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散雪花

   十二月二十三日 金曜日 雪

「雪を見たいの……」
 今にも消えそうなほど弱々しい声が僕の耳に小さく入り込む。
 里香子はベッドの中で精一杯元気そうな表情を見せる。
「なに言っているんだ。そんな体で」
「いいから見たいの」
 少しぶかぶかなお気に入りのパジャマから透き通るほどの肌が見
え隠れする。里香子がベッドから起きあがると、今にも折れてしま
いそうな体を腰下までたっする黒髪がバサリと覆う。
「大丈夫か」
「……ん! 平気」
 彼女はにこりと笑顔を作り小さくガッツポーズを決める。

『残念ながら妹さんのご病状なのですが……』

 苦渋の表情を浮かべながら医師が口にした病名は今まで聞いたこともないような病気だった。
 僕が彼の口から理解できたのは、日に日に彼女が生を重ねるごとに彼女の体内から抵抗力を奪っていく病気。それは何十億分一の確率でそれもたった一つの遺伝子が異常だったためにもたらした病気。
 ――シュレディンガーの猫
 ふとその言葉が脳裏をよぎった。
「――ちゃん、お兄ちゃん?」
「え?」
「どうしたの? ボーっとして」
「いや……なんでもない。それより本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だってば。ただの風邪でしょ」
「風邪だってこじらせれば怖いんだぞ」
「わかってるよ」
 そう妹は自分がどんな病に侵されているか知らない。
 僕は嘘つきだ! 嘘つきだ! 嘘つきだ! 嘘つきだ……
 僕を信頼しきった妹の顔を見るたびに僕の胸の奥が苦しくなる。
 その苦しさに何度も押し潰されそうになる。その苦しさに負けて僕は何度も本当のことを言おうと思ったこともある。でもそれだけは言えない。いや言うことができない。
「わあ……」
 里香子は庭に出ると、大きめの瞳をさらに広げその光景を食い入るように見つめる。
 なんの手入れもしていない庭にいつもは雑草が無造作に茂っているだけなのに、それが白銀の世界へと一変していた。
「お兄ちゃん、きれいだね」
「ああ」
「雪だ! 雪だ! 雪だー!」
「お、おい! そんなにはしゃぐんじゃない」
 きゃ、きゃと里香子は幼い子供のように降りしきる雪をものともせず、ぐるぐると庭を走り回る。
 それに飽きたのだろうか里香子はふと立ち止まり、細長い手を宙に差し出しす。空から無尽蔵に降りしきる雪は、里香子の手のひらにいったんふわりと舞い落ちるがあっという
間にその姿を消してゆく。里香子は自分の手のひらに落ちてゆく雪を不思議そうな表情でじっと見つめている。
 白銀の支配する世界に墨を引いたような長い黒髪。その黒髪が冷たく塗れてゆく様を僕はただ見つめているだけだ。
「お兄ちゃん」
「ん? なんだ?」
「私ね……いつか真っ白な雪になりたいな」
「え?」
「……ううん。なんでもない」

 里香子はくるりと背を見せ雪の降りしきる空を見上げる。
 もしかしたら里香子はこのまま雪とともに溶けてしまうのでは、そんな不安が僕の脳裏をよぎった

   十二月二十四日 土曜日 快晴

 その日妹は昨日の無茶が祟ったのか、四十度の高熱を出し寝込む羽目になった。
「ほら……いわんこっちゃない」
「ごめんなさい」
 クシュンと小さくくしゃみを出し妹は体温計を口にくわえる。
「38度5分か……少し下がったな」
「本当?」
「今日はだめだからな。安静にしていろ」
「ちぇ。つまんないの」
「待ってろ。お粥作ってやるから」
「お兄ちゃん……ごめんね」
「なに言っているんだ。悪いと思ったらさっさと風邪をなおせ」
「……もう……治らないかも」
「なに弱気になってるんだ。風邪なんだから」
 体が張り裂けそうになるほどに膨らんだ罪悪感は僕を容赦なく責め苛む。
「ねえ……お兄ちゃん。明日クリスマスだよね」
「ああ。明日は豪勢にあるからな。楽しみにしてろよ」
「うん。それより明日雪が降ったらしてほしいことがあるのか」
「なんだ俺にトナカイかサンタになれとか言うんじゃないだろうな」
 クスクスと小さな笑みを浮かべ里香子は僕に小さな紙切れを手渡した。
 おもむろに紙切れを開いたとたん僕は妹の表情を覗いた。
「おまえ……冗談だろ! これ」
「本気だよ。お兄ちゃん、私の一生のお願いなの。だから……」
「わかった」
 その時僕はさぞかし間抜けな表情をしていただろう。
 妹が寝静まった頃僕はもう一度紙切れに書いてある文字に目を通す。そこには間違いなくこう書いてあった――
『断髪式』――と。

   十二月二十五日 日曜日 雪

 朝方は残り雪を溶かすような快晴だったというのに、夜になると恋人たちが喜ぶような
ホワイトクリスマスとなった。
 ビニールシートを敷いた床のほぼ中央にすでに里香子は椅子を用意し腰掛けていた。
「本当にいいのか?」
「うん。お願い」
 妹の髪を櫛で梳かしてゆきながら僕はできるだけ声に感情が出ないようにした。
 先ほどシャワーを浴びたばかりの髪は、ドライヤーで乾かしているとはいえまだ湿り気を帯びていた。
 妹に気づかれないように僕は大きく息を吹い、鋏を手に取る。
「待って。お兄ちゃん」
「なんだ。やっぱり切るの止めようとか言うんだろ」
「ううん。違うの……あのね……こ、これでズバッとやって欲しいの」
 里香子は僕に背を向けながら短い棒状のようなものを手渡した。
「おまえ……これはバリカンじゃないか」
「うん。それでね……やっちゃって」
「やれって……なにを?」
「髪を全部スッパリとなくして欲しいの」
「本当にいいのか?」
「いいの」
「じゃあ。もう一度ちゃんと言えよ」
「えー!……お兄ちゃんの意地悪」
「そうじゃなくって。おまえがちゃんと本気でそう思ってるのか確かめたいんだ」
「ま、丸坊主にしてください」
「わかった」
 里香子は後ろの髪をかき上げ襟足を露にする。僕はそこにゆっくりとバリカンを近づける。
「本当にいいんだな。坊主頭にしちゃって」
「いいの」
 スイッチの入ったバリカンを襟足に近づけると、何本ものむだ毛が軽い音をたててハラリと落ちていった。
 僕は里香子の黒い生え際にバリカンを入れそれを一気に耳の上あたりまで走らせた。
 切っている僕が驚くほどの長く大量の長い髪がビニールシートに散った。切った部分だ
け青白い地肌が恥ずかしげに覗いている。
 ジー……ジョリジョリジョリ。
 バリカンを一旦里香子の後頭部から離すと、青白い道がつむじのところまで引かれていた。
「続けるぞ」
「う、うん」
 返ってきた里香子の声はすでに涙でくぐもっていた。
 その声を耳にしただけで躊躇しそうになったが、今更引き返すことはできない。再び僕はバリカンを妹の後頭部に走らせる。
 バサ、バサ、バサバサバサ……
 バリカンによって根元から切り離された長い髪が次々とビニールシートを黒く染めてゆく。
「後ろのほう終わったぞ」
「……」
 里香子はもはやまともに声を出すことができない。そんな惨めな妹の姿を見てもバリカンを握った手はごく自然に髪の生え際に向かってゆく。
 ジョリジョリジョリ……
 両サイドの長い黒髪を青白い地肌が真っ二つに裂いた。
「おにいちゃん……」
「うん?」
「ありがとう」
 僕は残るサイドの髪にバリカンを進めた。

 数ミリ程度の坊主頭になった里香子はまるでやんちゃな少年のように雰囲気が一変した。
 里香子は鏡をしげしげと覗き込み、すっかり短くなった髪を何度も手でさする。
「あは……は……男の子みたいになっちゃった」
「それぐらいでいいか?」
「ううん。ツルツルに剃っちゃって」
「いいのか?」
「うん……どうせだから」
「わかった」
 妹の頭にシェービングクリームを満遍なくなじませる。
 鏡越しに自分を見つめた里香子はクスリと笑みをこぼす。
「くすぐったいか?」
「うん。それになんだか私の頭の上に雪が降ったみたい」
「そうだな……いいか。剃るぞ」
 僕はゆっくりと剃刀を動かす。
 ――ゾリゾリゾリ
「痛くないか?」
「うん。大丈夫」
 僕は再び剃刀を里香子の頭に当てる。白い泡がポトリと落ちるたびに真新しい青白い肌
が露になった。
 三、四回剃刀を走らせただけで小さな剃刀の刃から泡がこぼれそうになる。僕はそれを小さなボールに落としていった。そのボールの中身が白い泡で一杯になった時、里香子の
頭はすっかりと青白い坊主頭になっていた。
「お兄ちゃん……」
「なんだ」
「大好きだよ」
「僕も……好きだ」
「ありがとう。お兄ちゃん。あのね、もう一つお願いがあるんだけれど。私の切った髪をとっておいて欲しいの」
「わかったよ」
「それからもし私が死んだら……時々でいいから切った髪を庭に出して雪を見せて欲しいの」
「……言うな」
「え?」
「そんなことを言うな」
「やだな……お兄ちゃん。もしもの話だって」

 僕は妹の体を粉々になってしまうのではないかというほどの力で抱きしめた。そしてゆっくりと妹の唇を重ねた。

   エピローグ

 里香子が息を引き取ったのは三度目の雪の降る夜のことだった。
 今日もその雪が今朝がたから白銀の世界を作っている。僕は庭に出てあの時に切った妹の遺髪を雪に無造作に落とす。
「里香子……雪がこんなに積もったぞ」
 もの言わぬ里香子の遺髪は主を失った今でも黒く艶やかだ。無造作に雪の降った地に落
とした黒髪はまるで何かの花びらのようだ。
 それを見るたびに僕は弱々しくただ涙を流すことしかできない。
 それでも僕は雪が降るたびに庭に遺髪を落とすことをやめるつもりはない。もしかした
ら里香子が雪から現れるのでは――そんな気がするからだ。

-了

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