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一グラムの幸福

<5>あなたを忘れる魔法(上)

(1)七穂

放課後まで時間は怖いほど速く流れていった。それに合わせるかのように私の鼓動も次
第に高まってゆく…

(2)詩織

今日私は部活をパスした。
 なんだか今日一日中胸騒ぎがしてしょうがない。
 なにかとても悪いことが起こるような気がして……
 帰り際伝説の樹の下で男子生徒の胸に女子生徒が頭を埋める姿が見えた。
 卒業式まで待てず伝説の樹で結ばれるカップルは少なくはない。
 その光景を目にして私の心は少し和んだ。でもその姿がはっきりとわかった瞬間私の心
は絶望の底へたたき落とされた。
 その二人の姿は萩原七穂さんとコウだった……

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「本当によろしいんですか?」
 初めて入った美容院の若い女性店員は不安げな表情を鏡に露に映した。
「……はい」
 平静を装ったつもりなのに鏡越しの私の顔は強ばり今にも泣きそうな表情だ。
 私の自慢の髪に二つの銀色の光が近づく。その二つの光は顎のあたりで勢いよく一つに
収束する。
 ジャキンという今までに聞いたことのない鋭い音が耳に響いた。
 ついさっきまで背中の真ん中まであった髪が一房だけ顎のあたり小さく揺れ、その揺れ
が収まったのと同時切られた髪が私の見えないところへ散っていった。
 次々と残りの長い髪にも容赦なく鋏が入る。
 今まで一度も短くしたことのない私の宝物……
 もう切ってしまった髪は二度と私のもとには帰ってこない。
 ――でも、もういいの
 切った髪とともに私の心の中に大切にしまっていた思いとともに捨ててしまおうと決心
したのだから……
 それがあなたを忘れる唯一の魔法だから……

(3)コウ

放課後彼女は約束通り伝説の樹で待っていた。その彼女の表情には期待と不安が入り交
じっている。
 俺の姿を目に留めると彼女はこれ以上にないほど嬉しそうな笑みを満面にこぼし始めた。
「コウ……先輩。来てくれたんですね。嬉しい……」
 七穂ちゃんの満面の笑みから一筋二筋と涙がこぼれ出す。
 そんな彼女を見ると思わず決意が揺らぎそうになる。
「七穂ちゃん、ごめん……。俺……君とはつき合えないよ」
「……え?」
 彼女の満面に咲いていた笑顔の花はその一言だけで一瞬にして凍り付いた。
「ごめん。本当は俺……詩織のことが好きなんだ。この前フラレたけど。でもそれも俺は
詩織のことが好きなんだ。こんな気持ちで君とつきあう資格なんてない。だから……」
「いいんです。最初からわかってました。コウ先輩と藤崎先輩との間に張り込む余地なん
て最初からなかったんです。でも最近おふたりがぎくしゃくしはじめたんで……私ひょっ
としたらと思ったんです。
 それでもコウ先輩の中には詩織さんしかいないって、昨日一緒に帰ったとき時にわかっ
たんです。コウ先輩、私のこと全然目に入ってなかったみたいだから……」
「ごめん。女の子の気持ちを踏みじるなんて最低だな」
 俺は罪悪感でいたたまれなくなった。
「そんなことはないです。コウ先輩、ちゃんと私の気持ちにこたえてくれました。結果は
残念賞だったけれど。コウ先輩……最後に一つだけ私の願い聞いていただけますか?」
「いいよ」
「ちょっとだけ……ほんのちょっとだけでいいですからコウ先輩に甘えていいですか?」
 彼女の小さい頭がコツンと俺の胸に当たる。彼女が泣き終わるまで俺は優しく彼女の頭
をなで続けた。

(4)詩織

美容院を出ると頭が急に涼しくなるのを感じた。特に首筋あたりがやけに寒々しく感じ
る。
 ふと商店街のショーウィンドウに移る自分を見つめる。
 耳はくっきりと露になり、正面からでは後ろの方がまるで見えない。
 自分でも思い切ったと思うぐらいのベリーショート。
「このほうがもっと素敵ですよ」
 そう言って店員は私の後ろの方を思い切りよく刈り上げた。
 背後でジージーと何かが頭に当たった時は何度も悲鳴をあげそうになった。
 でも頭が軽くなった分気持ちまでずいぶん軽くなったような気がする。
 ――まるで別人みたい
 そう……私はもう『藤崎詩織』じゃない。ここにいるのはもう一人の、新しい『詩織』。
 以前の『詩織』は髪を切るときに全部捨てた。
「さようなら以前の私。さようなら……コウ」
 ふいに涙がにじみ出す。あわてて拭おうとするが、涙は溢れ出して止まらない。

(5)七穂

「あーあ、結局だめだったな」
 すっかり腫れぼったくなった瞳から涙を出そうとしても一滴も出ない。
 コウ先輩の胸元をぐっしょりと濡らすまで泣いたのだから無理ないか。
「今日は駅前のクレープ屋でやけ食いしよ」
 クレープ屋の帰り道ショーウィンドウをしきりに覗いている女の人が目に入った。
 その人は男の子のようなベリーショートにした髪をしきりに気にしている。
 きらめき高校の制服、それに鞄の脇につけたキティちゃんのキーホルダー……
 ――どこかで見たような?
 次第に脳裏にその女性の髪を長くした姿がポラロイド写真のように徐々に浮かび上がる。
「ふ、藤崎……先輩?」

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