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一グラムの幸福

<5>あなたを忘れる魔法(下)

(1)詩織

ショーウィンドウに一人の少女が映った。
 彼女は呆然と立ちつくし「ふ、藤崎……先輩?」と驚いた表情を浮かべている。
「藤崎先輩、その髪……」
「う、うん。ちょっとイメチェン。少し鬱陶しくなってきたから思い切って切っちゃっ
た」
「そ、そんな。あんなに似合っていたのに……」
 さながら自分のことのように萩原さんは悲壮の表情に変わる。
「萩原さん、コウのことよろしくね。私じゃだめなの。私コウのこと好きになる資格ない
から」
「詩織さんの馬鹿!」
 横顔を思いっきりひっぱたかれたような激しい声が萩原さんから返ってきた。
「コウ先輩、詩織さんのことずっと思っているのに……
 そんなのひどすぎます。コウ先輩は詩織さんのことだけで私なんかが入る余地なんかな
かったのに。それなのに……」
 その言葉を耳にして私の心の中で凍っていたものが溶け始める。
 それは心の中で封じ込めていた私の本当の気持ち。
 コウの存在が勢いよく再び私の心の中に満たされてゆく。

――コウ……コウ、コウ!

気がついたら私はコウの家へ向かって走っていた。
 息を弾ませながら呼び出しのベルを馴らしてみるが、ベルの音だけがくぐもってコウの
家の中でこだまするだけだ。
 所在なく自分の家の方に目を向けると、郵便ポストに今にもこぼれ落ちそうな封筒が入
っていた。
 封筒を手に取ってみると、そこにはコウの字で「詩織へ」と書かれていた。

(2)コウ

俺はこの樹の下で待っている。
「詩織なら必ずここがわかる」そう信じて……

(3)詩織

『詩織へ
 二人にとって忘れられないあの樹の下で待っている。
                         ――コウより』

コウからの手紙にはそれだけしか書いていなかった。
「あの樹の下?」
 まるで思い出せない。でも伝説の樹の下じゃないことは確かだ。
 ――どこなの?
 速まる気持ちを抑えるのに深呼吸をして目を閉じる。
 やがてぼんやりと人の光景が浮かび上がる。
 公園をまだ幼い二人の子供がはしゃぎ合っている。
 一人は六歳ぐらいの男の子、もう一人は同年齢ぐらいの女の子だ。
「ねえ、コウちゃん。ちょっと目を閉じてみて」
「え? う、うん」
 男の子が素直に目を閉じると、女の子が悪戯っぽい笑みを浮かべて男の子に近づく。そ
して二人の影が軽く一つに重なり合った。
 その二人の影には大きな樹が風に小さく揺れていた。
「きらめき公園!」
 私はありったけの力を振り絞ってきらめき公園へ向かった。

(4)コウ

もう少しで日が暮れてしまう。
 だがまだ詩織は思い出すことが出来なかったのだろうか……
 すでに数え切れなくなったほどのため息をつく。
 もう帰るかという思いを小さな足音が遮る。
 つややかな髪を惜しげもなくベリーショートにした少女の足音だった。
 俺はただ呆然とその少女を見つめることだけしかできない。
「コウ……」
 息を弾ませながら詩織は思い詰めたような表情で俺を見つめている。
「詩織……おまえ……その髪」
「う、うん。思い切ってショートにしたんだけど……似合うかな?」
「似合うけど。どうして? ずっと小さいときから長い髪だったじゃないか」
「私……見たんだ。コウと萩原さんが伝説の樹にいるところを。それでね、私もうコウの
こともう忘れようと思ったの。それで私髪切っちゃったの。
 長い髪とともにコウのこと封じ込めようと思って」
 恥ずかしそうな表情で詩織はペロっと舌を小さく出す。
「俺……初めてわかったんだ。俺には詩織しかいないんだって……
 もっと早くちゃんと気づけばよかったんだよな」
「ううん、私こそごめんね」
「そうだ! 詩織に返さなきゃいけないものがあるんだ。しばらく目をつぶってよ」
「え? う、うん」
 詩織はおずおずと目を閉じた。
 俺は詩織の柔らかそうな唇を静かに自分のと重ねる。
 最初詩織は驚いたように小さな体を強ばらせたが、次第に安心したかのように俺に体を
預ける。
 俺はちょっと力を入れてしまうと壊れてしまいそうな詩織の体をできるだけ優しく包み
込む。
 どのくらい時間がたったであろうか……
 やがてどちらかともなくゆっくりと唇を離した。
「ほら、ちゃんと返しただろ」
 俺は詩織に笑みを向ける。
 詩織は顔全体を真っ赤に染めて小さく「馬鹿」と呟くだけだった。

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