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黒髪儀礼秘話外伝 ー罰の章ー

朔:陰暦の月の第一日。ついたち。月と太陽とが同じ方向にあって、地球に対して月の暗い面を向ける。

岩波国語辞典第六版より引用

――  -159

黒髪の禊を忘れてはいけないよ。
 誰も見ていないように見えるけれど祠の神様は見ているからね……

真理はがばりと跳ね起きる。もう初冬も過ぎたというのに、真理はじっとりと寝汗をかいていた。
 手がかろうじて届く高さに置かれた目覚まし時計は午前4時を指していた。
「また、この夢を……」
 真理はその夢を必ず週に一二度は見る。

夢? 本当に今見たものは夢なのだろうか……うる覚えでも夢ならばその1シーンぐらいは思い出せるはずだ。でも今見た夢はどうしても映像が浮かんでこない。いやそうじゃない。もしかしたらそもそも今の夢に映像と呼べるものがあっただろうか。もしあったのならば、それは限りない漆黒の色、あるい虚無の色に違いない。

音は――

黒髪の禊を忘れてはいけないよ。
 誰も見ていないように見えるけれど祠の神様は見ているからね……
 という声だけだ。毎週見ているはずの夢なのに覚えているのはその声が発しただけ。声? もし声だとすればそれは誰の声なのだろうか。
 嗄れて年老いた声だったような気がする。いや若々しく張りのある女性の声だったような気がする。野太くしっかりとしたバリトンの男性の声だった気もする。否、爽やかな青年の声だっただろうか……
 なぜこうも曖昧なのに言葉だけはっきりと覚えているのだろうか。夢とはそういうものなのか。
 深沢真理は大きく深呼吸をし、頬にかかる長い黒髪をバサリとはらいのける。
 真っ直ぐで柔らかい黒髪だ。祖母も母も髪を長くしていた。その影響で真理も髪を幼いときからずっと伸ばしている。その髪はもうすぐ膝を越えてしまうほどの長さだ。
 その髪がベッドからはみ出てベージュのカーペットを漆黒に染めている。
 ――寝る前確かに一つに束ねていたはずなのに。
 真理は寝ぼけ眼で長い黒髪をスルスルと手元にたぐり寄せる。明かり一つもないのに長い黒髪は艶やかさを失わない。
 真理自身や家族ばかりでなく、真理の通う学校の誰もが認め、あこがれる髪だ。
 大切な髪、宝物にしている髪、その髪が……
 ずしりと――重い。
 ――こんなに私の髪は重いものだったかしら
 普段は三つ編みにまとめて背に流したり、ポニーテールにしたりすることが多い。こういう風にして長い髪を持つことはあまりない。
 だからかもしれない。でもそれにしても髪はこんなに重かったかしら……
 真理は長い髪を再び髪を三つ編みし、眠りの世界に入っていった。

――  -120.5

私立M学園――全校生徒数2400名、男女共学であり、N県唯一の中高一貫教育を行っている学校である。
 その校門にさらりと黒く艶やかな長い髪が流れる。その長い髪は風が吹くたびに初冬の朝日を浴び宙を気持ちよさげに泳ぐ。男女、生徒教師問わず誰もがその光景に目を奪われる。
 風が止むと長い黒髪は再び主の元にゆっくりと戻り、ほっそりしたシルエットの前で振り子のように左右に揺れ出す。
 下級生の女子生徒は彼女に羨望の眼差しをあびせ、男子生徒は彼女の姿を見るたびに淡い恋慕を胸の中に募らせる。
 深沢真理はこの学校のシンボルのようなものだ。

「おっはよー真理」
「あ! 香耶っち、はよー」
 香耶と呼ばれた少女はふわふわのウェーブのポニーテールをなびかせながら微笑みを浮かべる。
「相変わらず綺麗でまっすぐな髪! うらやましすぎ!」
「香耶っちこそふわふわポニー、かわいいじゃない」
「ああ、あたしの髪? でもこの髪と格闘するの大変なんだから……ストパあてるのもお金かかるし」
「でも香耶の髪あこがれちゃうな」
「またまた、真理は」
 そう言うと香耶は真理の背中に抱きつき、真理の長い髪を愛おしげに手でさする。
 ここが教室内だからよかったが、校庭などでやられたらたちまち大騒ぎになるところだ。
「ちょ、ちょっと! 香耶!」
「うーん……やっぱり、ひと味……じゃない、一触り違うなー真理の髪」
「香耶、真理。じゃれ合うのもいいけれどそろそろ一時間目始まるわよ」
 右隣の席から冷ややかにも聞こえる声が二人の耳に入った。
 銀縁の眼鏡をかけ、ワンレングスの黒髪を肩先まで伸ばした少女――城山奈美がクスリと微笑む。
「あん! 委員長のい・け・ず!」
「ちょっと……香耶」
 香耶が委員長と呼ばれた少女に抱きつくと、彼女はあわてて香耶を払いのけようとする。
「ふう……奈美のおかげで助かったあ」
「真理! ちょっとそんなところで一息ついてないでなんとかしてよ」
「やーよ。私やっと香耶から解放されたところなんだもん」
 真理は肩をたたいて大げさに疲れた振りをする。
 授業開始5分前を知らせるメロディがスピーカーから流れ出すと、見るに見かねた真理は奈美に声をかける。
「もー……ほら渡辺香耶くん、いい加減授業始まっちゃうよ」
「はーい! そうだ。ねー……真理髪の毛伸びたんじゃない?」
「え? そうかな?」
 真理は背に流れる黒髪を一房つまみ、しげしげと見つめる。香耶や奈美には美容院で切っていると言っているが、本当は美容院などに言ったことは片手で数えるほどしかない。
 母親に髪を切ってもらっているのが真理にとっては至極当たり前のことだ。しかし今時の高校生で肉親に髪を切って貰っているのは真理ぐらいだろう。

――そろそろお母さんに頼もうかな……

「でも真理の髪、ほんとに羨ましいわ」
 奈美は頬を緩めうっとりと膝まで流れる黒髪を見つめる。
 頭の高い位置でシックな黒いリボンでポニーテールにまとめられた髪。真理はほどいたときよりポニーテールの方が真理にはよく似合っている――ほどいた時よりもさらに直線的な魅力が引き出されるのだ。それが奈美にはまぶしく映る。

――やっぱり真理にはかなわないな……

奈美は肩にかかる髪をふと一瞥し真理と香耶に聞こえないようにため息をつく。

「私、ショートにしようかな……」
「なに? 奈美、いきなりどうしたのよ? とうとつにショートにするとか言って」
「だって私の髪中途半端なんだもん。香耶ほどふわふわじゃないし、真理ほどきれーな髪ってわけじゃないし」
「そう? 私は奈美の髪すごく似合っていると思うし、結構好きだな」
「真理……」
 香耶も「私もー」と手を挙げる。
 奈美は小さく微笑んで「有り難う」と答える。
 のどかで小さな幸福につつまれた真理の日常の一光景である。

――  ー97

真理は中学高校ともにずっと部活動をしたことがない。それは別に真理が部活動が嫌いだからではなく、月に一度「禊ぎ」を行うからである。それも決まった日ではなく、月の形とその色で「禊ぎの日」が決まるのだ。
 今日朝御飯の時母から「禊ぎの日」と言われなければ真理自身もわからないほどだ。
 深沢家で行う「禊ぎ」は冷水で頭の先から足の先まで清める――すなわち冷水で体を洗う――ことを指す。またその儀は朝一回、夜一回の計二回行わなければならない。
 夏の暑い日ならばいいが凍てつくような寒い日にはかなりつらい儀式となる。
 唯一の救いは「禊ぎ」を行う小さな滝壺が真理の家から数分程度のところにあることだ。
 全長約65メートルの高さから勢いよく落ちる水も、すっかり冬らしい色に変わっている。
 その昔滝の背後にある岩肌には祠があったという、それがある時今では人の手によって再び塞がれたのだと、その話が真理の脳裏にふと蘇る。
 桶一杯にくんだ冷水を真理は思い切りよ頭からかぶる。
 今年は暖冬とはいえ、水は肌に突き刺さるほど冷たい。二三度水をかぶると、真理の唇は青白く変色する。

――どうして禊ぎをしなければいけないのかな?

物心ついた頃から「禊ぎ」をしているのだからすでに習慣になっている。だから体が勝手に動いてしまう。
 明治時代まで深沢家は代々神社であったという。それが百年に一度あるかないかの災禍により社もなにもかも崩壊したという。
 現在その唯一の名残がこの「禊ぎ」の儀式だと母から聞かされている。
 その「禊ぎ」は満20歳になるまで続けなければならない。真理はあと4日――12月1日で18歳になる。

――あと2年……

真理は水風呂に胸までつかり大きくため息をつく。なぜだか寂寥感が軽く胸に漂う。
 水の中で長い黒髪がさながら海草のように漂う。その一房を手に取ると、水気を含んだせいか、いつもより重く、いつもよりも黒々しく感じる。
 真理は勢いよく水風呂から出る。
 いつもならさっぱりと清々しい気分になれるのだが、今日はなぜか気分がはれなかった。

――  ー79

高校三年になると週に二三回は午前中で授業が終わるようになる。
 もう三年になると受験や就職活動に追われるため、それに学校が配慮したためである。
 奈美はすでに大学の推薦を貰っているので悠然とできるが、香耶は蒼白な表情で必死に受験勉強をしている。
 真理は就職も受験もしない。真理自身はしようと思ったが、両親から強く反対された。

「どうして?」
「真理、あなたは家でするべきことがあるでしょう」
「それって『禊ぎ』のこと?」
「そうよ。この近くに大学はないでしょ。それに就職したらなおさらむりでしょ。20歳になうまでは『禊ぎ』は続けないとだめなのよ! 真理。
 それにお父さんも、お兄さんも働いているんだから、そんなに焦ることはないのよ」
「うん」
 真理は不承不承頷いた。
 母はあと2年すれば自由にしていいって言ってくれたのだが、今度はその2年がやけに重々しく感じる。

――  ー68

――いよいよあの娘は18になる……
 真理の母、深沢都は暗闇の中で笑みを浮かべている。

――ああそれも朔月だなんて……
 真理の父、深沢啓一はベッドからわずかに覗く愛娘の黒髪を手に取る。
 一束のきつめに編み込まれた太く長い三つ編み。敬一は丁寧にその髪を解いてゆく。
 三つ編みが解けた髪はわずかにウェーブを残し、敬一の手で広がる。

――ああ……なんて綺麗な髪なんだ
 ――ふふふ私に似て艶のある黒髪……
 ――そうだな。若い時のおまえにそっくりだ。ほら……このはり……この艶やかさ……
 ――この髪も黒髪様に……?
 ――そうだ! ああ、黒髪様、黒髪様……

二人の妖しく不穏な微笑が真理の寝室を覆い尽くす。

 ――ウフフフフ……
 ――クハハハハ……

――  ー46

その電話が鳴ったのは午後9時頃だった。
 最初は奈美の母親からだった。ひどく錯乱した落ち着きのない声だ。

「ああ……真理ちゃん! うちの奈美、そちらに寄っていないかしら」
「いいえ、今日はうちには」
「そ、そう? そ、それじゃあ今日どこかに寄ってくるとか、遅くなるとか奈美から聞いてない?」
「い、いえ。今日は奈美はそのまま家に帰ったと……」
「そうよね。今日はあの娘塾ない日だからそのまま帰ってくるはずなのよ。
 それで……もしかしたら……あ、あの娘真理ちゃんところに遊びに行っているかもしれないと思ったんだけれど……」
 奈美の母親の声は涙で曇り出す。
「おばさん、落ち着いてください。奈美はきっとどこか遊びに行っているだけだと思います」
「……だといいんだけれど。あ、真理ちゃんありがとうね」
 奈美の母親は忙しなく電話を切った。

――奈美……どこに行っちゃたんだろう。

真理は頭の中に立ちこめ始めるどす黒い予感が頭を大きく振って必死に振り払う。
 だがその予感は意外な形で的中する。
 それから間もなく香耶の母親から同様の報せを伝える電話が鳴ったのだった。

――  ー25

結局今日になっても香耶と奈美の姿は見れなかった。
 本当に香耶と奈美はどこにいってしまったのだろうか。真理はため息をつきとぼとぼと帰路へ向かう。

「私今日真っ直ぐ帰るから一緒に帰ろう」と昨日は久しぶり奈美と香耶と三人一緒に帰った。
 その時は二人ともなにも変わった様子はなかった。
 今朝になれば二人は学校に姿を見せ、そしていつもと変わらない日常に戻ると思っていた。
 突然鞄の中にいれた携帯から着信音が流れる。
「もしかしたら、香耶? 奈美?」
 はやる気持ちを抑えて真理は携帯を手に取る。
「もしもし? 奈美? それとも香耶?」
「……」
「もしもし? もしもし!」
「……フカサワ……マリ……ダナ……」
 やがて沈黙の中から重く沈み込むような不気味な声が返ってきた。
「もしもし。どなたですか?」
「ヨク……キケ……オマエノ……タイセツナ……ユウジン……アズカッタ……カエシテホシケレバ……オマエヒトリデ……XXタキ……アスヨルシチジ……マデ……ヒトリデコイ……」
「ちょ、ちょっと!」
「イイナ……ヒトリデ……」

無機質な声は再び雑音とともに消え入る。
 どす黒い粘着質を帯びた混沌とした空気が真理を包み込む。
 誰が? いったい何のために?
 ぐるぐると真理の脳裏に混沌とした世界が渦巻く。

――  ー1

結局真理はXX滝に一人で向かうことにした。
 もしかしたら二人の質の悪い悪ふざけかもしれない――真理はそのかすかな望みを抱いている。
 それでも拭いきれない不安が真理の表情を蒼白色に彩り、心臓の鼓動の波を乱れさせる。 気温は零度以下だというのに手のひらにはじっとりと汗がにじみ出している。
「お母さんとに見つからないうちに……」
「真理? どこに行くの?」

ドキン……

見えない杭が真理の心臓に深く突き刺さる。
「あ、う、うん……ちょ、ちょっと……シャーペンの芯を切らしちゃったから、ちょっと買ってくるね」
「……真理。なにかお母さんに隠しごとしているでしょ」
「え? いや……あの」
「正直におっしゃい」
 都は真理の瞳を真っ直ぐに見つめる。やがて真理の瞳から大粒の涙がこぼれ出す。
「お母さん、お母さん!」
 真理はまるで幼児のように都にしがみつき、堰を切ったかのように泣き出した。

真理は母から差し出されたココアを飲み干すと、ようやく落ち着いてこれまでのいきさつを都に話した。
 真理のたどたどしい話を都は一言も漏らさないよう耳を傾けた。
「わかった。お母さんもついていくわ」
「で、でも……」
「真理一人じゃいくらなんでも危ないもの。距離を置いて歩けばわからないわ」
「う、うん」
 真理は都の笑みを見て安心したのか、表情から緊張がほどけてゆく。いやそればかりか目はとろんとなり、次第に真理の体が小さく船をこぎ出す。
「お母さん……なんだか……わ……た……し」
 そのまま真理は体を崩れるようにして眠りの世界へと落ちていった。
 都は不気味な笑みを浮かべ床に広がった長い黒髪を愛しげに見つめる。そして呪詛のように呟く。
「黒髪様……」

――  0

――ピチョン……
 天井から水滴が真理の顔に落ちる。
 ――ピチョン……ピチョン……
 それが何滴目なのかはわからない。だが一滴当たるごとに真理の意識は眠りから覚めていくようだ。
「う……ううん」
 意識が戻るなり真理は睡眠薬特有の軽い頭痛とけだるさにおそわれる。視界は薄ぼんやりとしか見えないが、どうやら自宅ではないことだけは確かだ。
 周囲は暗くひんやりとした空気が漂い、周囲から湿った土のような臭いがする。
 どこか洞窟の中なのだろう。それにしてもやけに寒々しすぎる。まるで裸でいるような感じだ。
 ――裸? 裸でいるようなではなく、まさに全裸そのものだ。
 そう思ったとたんに真理の意識は完全に現実の世界へと引き戻される。それでも真理は両腕、両足首、それに首に違和感が残る。
「わたし……いったい……?」
 わずかに体を動かそうとした時、ジャラジャラという鈍く重い鉄の音と地に重い音が這う音が耳に入る。
 真理はゆっくりと自分の腕をのぞき込む。そこにはいつもの自分の手首があった。その先には漆黒のリストバンド……リストバンド?
「な……なにこれ?」
 黒いリスバンドからはいかにも頑丈そうな鎖がついていた。反対側の腕にもそれと同じ物がついている。いやそれだけではない。先ほど違和感を覚えた足首のところにもそして首もついていた。

――どういうことなの? たしかお母さんとX滝に行くことになって……その前にココアを飲んで……その前に……

真理は混乱した頭を必死に整理しようとするが、考えれば考えるほど混沌の渦はより一層深く広がるばかりだ。
 やがて闇の奥から足音が響く。その響きが徐々に真理に近づいてくる。
「真理、起きたのね」
「お母さん! お母さん! た、助けて」
「ええ、真理ちょっと待っててね」
 都はにこりと笑みを浮かべる。その笑みは普段とは異質な物だ。ぞくりと鳥肌が立ち背筋が凍り付くような怪しく冷たい微笑みだ。
 都は指を鳴らすと周りが急に明るくなり、天井から鈍い音が響き出す。
 ゆっくりと大きなスクリーンが真理の目の前に降りていく。

「おか……あさん?」
 粘り気のある不安が真理の胸べっとりとにつく。
 やがてスクリーンにぼんやりと薄い映像が映しだされる。

――なんだろう? そうだ! これは誕生日のお祝いをする前の何か悪い冗談に違いない。きっとそうだ。あのスクリーンに「誕生日おめでとう」とかメッセージが映し出されるにちがいない。

真理は甘い幻想を抱いた。それが万に一つのかなわぬ夢でも、そよ風が吹いただけでも崩れるもろい夢でも、それも真理はそれを希望の糧とした。
 やがてスクリーンの映像が鮮明に映し出されてゆく。
 そこには文字はなかった。かわりに真理と同年代の少女二人が全裸で画面に二分割に映し出されている。
「え……香耶? 奈美? どうして?」
 奈美の背後に男と女の姿が映った。それは奈美の母親と真理の父――啓一だ。
 奈美は猿ぐつわ椅子に座り、気を失っているのか頭を垂らしている。
 啓一は項垂れた奈美の頭に工具のような物を出す。
 取っ手の形状はペンチに似ているがその頭に着いているのは獰猛な猛獣のような刃がびっしりと生えそろっている。
 その刃がゆっくりと奈美の前髪に入り込む。

――ザクリ……

小さな音だったがその音は真理の耳の奥まで大きく響いた。
 肩先まで届いていたワンレングスの長い前髪……
 その髪が……ハラハラと奈美の前に落ちてゆく。

「いやああああ! 止めて! 止めてよ! お父さん!」
 真理は叫んだ。思いっきり叫んだ。それでも啓一の父の手は止まらなかった。
 前髪の真ん中にその刃が進み出すと、奈美の表情が次第に苦渋が現れる。

――だめ! 奈美! 起きちゃだめ!

そんなささやかな真理の願いは虚しく破れた。
 重く閉じていた奈美の瞼は開き、やがてそこには黒い雨が降り落ちる光景を映し出される。
 奈美はこれ以上にないほど瞳を大きく開き、恐怖と苦渋の表情で顔が歪み出す。
「――ん!――ム……ンン!」
 足をばたばたと大きく響かせ必死に奈美は抵抗するが、それでも啓一の手は止まらない。「奈美だめよ暴れちゃ。せっかく真理ちゃんのお父さんに奈美をきれいにしてもらっているんだから」
「ンンー! ンン!」
「ごめんね。奈美……手動バリカン痛いでしょ。でもしばらく我慢してね。これが済めば綺麗になれるのよ。フフフ……フ……アハハハハ!」
 奈美はあきらめたかのようにそっと目を閉じる。その目から幾筋もの涙が流れる。

手動バリカンは荒々しく奈美の髪を刈っていく。前も横も不揃いに短くなった髪が無惨に残るだけだ。
 後ろの髪を奈美の頭上のところまで掴みあげると、項の方からバリカンを勢いよく入れる。

――ザク、ザクザクザク!

「あ、ああああ……奈美……そ、そんな……」
「あら……だめよ真理。目を逸らしちゃ……ちゃんとお友達が綺麗になるところ見てなくちゃ」
 意外に強い力で都は自分の娘の頭をスクリーンに向かわせる。
 スクリーンにはバリカンによって切られた髪が啓一の手にぶら下がっていた。啓一はその髪をわざと奈美の目の前でバラバラと落とす。

――ひどい! ひどいよ

真理は居たたまれない思いで一杯になる。
 無惨に五分刈り程度に刈られた奈美の頭に白い泡が降りかかる。

――ま、まさか!
「もう止めて! お母さん、お父さんを止めさせてよ!」
「フフフ……無理よ。もう誰にも止められないのよ。これもみんな黒髪様のため」
 お、お母さんじゃない! 姿も声もなにもかも「お母さん」だけど、何か違う!
 真理は青ざめた表情で変わり果てた「母」の姿を見つめる。
 ふいにスピーカーからおぞましい音が響く。

――ズズズ……ゾリゾリゾリゾリ……

それは奈美の前髪に剃刀が入った音だった。そこには黒い髪はなくただ青白い肌が覗くだけだ。それは白い雪に橇が通った轍のようである。
 さらにその轍が剃刀によって広げられてゆく。
 あっと言う間に青白く剃られた奈美の頭が映った。
「ウフフフ……とても綺麗よ。奈美ちゃん……」
 都も奈美の母親も啓一も笑みを浮かべている。背筋が凍り付くような冷たい笑みを。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「次は香耶ちゃんの番ね」
 香耶の姿がズームアップされる。香耶は真理と同じように鎖につながれていた。唯一真理と違うのは猿ぐつわをされていることだ。
 そのすぐ後ろに香耶の母親が黒い棒を手に持っていた。
 その黒い棒が香耶の目の前に差し出される。真理は驚きのあまり声を失う。
 それは紛れもなく電動バリカンだった。
 香耶の母親はにこりと笑みを浮かべバリカンのスイッチを入れる。重低音をうならせてバリカンが香耶の前髪にゆっくりとは入り込む。

――ジジジ……ザザザザ……ザリザリ……

「ひ、ひい!」
 手動バリカンの時とは違い、電動バリカンは香耶の頭に青白い道を一瞬で作る。
 バサバサとバリカンに刈られた髪が宙に舞う。その髪が床に落ちると、切られる時と同じように癖のついた状態に戻る。
 香耶の母親は淡々と逡巡することなく、自分の娘にバリカンを入れてゆく。
 香耶は猿ぐつわから湿った声を出し、その瞳は頭上を走るバリカンに涙を潤ませながらも見つめている。
 すでに青白くなった前髪の部分を香耶の母親は恍惚の表情を浮かべてゆっくりと手でなでる。
「ふふふ……綺麗よ。香耶。とっても綺麗。もっともっとお母さんが綺麗にしてあげる」

――ブイーン……ジョリジョリジョリジョリ……

無惨に刈られ青白い肌が露わになった前髪の部分をカメラはスクリーンに大きく映し出さす。そこにバリカンの刃が再び入る。
 青白い肌の境界にある黒い髪があっさりと香耶の元から離れる。見る見る間に青白い肌の部分が広くなってゆくのが嫌でもわかる。
「ああ、香耶……香耶ああ……」
 すっかりバリカンで全ての髪を刈られ後の香耶の頭は急に小さく見えた。さらに小さな頭にバリカンとは明らかに違うモーター音が近づく。それはよく父が使っている電動シェーバーだった。
 香耶の頭に当たるとバリカンの時よりも軽快な音をたてる。それが通ったところは一層青白くなる。

――ヴィーン……チリチリ……チリ

「さあ、綺麗になったわよ。香耶……フフフフ」
「!……い……や……あああ……あ……」
 母親から差し出された鏡を見るなり香耶は共学の表情を浮かべ口からはとぎれとぎれの悲鳴が漏れる。
 都は真理の髪を一房掴み愛おしげに手でなでる。
「ああ……いよいよ真理の番ね」
「いあ……いやあああああああああああああ!」

真理は精一杯悲鳴をあげた。この声が外に漏れれば誰か助けに来るかもしれない、真理の無意識で生み出された唯一の防衛手段だった。だがその声も滝の落ちる音であえなくかき消される。
 雲一つない闇夜に見事な新月が浮かんでいた。

――  +3.5

「ウフフ……やっぱりうちの真理の頭が綺麗……」
「そうね……髪がなくなっても真理が一番綺麗。あーあ、せっかく痛いの我慢して手動バリカンにしてもらったのにな。ねー……香耶はどう思う」
「あは……あたしも」
 青白く剃った六人の男女の中央に一人の少女が力無くペタンと座りただ虚空を見つめている。
「キレイ……ワタシ……キレイ?」
「そうよ。真理が一番綺麗よ。だって黒髪様が真理を巫女にお選びになったのよ」
 真理の正気を失った声に都は優しく答える。
「ヨカッタ……ワタシ……キレイ……」
 ――ミンナ……ワラッテイル……コワクナイ……キット……クロカミ……サマモコワクナイ……
 もう今までの生活に戻れない。そんなことはどうでもよくなった。
 都も啓一も香耶も奈美もいる。笑顔でいる。だから……
 混沌とした祠の中で真理は無垢の笑みを浮かべた。

-了

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