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秘密基地

今日僕は髪を切ることにした。
 唯一合格した高校の校則で丸刈りにしなければならない。
 本当は丸刈りにするのは嫌だ。
 本当は違う高校に行きたかった。
 せめて丸刈りになるなら、入学式ぎりぎり前よりこんな暑い夏休みの間にと思ったのだ。
でもそんな当初の思いとは裏腹に、僕の足は床屋とは全く反対方向へ自転車をこいでいる。
 蝉時雨と暑い日ざしをかき分けるようにスピードを出す。やがて工事中の鉄柵が目に映った。
 自転車を止めて、ほとんど役目を果たさない柵にするりと体をもぐりこませる。
 雑草が一面に生い茂っている中で築50年は経つ雑居ビルがぽつんと建っている。子供の頃から何度も改築とか売り地とかの看板が立ったが、そのたびにおじゃんになって今の
今まで手を一つ加えられることがない。中学生になってからはそんな話題すら上がらなかったのだが、つい最近新築マンション建設という目新しい看板が柵についていた。
 幸いビルのほうはまだ手付かずのようだ。階段を上り二階の事務所のような一室の扉を 手にとる。すっかり錆付いた音を立てて開く。
 十畳はある事務所の中はパーティションで二つに区切られており、一室は事務所、もう 一室は居間のようなつくりになっている。あちこちに埃が積もっているが、今でも誰かが住んでいるかのように整然としている。
 かつてここにはこのマンションと空き地の主と呼ばれていた人が住んでいた。本名はわからない。ただ周囲からは「陽さん」と親しまれていた。
 陽さんは廃ビルになりつつあったこのビルを一人で綺麗にして住処にし始めたという。

奥の今にはもうし訳程度の茶箪笥と小さなテーブル、それに狭い押入があるだけだ。
 僕は大の字になって寝そべる。ひやりとした堅い床の感触が心地よい。
 うとうと寝ているぼくの意識に誰かがここに足音が響く。だいたいその足音の主は見当がついている。
「やっぱりここにいた」
 目の前につややかな長い黒髪がさらりと揺れる。艶やかでサラサラとした髪の隙間から怒ったような小さな顔が見える。
「なんだ、明日香か」
「『なんだ』じゃないでしょ。今日こそうちの床屋に来るって言ってたじゃない」
「そうだっけ」
「そうよ! 何でこないのよ。ははーん、さては坊主にするのが泣くほど嫌だとか」
 泣くほどじゃないけど、確かに嫌なのは本当だ。僕はその気持ちを覗き見されたような気がして思わず怒りのこもった声になる。
「そんなんじゃねえよ!」
「あ! なに? その態度。可愛くない。罰として」
 僕の頭頂にひやりとした物が当たったと思うと、目の前に大量の髪が降り注ぐ。
「なにすんだよ!」
「へへーん。怒ったってもう遅いもんね」
 前髪からほぼ中央がざっくりと刈られている。手に触れてみると、まだ残っている髪の部分と合わさって変な手触りだ。
「わかったよ、おまえのとこに行けばいいんだろ」
「そいじゃあ、きまり」
 明日香は嬉々とした表情で携帯電話をかけた。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

僕はしかたなく明日香の床屋で丸刈りになった。先ほど明日香が連絡したからか、床屋には誰一人客はおらず、貸し切り状態だ。
 明日香が容赦なくバリカンの刃を入れてしまったため。五厘ぐらいの短さになってしま
った。
「大丈夫。似合うから」
 明日香の姉は微笑んで僕の頭にバリカンを丁寧になでつける。その間、明日香は先ほどとは別人のようにおとなしく待合い用の椅子に座っている。
「はい。おしまい」
 軽く肩をたたかれると、鏡に映った僕の姿はまるで高校野球児のようだ。
「よく似合うわよ」
「そう……ですか? なんだかしっくりこないんですけど」
 すぐに慣れるわよ、と肩越しの声に体が押されそうなぐらい軽くなった気がする。
 これならシャンプーとか楽だけど……明日香のヤツ絶対げらげら笑うに違いない。
 目が不意に合った明日香は、無表情な顔のままで先ほど僕が髪を切った椅子に座る。
「明日香?」
 いつもの明日香じゃない。それになぜか急にこの中の空気が急に重くなったように感じる。
「明日香いいのね?」
「うん」
 長い髪に霧吹きがかけられる。
「お、おい! 明日香」
「いいの。お姉ちゃんお願い」
 真っ白な刈り布に広がるつややかな長い黒髪。やがてその髪の一房に鋏が入る。
 シャキという鈍い金属音とともに肩から下の髪が刈り布を滑り落ちてゆく。

――ジャキ! ジャキ。

鋏が進むたびにストン、ストンと明日香の長い髪がゆく。
 今までうるさく泣いていた蝉の大合唱がもはや僕の耳には届いていない。ただ聞こえる
のは、鋏の音と長い髪が床に滑り落ちる音。
 自転車に乗ると風を自由に泳いだ明日香の長い髪。一切の光を遮断してしまいそうなほど黒々とした髪は日に当たると、陽に透けて光り輝き出す。
 その明日香の髪があっという間に肩に届かない程度の長さになっていた。
 明日香は今にも泣きそうなのをじっと堪えるかのように、硬い表情のままだった。
 鋏が置かれると、その代わりにお姉さんは先ほど僕に使っていたバリカンを手にとった。
 右横にお姉さんは立つと、下顎から一気に頭の上のあたりまでバリカンを進めてゆく。
 バサバサと一気にバリカンに切り落とされた髪が束になって明日香に降り注ぐ。バリカ
ンが通った後は耳の上まで地肌が露わになっている。
 バリカンはそのまま容赦なく明日香の髪を刈り落としてゆく。
 右側は地肌に露わになった刈り上げ、左側は顎下のボブ姿の明日香。
 後頭部の方にバリカンは入ってゆく。襟足の方から一気に耳の上までバリカンは髪を刈り上げてゆく。バリカンが通った襟足はほんのりと青白くばっている。それがやけに艶やかに映る。
 反対側の方にもバリカンが通り終えると、鏡にはまるで少年のような姿になった明日香が映っていた。
「どう?」
「どうって……どうしたんだよ。そんなにバッサリ」
「責任をとるって言ったでしょ。だから……それにもう一緒に学校行けないから、ふんぎりつけたかったの」
「明日香……」
「そうだ。ねえ、お姉ちゃんに切った髪ちょっと貰ってくるから、陽さんの空き地に埋めよう」

頭が軽いと明日香ははしゃぎながら空き地へ向かった。そして髪を埋めるとき明日香は泣きじゃくった。僕は思わず明日香を抱きしめる。手にはジャリジャリとした刈り上げの感触がする。サラサラとした長い髪はどこにもない。
 暑い日ざしが僕たちを照りつける。
 もうすぐこの夏も終わる。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

何を思ったか今年で五歳になる息子が昔のアルバムを引っ張り出し、一枚の古びた写真を手にとって妻のもとに駆け寄ってゆく。
「ねえねえ、お母さん。この写っているの誰?」
「え……ああ、それ。その写真に写っているの昔のお父さんとお母さんよ」
「うそ!」
「もう随分前の写真だから……」
「だって二人ともすごく髪が短いよ?」
「ふふふ。その頃ね、お母さん髪が男の子みたいに髪が短かったの」
「ふーん……」
「ねえ……雄くん。その写真お母さんに貸してくれる」
 雄輔から手渡された写真を妻は宝物のように大切に私の所へ持ってくる。
「あなた……この写真」
「これ? あのときの……」
 妻は目を潤ませて写真をのぞき込んでいる。そこに映っていたのは、もう今はないそして二度と戻ることがないあの時が映っている。
「こんどの帰省で”秘密基地”へ行ってみるか」
「そうね」

もうすぐあのときと同じ夏が始まる。

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