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尼僧秘話 ―― 第一輪 転機

 自由と言う言葉を置きかえると、失う物は何も無いになる。
                           ――ジャニス・ジョプリン
 セピア色の断片的な光景が隆子の脳裏に断続的に映る。ゆっくりと映っているようにも思えるが、瞬く間にその光景は消えてゆく。
 その光景の背景や色合いは違っていても幸せそうな男女一組の姿は変わらない。
 やがて彩りがはっきりとついた一枚の映像が脳裏に浮かび上がる。
 青く澄んだ広大な海にポツンと異質な物が漂っている。

――や、やめて……

隆子の思いをあざ笑うかのように、その映像はゆっくりとその漂流物にズームインする。
 まっぷたつに折れた胴長の丸みを帯びた金属にひしゃげた翼が痛々しい。さらに二つに
おれたところからまるで贓物が吐き出されたように色々な物体が海に広がっている。そしてその漂流物にすがる人々。
 それを上空から映しだし、レポーターはヒステリックにわめき出す。

――やめて、もうやめて!

突然その場面が小さくなり、沈痛な表情でニュースを読むキャスターの姿が映ると、やがて行方不明者のリストの中に青地の背景に白い文字が克明に浮かび上がる。
 巻島和樹(25) 会社員
 さらに新たな光景が浮かび上がる。
 自分自身に浴びせられる容赦のない無数のシャッターとマイク。それが隆子の脳裏に蠢く。
 ハッと隆子は飛び起きる。朝6時にセットした目覚ましがなるにはあと1時間弱かかる。
 まだ肌寒い日が続くというのに隆子は寝汗をびっしょりとかいていた。
 今から寝直すわけにも行かず隆子は憂鬱げにベッドから離れと、そのとたん隆子は軽い頭痛に襲われる。
「まただ……」
 あの事故以来、そしてその後の加熱した報道以来、吉田隆子には大きく深い傷ができ、以来隆子は病魔に悩まされている。
 心的外傷後ストレス障害――PTSD、とその病魔は呼ばれている。
「だめよ。隆子……今日は『ミュージック7』の日なのよ」
 ブルブルと小刻みに震える手を必死に抑え、吉田隆子はメークをする。
 鏡にはメークでは隠せない蒼白な表情を浮かべる隆子がいる。
「最悪……」
 頭痛は治まるばかりか、刻々とその痛みを増す。それでも精一杯の気力を振り絞り身支度を整える。

巻島和樹とは高校の時知り合い、以来恋人としてつきあっていた。
 大学も同じ大学を二人が通っていたが、大学在学中吉田隆子は知人の勧めがきっかけで歌手の道を歩み、以来二人は別の道を歩むようになった。
 隆子と和樹の絆は引き裂かれるどころか、離れることによってより深い物になっていった。
 やがて吉田隆子は実力派ポップス歌手としてデビューし、和樹は外資系会社に就職した。
 小さいプロダクションながら吉田隆子はそのルックスと天性の歌唱力で地道ながらも着々と売れていった。
 和樹は出張を繰り返し、お互い顔を合わせる機会が少なくなってきたが、マスコミに目をつけられることがなかったため、かえって幸いだった。
 唐突にその日はやってきた。
 デビューして1年、ファーストアルバムを出し、本人の強い希望でテレビなどには出なかったが着実にファン増えた。全てが順風満帆だった。
 ずぼらな和樹に代わりグラファイト社808便を予約した。それは毎度のおきまりだった。だがいつものようにその航空機は目的地に着くことはなく、航路の途中で力つきた。
 天候と海が大荒れになり救助作業も思わしくなかった。結局グラファイト社の飛行機墜落事故は乗客乗務員合わせて生存者10名ほどだった。
 絶対的な安全神話を誇っていた会社の飛行機が墜ちただけに、マスコミはセンセーショナルに取り上げた。
 芸能・スポーツ報道に力を入れている東和テレビはその犠牲者の中で唯一芸能関係の犠牲者となった――吉田隆子の恋人――巻島和樹の名前に目を付け、芸能雑誌を焚き付け吉田隆子に無理矢理スポットを浴びせた。
 最愛の恋人を失い、それにより負った心の傷を容赦なくかき回すような仕打ちが続いた。
 それが元で吉田隆子はPTSDとなり、歌手生活休止を余儀なくされた。
 東和テレビは吉田隆子に対して音楽番組『ミュージック7』の司会、彼女の音楽活動へのバックアップをすることで罪滅ぼしとしたのだ。

――終わった……
 東和テレビを出たのは深夜の12時頃だ。
 隆子の体に開放感とほぼ一日必死に抑えていた疲弊がどっと流れ出す。だが不思議と頭痛や手のふるえ、異常な発汗は治まった。
 あの日以来仕事になるといつもこう……そして仕事がないと何でもなくなる……
(滑稽だ。私は歌いたいのに歌えないなんて)
 隆子は苦々しい笑みを浮かべコンパクトに映る自分の顔を見つめる。
 どちらかというと中性的で引き締まった顔に長い黒髪が覆う。
 腰まで届く自慢の髪、隆子自身も愛しそして恋人の和樹も愛した髪だ。
 隆子はその髪を愛おしげに優しくなでる。あの事故から一年がすぎようとしているが、こうすると和樹との思い出が隆子に蘇るのだ。
「和樹……私、まだ和樹のこと忘れられないよ」
 隆子の瞳うっすらと涙が浮かぶ。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

翌日隆子はオフのため、馴染みの美容室「ハイデルベルグ」に向かった。
 この店を開店する前店長が偶然この街を訪れ、その美しさに魅了されてその美しさに肖る意味でその名前をつけたという。
 ハイデルブルグ城を模して、ルネッサンス様式やゴシック様式など色々な建築様式混ぜて作られた店だけに、数ある商店の中でもその外観は一際目に入る。
「いらっしゃいませー」
 店内に入ると、店員たちの明るい声が隆子を迎える。
「おはようユキちゃん」
「おはようございます! 隆子さん」
 隆子が鏡の前に座ると松原有紀は手際よく隆子の髪をブローし始める。
 この店ではシャンプーをする前に一度担当がブローしたあと、シャンプー・カットなどをするのが開店以来のしきたりだ。
 吉田隆子はデビューの時初めてこの店を知って以来、松原有紀と不思議と馬が合い以降隆子の担当となっている。有紀も隆子のことを実の姉のように慕っていた。
「隆子さんの髪っていつみても綺麗な髪……うらやましいな」
「そう? ユキちゃんも髪伸ばせばいいのに」
「私ですか!? 私はダメなんです。ちょっとでも伸びると鬱陶しくなっちゃって」
 有紀は恥ずかしげにベリーショートにした髪を摘む。それはかろうじて指先で摘めるほどの長さしかない。
「今日はどうなされますか?」
「そうね、いつものように毛先を揃えるだけにしてくれる?」
「わかりました。それではシャンプーさせていただきますね」
 仰向きにシャンプー台に隆子の顔が倒れこむと、淡いアイボリー色のシャンプー台が真っ黒に染まる。それを有紀は丁寧に洗う。
 有紀の手でシャンプーされた髪は一層艶やかさを増す。
 濡れた長い髪をタオルで覆い、有紀は隆子をカット台に促す。
 有紀が隆子の頭上を覆ったタオルを丁寧に取ると、清潔な白いケープに長い黒髪バサリと落ちる。それはまるで白い岩壁に流れる黒い清流のようだ。
 有紀は一瞬その光景に目を奪われるが、隆子の視線に気がつくと気恥ずかしそうな顔で手を動かす。
 有紀の櫛の動きに従うかのように隆子の髪は真っ直ぐな線になる。その線が次第に深みを増す。やがてそれは光を帯びたものとそのぬばたま色を保持したものとに別れる。その線が集約され隆子の髪をさらに美しく演出させる。

――シャキ、シャキシャキ……

 軽くリズミカルな鋏の音が隆子の耳に入る。
 隆子は有紀から渡された雑誌を何気なく読み出す。
 ただ文字が印字しているだけという感じのする目次の中で隆子の目に深く入り込んだ一文があった。

「心の相談室」(第十五回)          春秋堂庵主 春日春秋 ・・・124

 まるでなにかに導かれるように隆子の手は自然とその頁を開いた。
 それはこのコーナー宛に読者から投稿された悩みに対して答える、という内容だ。ありふれたコーナーだが回答者である春日春秋という尼僧が実に適格かつ丁寧に答えていた。
 その文章を読むだけで隆子は不思議と落ち着く心持になった。
(もっとこの人の文章を読みたい……もっとこの人のことを知りたい)
「ねえ、ユキちゃん。吉田春秋って知ってる?」
「ああ、その人の本なら何冊か持ってますよ。もし隆子さんが興味あるんでしたら今度貸しましょうか?」
「本当!? 有難う。でもそれじゃあユキちゃんに悪いわ」
「いえ、いいんです。それにこの人あまりメジャーな出版社から本を出してないんで結構手に入りずらいんです」
「そう。それじゃあお言葉に甘えまえようかな」
「はい。それじゃあ今度お持ちしますね」

 数日後隆子は有紀から春秋の本を借り、それを何度も読み返した。その間隆子は不思議な安堵感に包まれていた。
 ――なんだろう。私はなにかを忘れている気がする。そしてこの人はそれを私に教えようとしてくれる、そんな感じがする。
 次第に隆子の心の重荷が昇華していくうちに、隆子の中で何か新しいものが目覚めてゆく。
 エッセイや小説、詩、内容も恋愛だったり時代劇めいたものだったり、現代文学だったり、と様々であるが、どの作品にも一貫したテーマ――「自由」――が込められている。
 春秋の本を読んでいくうちに、隆子の中で「本当に自分は自由なのか」という疑問が大きく沸き出していった。
 好きで歌手の道を選び、夢が叶いプロ歌手になることができた。でもそれにより生活やプライバシーは束縛されてしまった。
「自由になってみよう。そして一度この人に会ってみよう……」
 目の前に流れる長い黒髪を強く掴むと、隆子の目に精気が蘇った。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 翌日隆子はプロダクションの社長である田村信宏に決意を伝えた。
 信宏は机の上で両の拳を強く握り、黙って隆子の話を聞いた。
「わかった。今度のコンサートを引退コンサートとしよう。それが君の最後の仕事だ」
「田村さん……」
「いや……あの事故が起きてからいつか君は僕の元を離れるんじゃないかと感じていたよ。それから吉田春秋に興味を持っているみたいだね」
「はい。それがなにか」
「いや彼女とはちょっとした縁があってね。そのうち君が来るからよろしくと伝えておくよ」
「有り難うございます」
「最後のコンサートしっかりな」
「はい」

 コンサートまで吉田隆子は目も回るようなスケジュールに追われた。だがその間不思議とPTSDの症状は一度も襲ってこなかった。
 コンサートの前日、隆子はまさに網の目をくぐるかのようにわずかな空き時間を利用して美容室「ハイデルブルグ」を訪れた。
 予約もなしに美容室に向かったが、店長も有紀も快く受けてくれた。
 いつものように有紀は隆子の髪をブローし始める。
「今日はどうなさいます?」
「ブローだけでいいわ」
「わかりましたー」
「ねえ……ユキちゃんお願いがあるんだけど」
「なんですか? 改まって」
「うん実は明日一日私のヘアメイクをやって欲しいの」
「え? いいんですか私で……私は店長さえOKしてくれれば、喜んでやらさせてもらいますけど……」
「ええ。もちろんよ。それに店長にはとっくにOKもらったから」
「えー! 店長、きいてなーい!」
 有紀のおどけた非難の声に店長はごめんと手を合わせる。
「わかりました。引き受けます」
「有り難う。お願いついでに頼みたいことがあるの」
 隆子は有紀にそっと耳打ちをする。
 ――カラン……
 有紀は笑顔を硬直させたまま櫛を落とした。
「た……隆子さん? 今の……冗談ですよね?」
 隆子は静かに笑いゆっくりと首を振る。
「わ……私……そんなことできません!」
「お願い……ユキちゃんにやってもらいたいの。明日が最後のコンサートになるから、ようやく決心できたから……だから……」
 ケープからはみ出ている両手が固く握りしめらている。有紀はそれを見て隆子の決心の強さを悟った。
「わかりました! やります」
「有り難う」
 何事もなかったかのように有紀は隆子の髪をブラッシングしてゆく。
 それはいつもと変わり映えのない光景だった。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 東京都N区内にあるXXホールは吉田隆子の最後のコンサートで騒然としていた。
 ホール内はすでに満席である。隆子は控え室内のモニタでその光景を整然と見つめている。
 有紀は隆子の長い黒髪を丁寧にブローしていく。腰下の半ばまである長い髪は毛先まで艶やかである。
 有紀はその一本一本を愛おしむかのようにゆっくりと櫛を通していく。
「有紀ちゃん、今日はお願いね」
「……はい」
 隆子が笑顔を鏡に映しても有紀の表情は浮かないままだった。アーモンド状の大きめの瞳は、今にも泣きそうなほどだ。
「やだ……ユキちゃん、そんな顔しないで……お願い笑って」
「はい」
「隆子さーん、時間でーす!」
「はーい! じゃあユキちゃん、よろしくね」
「……わかりました」
 有紀は足下においた大きめの鞄を見つめる。今朝出かける前に隆子のために自分の気持ちを十分整理したはずだった。それでも有紀はこの鞄を開けないですむことを強く祈った。
 ステージに隆子の姿が現れると観客のボルテージがどっと沸く。隆子もそれに負けないように伸びのある声をだす。
 一曲目はデビューアルバムのタイトルにもなった「Exstream」だった。
 隆子の声量と五オクターブある声域がフルに生かされる難易度の高い曲である。
 隆子の声が観客をあっと言う間に包み込む。

 ――誰も声援をあげない。
 ――誰も音を立てない。

 まるでクラッシックのコンサートのように静まり返り、隆子の声とバックの楽器が会場を完全に支配していた。
 今までの中で最高の音楽が会場内の観客を魅了しているのだ。
 曲が終わったところでようやく観客は魅了から覚め、拍手と歓声の波を返す。
 隆子は続いて二曲目を歌い出す。観客はそのメロディに合わせ惜しみなく手拍子をたた
く。
 三曲目、四曲目と曲をこなしていっても吉田隆子の声に疲れは見えない。むしろ一曲ごとに隆子の声が勢いを増してゆく。
 隆子の動きに合わせて汗とともに長い黒髪も踊り出す。
 バックのスポットライトと浴び長い髪が美しく輝く。誰もが吉田隆子の姿と声にすっかり魅了されていた。
 最後の曲を歌い終え吉田隆子の姿が消えると同時に会場内が一斉にアンコールの声で一杯になる。
 やがて声援に応えて隆子の姿が再びステージに現れる。
「今日はみなさん有り難うございました。最後に私が好きな曲、私の……大切な人が一番好きだった曲を歌います」
 観客の暖かい拍手に隆子の瞳は涙で潤み出す。
 観客の手拍子とともに隆子は最後の曲を歌った。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 コンサートが終わった後、隆子はステージ上でシックな黒いドレスの衣装のままで断髪式を行うことにした。
「隆子さん、本当にいいんですね?」
「いいの……」
 隆子は肩にかかる黒髪を一房手に取り愛おしげに見つめる。やがて隆子はふっきれた表情でその髪を振り払った。
 吉田隆子の断髪式は田村信宏とマネージャーの森村美鈴そして有紀の三人だけで密やかに行うことにした。
 信宏、美鈴、そして最後に有紀が隆子の髪を切ることになった。
 信宏は左肩に流れる髪を手に取る。隆子が寂しげな微笑みを浮かべ小さく頷く。
 ――ジョキ、ジョキ、ジャキリ
 四人の姿以外誰もいない空虚となった広い会場内に鈍い金属音が響く。
 バサリと白色の床に隆子の長い黒髪が散った。
 隆子の腰下まで流れていた黒髪は左側だけが胸にかかる程度に切られた。
 続いてマネージャーの美鈴が反対側の髪を手に取る。
 同性の目から見ても思わず見とれてしまうほどの美しい黒髪。この髪を……
 美鈴は軽く吐息をついて思い切るように鋏を入れる。
 鈍い感触が鋏を通して美鈴の手に伝わる。
 一度も短くしたことがない隆子の自慢の黒髪がたった一瞬で胸あたりまでの長さにまでになった。
 思わず泣いた。それでも美鈴は鋏に力を込めてゆく。
 ザクリという音とともに長い髪がストンと直滑降に床に滑り落ちる。
「有り難う……」
 隆子から帰ってきた声もすでに涙で曇っていた。

最後は有紀が切る番だが、有紀の手には鋏は握られていない。その代わりに鋏とはまるで異質の工具めいた物体が有紀の手の中で静かに眠っている。
 有紀の手に握られた者の正体に気づき美鈴は思わず息をのむ。
「ゆ、有紀さん? それは!」
「いいんです! 私が昨日ユキちゃんに頼んだんです。それに田村社長にもその後電話で伝えたんです。だから……お願いユキちゃん」
「はい……」
「田村社長、それから美鈴ちゃん、今までお世話になりました。私、吉田隆子はこれから
ただの『吉田隆子』になります。そのために私はなにもかも捨てて……ゼロから……出発……するために……」
「わかったよ。ここで見ているよ」
「有り難うございます」
 有紀は軽くスイッチを入れると、それはモーター音をうならせる。
「隆子さん、切りますよ」
「……お願い」
 バリカンの刃が静かに隆子の前髪に入り込む。前髪がバリカンの入ったところだけ浮き
上がったかと思うと、切られた前髪が根元からばらばらと隆子の前に降り落ちる。
「ひぃ! うっ……く……」
 隆子は瞳を大きく見開き驚愕の表情を浮かべる。次第にその両の瞳から大粒の涙がこぼ
れ落ちる。
 再び隆子の頭から離れると、バリカンは隆子の頭上で乾いた音をたてる。
 隆子の前髪の中央に青白い道が後頭部の生え際まで引かれていた。
「隆子さん……」
「つ……続けて……」
 有紀はなにも言わず再びバリカンを隆子の前髪に近づける。
 黒髪の茂みにただ真っ直ぐに引かれた青白い一本の線。そのすぐ隣に有紀はバリカンを静かに入れる。
 青い線の縁にある髪が根元から浮き上がり、するりと隆子の目の前に落ちる。
 バリカンによって切り落とされた髪は時々床には落ちず、黒いドレスに付着する。
 隆子はそんな残酷な光景を目のあたりにしても決して目はつぶらない。
「前髪……終わりました」
「うん……」
 隆子はおそるおそるその部分に手を近づける。
 その手が突然宙のあたりで所在なく動く。無理もない。そこにはつい先ほどまで髪があったのだ。
 その光景を見て美鈴も信宏もそして有紀も思わず涙を流した。
 ようやくバリカンの通った部分に手が触れるた瞬間、それまでかろうじて微笑を浮かべていた表情が一気に涙で崩れ出す。
「あ……は……は……は……へんな感じね……周りは……う……こんなにふさふさしているのに……ぐ……うう……ここだけザラザラ……うう……ううう……」
「こんどは左側のサイドのほう……切りますね」
「お願い」
 有紀はもみあげ付近の髪を一房つかみ取る。普段は見え隠れしてはっきりとは見えない隆子の耳が露になる。
 有紀は涙をぬぐいその部分にバリカンを一気に入れた。
「うう……ひぃあ……く……うあああ……」
 耳の付近を直に通るためバリカンの刈る音がより鮮明に、より残酷に、より無惨に隆子の耳の奥まで深く突き刺さる。
 バリカンによって刈られた髪は隆子の肩を流れバラリと床に落ちる。

 ――隆子さん……
 バリカンを進めていくうちに、有紀は美容室で隆子の髪を梳かしていた時のことを脳裏に浮かべていた。
 隆子の長い黒髪に櫛を入れると、歓喜を表すかのように髪の一筋一筋が一層の光沢を返す。
 その髪が今バリカンの刃によって容赦なく根元からそぎ落とされてゆく。隆子が二十年以上も大切にしてきた髪がたった一動きしただけであっさりとなくなっていくのだ。
 有紀は反対側にまわり右側の方にバリカンを入れる。
 もう隆子から悲鳴は漏れることはなかった。ただ時々すすりなく声だけが寂しく響く。
 最後に唯一腰下のままにしておいた後ろの髪だけが残った。
「ユキちゃん、後ろの髪私に持たせて……」
「はい」
 有紀は後ろの髪を丁寧にたぐり寄せ隆子の手に渡す。隆子はその場でお辞儀をするかの
よう前屈みになり、その髪を前方の方に垂らす。
「ほんと……だ……私の髪こんなに長かったんだ」
「隆子さん……」
「一気に……切っちゃって」
 有紀は露になった項にバリカンを近づける。ハラハラと襟足付近の後れ毛が鋭い刃によ
って隆子の肩に舞い落ちる。

 隆子さん……ごめんなさい!
 ヴィーン……ジョリジョリジョリ……
 根元から刈り落とされた髪はまばらに宙を浮き、隆子の前へと降りかかる。
 ザクリという音とともに隆子の後頭部に真っ直ぐに引かれた青い線が前の青白い部分につながる。
 友紀はバリカンの毛先にこびりついた数本の髪を振り払い、再び隆子の項にバリカンを
入れる。
 青白い頭に残された最後の右側の一房に友紀は思いきりよくバリカンを入れた。
 重く鈍い音をたてて隆子の髪を刈り進むバリカンの音は、頭上に近づくととたんに軽い音に変わる。
「終わりました」
「……」
 しばらく隆子は長い後ろの髪を呆然と見据えていた。そして隆子は小声で「さよなら」とつぶやいた。
「有難う、友紀ちゃん。すごく軽くなったわ。これで歌手の『吉田隆子』と和樹とさよな
らができるわ」
 無理に明るく振舞う隆子の姿に三人は痛々しい表情を向ける。
「……隆子さん、隆子さん! う……うううう……」
 やがてこらえ切れなくなった友紀は隆子に抱きそのまま泣き崩れた。
「隆子くん、これを」
 信弘は白い衣装を隆子に手渡した。
「有難うございます、社長」
「隆子さん……お元気で」
「隆子くん、マスコミが外で待機している。今日はここに泊まるといい。なにもう話はつけてある。まあその姿で出れば誰も君とはわからんだろうが、念のためにな」
「社長何から何まで有難うございます」
 隆子は一礼をし、二度と立つことはないステージから姿を消した。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 翌朝朝早くいつものような静寂さを取り戻したXXホールの周囲を一人の老人がランニングをしていた。
 昨日はほんの気まぐれで走るルートを変えていたが、XXホールを周回するのが普段の老人のランニングコースだった。
 その老人はXXホールの出口か純白の巡礼衣装に身を包んだ女性が出てくるのを目撃した。
 最新の建築様式のホールと巡礼衣装の女性という異様な取り合わせに、老人は首をかしげてその姿が小さくなるまで、その場で足を止め見つめていた。
(今度やる舞台かなにかだろう)
 そう思って老人は再び軽快なフットワークで走り出す。
 その足元に捨てられたスポーツ紙が風に舞い、『吉田隆子電撃引退!』というスポーツ紙の見出しが老人の目の前を通りぎる。
 老人は再びその場で足だけを動かしその見出しの行方を見守ることにした。

 見出しはやがて空高く舞い上がり、老人からどこかへと飛んでいった。

 老人は言い知れない寂寥感を覚え、XXホールから去って行った。
 
 冒頭の文章は、ジャニス・ジョプリンの”Me And Bobby McGee”より引用させていただ
きました。

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