るのって全然関係ないのに」
「願掛けなの……ちゃんと元気な赤ちゃんが生まれますようにって。知美が生まれる前にもね、お母さんそうやって髪を切ったらちゃんと生まれてきたから今度も……」
「そうなん……だ」
 知美は今にも倒れそうなほど蒼白な顔に変わる。
「大丈夫? 知美」
「ううん。だ、だいじょうぶ。でもお父さんは?」
「お父さんもね、あきらめたみたい」
「あ……きら……めた」
(嘘! 嘘だ! お父さんだってお母さんの髪大好きなのに、あんなに誉めていたのに)
「それでお母さんいつ切るの?」
「明日。知美も一緒に行く?」
 知美は翠の言葉に大きく頷く。
 お母さんだってあんなに髪を大切にしているんだもん。きっとそんなに切らないだろう。知美の甘い期待が翌日もろくも引き裂かれる運命であることをその時の知美は知る由もなかった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 翌日翠が知美と行ったのはいつも髪をカットしている近所の美容院だった。
 店は小さく、外観も内装も今の流行から取り残されたような感じを受ける。それでも客足は決して途絶えるときはほとんどなく、その日もなんとか午後の予約をようやくとれる状況だった。
 店内はカット台が3台しかなく、知美が扉を開くと同時に20代後半の女性がきれいに短めに揃えた髪にほのかに鼻をくすぐるシャンプーの香りを添えていた。
 全体的な長さは耳が半分隠れるあたりのラインで切り揃えられ、襟足の方はすっきりと刈り上げられたベリーショート。
 顎のラインのシャープさが強調され、その髪型は彼女によく似合っていた。
 知美はその髪型を見て少し不安にかられる。
 まさか自分の母親もバッサリと髪を短く切ってしまうのではないか。一歩一歩足を進めるたびに知美の動悸が激しくなる。
 店内には翠と同年代ぐらいの女性店長の静音とアシスタントの女性の二人だけだ。
「いらっしゃいませ。今日は知美ちゃんと一緒にカット?」
「ええ。今日は私だけなんです」
「そうですか? すみません。いつも一緒に来るときはお二人ともカットされるものですから……つい。それではこちらへどうぞ。千枝ちゃん、お客様お願いね」
 知美とさほど年齢が変わらないように見える少女がぺこりと頭を下げる。その少女が翠をシャンプー台へと誘う。
 しばらくすると翠は長い髪を頭に巻いたタオルでまとめ、カット台に座った。
 そこまでは普段のカットの時となにも変わらない光景だ。
 千枝と呼ばれた若い店員がいつもの通り手際よくケープを翠にかけると、頭に巻いたタオルをゆっくりと解き始める。すでにシャンプーでほどよく濡れた長い髪が重たい音をたてて翠の背中をたたき、より増した光を帯びた黒髪が再び背に流れる。
「今日はどうなさいますか?」
「……思い切り短くしてください」
 翠がそう答えると今まで優雅な動きを見せていた櫛がぴたりと止まる。静音は困ったような顔を鏡ごしにのぞかせる。
「よ、よろしいんですか? 短くして」
「ええ……どうせだから耳も出しちゃってください。それから後ろの方もうんと短めにお願いします」
「……わかりました」
静音は小さく頷くと何事もなかったように再び櫛を翠の髪を舞台にして踊らせる。
ゆっくりと……丁寧に……

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

(見ていよう……ずっと見ていよう)
 知美は翠の背中でつやつやと光る黒髪を食い入るようにして見つめる。やがて静音は一筋の銀色の光を手に取る。
(いよいよだ……あの鋏がお母さんの髪に入ったら、お母さんの髪は……)
 想像しただけでも思わず目を閉じそうになるのを知美は拳を力強く握りめ必死に耐える。
 そしてそれは何気なく、ふいに始まったのだ。

 ――ジャキ、ジャキリ、ジャキン……
 顎下のあたりで一直線に鋏が走ると、今までそこにあった黒髪がバサリと舞い落ちる。
 それはスローモーションのようにゆっくりと床に落ちた。いや、知美にはそう見えただけだ。
 顎下まで切った左半分の髪が今度は耳の上からハラハラと落ちてゆく。
(お、お母さん!)
 いっそのこと飛び出して店長の手を引き留めたかった。それができなければ強引にでも翠をここから連れ出したかった。だが知美の体はまるで冷え切っているかのように小刻みに震えて、とてもそんなことは出来ない。
 やがて右半分も左側と同じように短く切られていった。すでに床の上は切り落とされた黒髪に埋もれていた。
 唯一長い後ろの髪にも鋏は容赦なく入り出す。その時の音は今までよりも重くそして鋭く知美の耳に突き刺さる。

 ジャクリ、ジャキ、ジャキ、ジャキ……ン……バサバサバサ。

 今にも溢れ出さんばかりの涙を浮かべる知美の瞳にはあのころの風景が映っていた。
 小さい頃背中で豊かにきらきらと光り、いつも背中で楽しそうに泳いでいた翠の長い黒髪。狂った映写機のごとく、それのシーンだけが知美の瞳の中で繰り返し映し出されるのだ。やがてその世界に騒がしい音が入り込む。
 知美は涙を拭うと静音の手に見覚えのない小さな物体が握られていた。
「本当に……いいんですね」
「はい」

 鏡に映る翠の顔は切る前と寸分変わらない小さな笑顔を浮かべている。
 静音は後ろの髪を一房にまとめ、翠のうなじが露わになるまで持ち上げる。小さな物体を握ったもう一方の手がゆっくりと翠のうなじに滑り込む。

(なに? なにが起こるの?)

 ヴィーン……

(ねえ! 笑ってないで教えてよ! おか……)

 ヴィー……ヴ……チョリ……ジョリジョリジョリ……ジョリジョリ……ジョリン。

(……あ……さ……ん……おか……あれ?……後ろのほう……変……だ……よ。おかあさん? だって地肌が……透けて……え?……え? え? え? あれ……今私の勘違い? だってついさっきまでそこに肩までになっちゃったけど、髪が……あったんだよ)

 ジョリジョリジョリ……バサバサバサ

(あ……あ、ああああああああああああああ! お母さん、お母さん! お母さん!)

 バリカンによって翠の髪は容赦なく刈り上げられていく。襟足からゆっくりと入り込み、あっと言う間に耳の上あたりまで突き進んでいった。
「お、お母さん、お母さん!」
 知美が今精一杯できること――それは翠の後頭部が無惨に刈り上げている光景を知美はただ涙を流し見ることだけだ。
 襟足の方から耳の上までバリカンは容赦なく翠の髪を刈り上げていった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「ほら! 知美。もう高校生になるんだから……泣かないなの」
「だって……だって……お母さんの髪が……」
 美容院に入る前までには腰まであったつややかな黒髪、今の翠の姿からはどこからも想像することはできないであろう。
 かつては顔を隠すほどあった前髪は眉の前まで切り揃えられ、かつては髪に隠れていた耳は露わになり、それに沿うようにうっすらと青白い肌がのぞきそこから短く刈り込まれた髪だけがある。
 少し前まであった優美で繊細なイメージはなく、かわりに鋭角なりりしい翠がいる。
「ね、知美。髪はいつだって伸びるから……泣きやんで」
「う、うん」

 知美にはわかっていた。本当はお母さんの方が泣いているんだということ。
 髪を切った翌日、いつものように翠は髪を解かすため鏡台に向かった。その時何度も何度櫛を握った手が宙を所在なげに泳いだ。それを鏡越しに見た翠の母親の表情は今にも泣きそうな表情だった。

「私のせいだ……私が子供のころあんなことを望まなければ……」

 知美の頭の中は無意識のうちに罪悪感で埋もれていった。その罪悪感に対し為すすべがなく、それがあふれ出さんばかりになった時、頬にかかる髪を見てふと脳裏に横切った唯一の償い。ただひとつ知美自身が出来る精一杯のこと。
 その決意を胸に知美はいつもの帰路から商店街の方へと足を向ける。
 その決意を実行すべく場所が目に入る。それが目に入ったとたん、知美の足はがくがくと震え、心臓は飛び上がらんばかりに踊り出す。
 それでも知美は足を進める。ゆっくりとゆっくりと一歩一歩確実に。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

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