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アナザー・サマー

「あー、だるいだるい」
 上原瑞希は無数の蝉が大合唱を繰り返す遊歩道を歩いていた。その言葉とは裏腹に瑞希の足取りは心なしか軽やかだ。普通の学校であればすでに夏休みに入っているので、暑い中わざわざこんなところを歩く必要はないはずだ。
「ちぇ! たかだか赤三つぐらいで補講なんて……うちの学校もけち臭いんだよなあ」
 しごく納得である。
 ――バサリ
 膝あたりまで届く真っ直ぐな黒髪をうるさそうにかき上げる。
「しょーがない……いくか……」
 ぶつくさと文句を言いながらも学校に向かっている自分の姿に瑞希は苦笑いを浮かべた。

 上原瑞希――外見こそ今時珍しいほどの和風美少女だが、職員室でこの名前はいつも問題児扱いだ。
 ――高校入学当初からろくに授業に出なかったから当たり前な話である。
 今でも瑞希は学校に行くのは辟易する。
 通知書に羅列された数字だけで評価されてしまう世界、それ以外「上原瑞希」という存在価値を認めない世界。瑞希が中学から一貫教育で通うこの学校はそんな学校だった。
 唯一瑞希にとって幸いだったのは校則が非常に緩やかなことぐらいだ。
 そんな無味乾燥な学校に再び通うようになったのは二年の三学期の始業式と同時にこの学校に赴任となった狩野の存在だ。
「今日この学校に転任された狩野先生です。狩野先生はアメリカのXX大学をわずか十七歳で卒業され、その後WW研究所に勤められた非常に優秀な先生で――」
 校長の川北はまるで自分のことのように誇らしげに意気揚々と狩野の経歴を説明する。
(またコンピュータみたいな教師が来やがったのか……)
 瑞希は鬱陶し気に壇上に視線を向ける。
「はじめまして。狩野です」
 にこりと挨拶する新任教師の顔を見たとたん、瑞希の心臓は飛び出さんばかりに跳ね上がった。
 こうして上原瑞希の初恋は一目ぼれで始まったのだ。

 ようやく新任の教師狩野によって授業に出るようになったが、今までのツケが祟り未だに夏休みの補講に出ざるを得ない。
 教室に入ると一人の教師が瑞希に笑顔を向ける。
「よ! ようやく来たな」
「ったく。この暑い中狩野先生もよく学校に来るよ」
「教室の方が冷房効いてて家にいるよりよっぽど涼しくていいだろ? なんならクーラーが故障中のお前の部屋で補講やるか」
「……教室でいいよ」
 ぶつぶつ小声で文句を言いながらも素直に教科書を開く瑞希の姿を見て、狩野は思わず口元を歪める。
「それじゃあ、始めるぞ」
「はいはい」

   * ◆ 瑞希 ◆ *

 広めの黒板に先生は白地の公式を埋めてゆく。力強く書くもんだから長いチョークが書いている途中でボキ、ボキ折れる。そのたびに私は先生に聞こえないようクスリと笑う。

 ――相変わらず不器用で汚い字……でも顔は真剣だな……この字だけを見るととてもエリートとは思えないな。

 先生の授業はエリートらしからぬ自由奔放な授業だ。
 ヒアリングと称してビリー・ジョエルの曲を流し、英会話と称して吹き替え無しの映画を見せ、英文法の時は好きな本――ただし英語だが――を読ませそれを訳させたりした。
 そのたびに先生は職員会議でこってりしぼられたそうだ。

 でも、英語の教師が数学教えてるんだから、やっぱり頭いいんだよな……それにしても本当にガキみたいな字だな

「――上原」
「うん?」
「今、笑ったろ」
「わ、笑ってない、笑ってません」
「ほう。お前の顔は思いっきり笑ってるけどな」
「はは……そうかな」
「笑ってる暇があったら黒板に書いた問題さっさと解く。制限時間は三十分」
「そんなあ、か・の・う・せ・ん・せ・い」
「媚びてもだめ! 一問不正解ごとに今日の補講三十分延長な」
「ひぃー」

 三十分経過。私はなんとか黒板に埋めた答えを鋭い目付きであいつはチェックする。

 ――黒縁の眼鏡のフレームから見え隠れする鋭い目付き、まるで私自身を見透かされているようでドキドキする。

「……まあ、最後はおまけ、だな」
「ラッキー」

 心臓の高鳴る音がバレないよう私はオーバーめに喜んだ。

   * ◆ ※ ◆ *

「じゃあ、今度は先生の番」
「ああ」
 瑞希は教材を鞄に仕舞い込むと、周りの机を片づけ小さな隙間を作る。その真ん中においた椅子に瑞希はちょこんと座る。
 狩野は真っ白なケープを瑞希にかぶせる。
「お客様、どのようになさいますか?」
「えーと、揃えるだけにしてください」
「かしこまりました」
 くすりと笑って答える瑞希に狩野はまじめな表情を向ける。
 狩野と瑞希の二人しか知らないもう一つの授業が始まった。

「ねえ、先生」
「なんだ」
「なんで先生は美容師とかにならないの? あ、理容師でもいいかもしれないけど」
「そうだなあ」
 狩野は手際良く毛先に鋏を入れる。シャキシャキと軽い音をたてて長い毛先がきれいに揃えられてゆく。
「まあいろいろだな」
「それじゃあわかんない」
「まあ、やりたくてもやれないってことだな」
「わかんないって。それにそれって変だよ」
「なんで?」
「だってやりたいことするために一生懸命勉強したのにそれができないって変」
「そうだな……変だな。お客様、お疲れ様でした」
 狩野がケープを取り除くと、瑞希は毛先を入念にチェックし始める。
「姫、いかがでしょうか?」
「うむ。よいできじゃ。褒美をとらす」
 瑞希はゆっくりと目を閉じる。やがて狩野の顔が静かに瑞希と重なり合った。

   * ◆ 瑞希 ◆ *

「補講も今日で最後か……」
 私は肩を落としトボトボと学校へ向かう。
 二週間にもわたる先生と二人だけの補講――楽しかった、夢のようだった、このままずっと終わらなければいいと思った。
 補講を嫌がっていた私に先生は真顔で
「もう一つの夏を見つけてみないか」
 だって……
 思わず吹き出しそうになったけれど、その言葉は私の胸にストレートに突き刺さった。
「ま、夏休みが終わっても先生に会えるし。そうだ今日は五センチぐらい切ってもらおうかな……フフフ」
 思わず私の顔はほころぶ
 夏休みはもうすぐ終わる。それでも私の中では『もう一つの夏』はまだ終わらない。

   * ◆ ※ ◆ *

「じゃあ先生、今日は五センチ切って」
「五センチ? いつも揃えるだけなのにどういう風の吹き回しだ?」
「いーじゃん、別に。ちょっと膝から超えちゃったから膝のラインで揃えようかなって思っただけ」
「いいのか?」
「いいの」
 長さにしてみればほんの五センチ程度だが、それでもケープをかけられた時点で瑞希の心臓の鼓動は一オクターブ上がる。
 チャキ、チャキ、チャキン……
 いつもは乾いた音を鳴らす鋏が少し重い音をたて始める。
 瑞希はぎゅっと目をつぶりただ鋏の音が鳴り止むまで無言で耐える。
 パラパラと小さい音をたてて床に落ちる音が自然と瑞希の耳に入り込む。
(ほ、本当に切ってる!)
 瑞希は心の中で小さく悲鳴をあげた。
 鋏の音と床落ちる髪の毛の音が痛いほど耳に響く。

「お疲れ」
 狩野の声とともにその音が急に鳴り止んだ。ケープが外されると同時に瑞希は目をゆっくりと開く。
「今度は全身が映る鏡を持ってきたぞ」
「せんせ……こんなのどっから調達してきたの?」
「保健室……」
「またあ! あとで返してきなよ」
「わっかてるよ。それより見たいんだろ。見ないんだった片づけるぞ」
「見ます! 見させていただきます」
 瑞希は恐る恐る鏡の前に立つ。
 つい先程まで膝下あたりまで長さだった髪は膝のところできっちりと揃えられている。
 瑞希はしげしげと鏡に映った自分を見詰める。
「こんなもんかな」
「合格?」
 狩野は期待と不安に目を輝かせる。
「うーん。まあまあ……かな」
「なんだよ」
 がっくりと項垂れる狩野の姿を見て瑞希はペロっと舌を出す。心の中で瑞希は小さく「合格」とつぶやいた。

   * ◆ 瑞希 ◆ *

 卒業式間近に控え私は先生に呼ばれた。最後の補講で膝まで切った髪はもう膝の下を優に超えている。
「そろそろ先生、切りたくてうずうずしてるだろうな」
 夏休みが終わってからというものの、私は大学受験勉強、先生はなにかの研修とかで私と先生はなかなか顔を合わせる機会がなかった。
 なんだか久しぶりに先生の顔が見られるだけで私の顔はだらしなく笑みを浮かべ、ワクワクとドキドキの気分で体中が舞い上がりそうだ。
「せーんせー、おまち」
「お、きたか」
 進路指導室に入ると先生の姿がそこにあった。私の足は自然と先生のもとに駆け寄り、先生の唇を奪う。少し強引だったかな……
「お、おい。こんなところ見られたら……」
「大丈夫。内側から鍵かけたから。ね、進路調査なんて口実でしょ。けっこう伸びてきたから切りがいあるよ」
「ああ……」
 先生は気のない返事を漏らした。
「なに? 先生……なんだか元気ないぞ。わかったもうすぐ私卒業しちゃうから、寂しくなったんでしょう。大丈夫、大丈夫。大学生になっても遊びに来るからさ」
「上原……少し話してもいいか」
「う、うん」
「俺さ、この学校やめようと思うんだ」
「……え? やめる?」
 私は一気に奈落の底に突き落とされたような気分になる。
「やめるって……いつ? やめてどうするの」
「そう質問を畳み掛けるなよ。そうだな……今月一杯ってところだな」
「……そんなに早く?」
 私は涙が出できそうになるのを必死に堪える。それでも先生の顔が少しぼやけて見える。
「実はな、友人に『床屋やらないか』って誘われてな。急な話だったんだが、断るに断りきれなくなってな」
「そうなんだ、先生あいかわらずそういうトコは優柔不断……って、先生免許持ってるの?」
「言わなかったかな」
 先生は私に悪戯っぽく微笑む。
「ズル! 私、免許持っていないって思って」
「ワルイ。つい言いそびれてな。おかげで腕がなまらなくてすんだ」
「フーンだ!」
 私は思いっきりすねた。

「本当にいいのか?」
「いいの。前髪だけバツンと切っちゃって」
 学校での最後のカットとなるその日、私は思い切ってその言葉を喉から絞り出した。
 先生は私の言葉を耳にするなり、目を飛び出さんばかりに驚いた。
「バツンってなあ……どのぐらい切ればいいんだ?」
「先生にまかせるよ」
「まかせるって……本当にいいのか」
「うん……」
「じゃあ……切るぞ」
「う、うん」
 いつものように霧吹きで濡れ丁寧に櫛が入った私の髪。でも心臓の鼓動はいつも以上にドキドキなっている。
 ジャキリ……
 目の上で銀色の光が思い切りよく閉じられると、口のあたりまであった私の前髪がバサバサって勢いよくカットクロスの窪みに落ちる。
 目の前に黒い雨が降り注ぐかのように、切り落とされた前髪は容赦なく私の目の前を降り注いでいった。いくら視線を上のほうに移してももはや毛先すら見えない

 最後の一房となった前髪がパチンという音とともにケープの窪みに落ちていった。

「……こんなものかな」
 先生の声とともに手鏡が私の目の前に差し出された。
 鏡に映った私の前髪は眉の上あたりで一直線に切り取られている。

 ――なんだか人形みたい……

 切ったばかりの髪を一房指で軽く引っ張ると、ほんの五、六秒で私の指からスルリと離れていった。
「あは……すっきりしちゃった……」
「似合うじゃん」
「ね……先生。今度その床屋の住所教えて」
「ああ。遊びに来いよ」
「絶対行くから」

 先生から手紙が来たのはそれから一年たってからだ。
「ぷっ! くくく……相変わらず汚い字!」
 先生と私の『もう一つの夏』はまだ終わらない。

  ーエピローグ<数年後の夏>ー

「暑いなー」
 路面電車から降りるなりその女性は焼け付くような陽射しを一瞥した。
 膝まで届く長い髪が彼女が一歩一歩歩くたびに左右に小さく揺れる。
 猛暑の中通りゆく人々の誰もが足を止めて瑞希の美しい長い髪に見とれる。
 瑞希はその視線を気にせず、時折一枚の葉書を見ては商店街を突き進んでゆく。
 商店街のほぼ真ん中にさしかかったところで瑞希の足がぴたりととまる。
 パン屋と本屋の間に挟まれた小さな床屋に瑞希は目を向けた。店内は平日であるにもかかわらず客でごった返している。その中で青地の作業衣を着た一人の店員が忙しそうに手を動かしている。
 女性はその光景を嬉しそうにしばしその様子を見つめる。
 やがて淡い桃色の作業衣を着た女性がにこやかな笑みを浮かべ店の奥から姿を現した。
 ――きれいな人……お手伝いの人? それとも……
 一抹の不安が彼女の胸によぎる。
 思い切りよく刈り上げられた少年のような短い髪、触れただけで折れてしまいそうな細く長い指にはめられた小さく光る指輪が瑞希の目に眩しいほどに飛び込んだ。
 瑞希は逃げるようにして商店街を後にした。

   * ◆ ※ ◆ *

「有り難うございました」
 最後の客を送り出した狩野は大きく伸びをして待合用のソファに座り込む。
 商店街に床屋は一件だけというせいか、「カットサロン狩野」は常に客足が途絶えない。つい最近では比較的若い女性客もこの店に来るようになった。
「そろそろ改装も考えた方がいいな」
 狩野は苦笑いを浮かべ残り一本となった煙草に火をつけた瞬間、扉に備え付けられた小さな鈴が静かに鳴った。
「申し訳有りません、今日はもう……」
 反射的に応対した狩野の表情が客の姿を見るなり固まる。
「先生……ひさしぶり。遊びに来ちゃった」
「う……え……はら……」
 瑞希は寂しげな笑みを狩野に向けると、狩野の表情もようやく笑みを作る。
「び、びっくりしたなー。何年ぶりだ? 四年ぐらいか」
「……うん。多分四年ぶり」
「そうか、ちゃんと卒業できたか」
「ふっふふ。それはもうバッチリ」
「そうか。よかったな。就職の方は決まったか」
「いやー、それがもうどこもかしこも不景気で……。
 それより先生の方は?」
「ああ、なんとかやってるよ。こっちにはなんかのついでで来たのか」
「う、うん。友達と旅行で……。で、奥さんとはうまくいってる?」
 瑞希は「本当は先生に会いに来たんだよ」という言葉を飲み込んだ。
「ああ……って、おまえなんで……」
「昨日見ちゃったんだ。きれいな人もらちゃって。コノー」
 瑞希のわざと作った明るい表情に狩野は胸に鋭い痛みを覚える。
「……すまない」
「……いいの、先生。そのかわりというわけじゃないんだけど……先生、お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「髪を切ってほしいの」
「へ?」
「髪を切ってほしいの。それで先生がどれくらい上手になったかチェックするの」
「なんだよ。久しぶりに顔を見せたと思ったらまたテストか」
 瑞希はカット台に勢いよく座り込み、鏡に映った狩野の困り果てた表情を見てほくそえむ。
「先生には高校のときたっぷりお世話になったからね」
「ちぇ。わかったよ。それではお客様今日はどうなさいますか?」
「バッサリと思い切り短くしてください」
「バ、バッサリって……瑞希……おまえ」
「いいの。先生、この髪ねずっと願懸けしてたの。『好きな人が現れますように』って。そしたら本当に好きな人が現れた。それが先生だったの。だから本当はすぐに切らなきゃいけなかったんだけど……ついつい切れなくなっちゃって」
「だからって……」
 狩野は床についてしまいそうな瑞希の長い髪に視線を向ける。
「先生、まえ私に言ってくれたよね『もう一つの夏を見つけてみないか』って」
「ああ」
「私、『もう一つの夏』を終わらせようと思ったんだ。だから……先生の手で切って」
「わかった」
「そうだ先生、もう一つお願いしちゃっていい?」
「なんだよ」
 もったいぶったように瑞希は狩野に耳打ちをする。とたんに狩野の顔は苦虫をつぶした表情へと変わった。
「……わかったよ」

   * ◆ ※ ◆ *

 霧吹きで万遍なく濡れた瑞希の髪は蛍光灯の光を幾筋かの波にして反射させる。
 鏡越しに長い髪を見ても瑞希の決意は変わらなかった。
「本当にいいのか?」
 狩野は心配そうな顔を鏡に映すと、瑞希は「いいの」と固い笑みを浮かべた。
 左サイドの耳あたりの髪を一房櫛でゆっくりと梳かしはじめる。
 一回、二回、三回……四回目の後に銀色の光がゆっくりと近づいた。
 ――ジャキリ
 鈍い音が耳に響くとそれがあっという間に瑞希の全身に伝わる。
 瑞希は目を大きく見開き呆けた表情のままその始終を見つめる。
 すっかり短くなった髪は耳をパサリとたたく。それが合図だったかのように瑞希の両目からどっと涙が溢れ出す。
 瑞希の――優に一メートルは超える――切られた髪はしばらく宙を泳いだ後、床に静かに着地する。
 鈍い鋏の音は休む間もなく次々とサイドの髪を切ってゆく。
 左サイドの髪が耳半分隠れるラインで揃えられると、反対側の方で再び鋏の音が鳴り始める。
 ようやく硬直した表情が解け始めた瑞希は、瞼をしばたかせくぐもった声をあげる。
 すっかり惨めになった瑞希の表情が映っても狩野の手は躊躇することなく動いた。
 ジャキ、ジャキン……
「……なんだか横だけ軽くなって変な感じ」
 右サイドも同じラインですっかり切り揃えられると、瑞希は歪んだ微笑みを浮かべる。
 瑞希はケープから手を取りだし、耳のあたりのほうの後ろの髪を手で掴む。
「この辺まで刈り上げちゃって」
「いいのか、本当に」
「うん。いいの。先生、無茶なこと言っちゃってごめんね」
「いや……俺はむしろ嬉しいけど」
「本当に?」
「ああ、こんなに切るの初めてだよ」
「それなら……いいの……ズバっとやって」
 ――ヴィーン……
 店内にモーター音が静かに響き始める。
「本当にいいんだな。刈り上げるんだぞ」
「いいの」
 首筋あたりにバリカンの刃先のひやりとした感触がした直後だった。
 ジョリジョリジョリジョリ……
「――!」
 瑞希の体中に喪失感がまだ伝わらないうちに、背中になにかがぱさりと当たった。そのあたりから嫌な寒気が流れ出す。
 それはまるで氷で出来た無数の節足動物が全身を駆け巡っているような感じだ。
 店内はバリカンの音、髪が落ちる音、瑞希の口から零れる泣き声が異様な三重奏となって奏で出す。
 バリカンは瑞希の頭をなでるかのように黒髪の中を進んでゆく。バリカンの刃先が離れると、後ろの髪のほぼ真ん中にわずかに見える青白の地に黒ごまをまぶしたような線が耳の上まで引かれていた。

「……ねえ」
 バリカンのモーター音に消え入りそうなほど小さな声が狩野の耳に入った。
「なんだ」
「後ろのほう……どれぐらい切っちゃったの? なんだか後ろのほうすっごくスースーするんだけど」
「そうだな……百センチくらいかな」
「ひゃ、ひゃく? うそ? うそでしょ。ね、ねえ、切った髪見せてくれる」
「見ると余計つらくなるぞ」
「いいから見せて」
 狩野は床に落ちた黒髪を鏡に映す。それが瑞希の目に鋭く飛び込んだ。
「う……ア……ハ……ハハ……ハハ」
 瑞希は悲鳴と泣き声にブレンドされた笑い声を返すのが精一杯だった。
 そんな瑞希の惨めな笑い声も再び鳴った鈍いバリカンの音にかき消された。

   * ◆ 瑞希 ◆ *

 先生はカットをし終えると、今度は私の首筋に生暖かいものが触れる。
 ――なに? なにが始まるの?
 私の脳裏に不安がよぎった瞬間だった。
 ――ゾリゾリゾリ……
 首筋に冷やりとした感触とともに私の首筋に鋭利な物が動き出す。
「動くなよ首筋を今きれいにしてるんだから」
「う、うん」
 ――剃っている! 剃っっちゃってる!
 剃刀が通るたび首筋が余計に寒々しく感じる。

「椅子、倒すぞ」
 首筋が涼しくなったかと思うと、椅子が音もたてずにゆっくりと倒れていった。
 刈り上げたばかりの髪が椅子に触れると「ザリ」という音をたてた。首筋は剃ったばかりだからか、椅子の合皮革の感触がより冷たく感じられた。
 先生は少し熱めのタオルで丁寧に私の顔を覆うと、みるみるまに顔の肌が和らいでゆく。
 ――気持ちいい……
 思わずうとうとしかけた瞬間、額の方に太い筆のようなもので生暖かいものが再び塗られてゆく。さらに額の方に鋭い刃が当たる。
 チョリチョリチョリ……
 え? え? ええー! 先生! ま、まさか……そ、そんな――私は思わず目をぎゅっ
とつぶった。
 刃は髪の生え際ぎりぎりのところで止まる。
 私はほっと胸をなで下ろした。
 額が終わると先生は口の周囲やもみ上げまで白いクリーム状のものを丹念に塗ってゆく。
「うぷ、ぷくくく……。せ、先生……ちょ、ちょっと……くすぐったい……」
「我慢しろ」
 先生は私の言ったことをまるっきり無視するかのように顎下から首筋を塗ってゆく。
 それが終わると、鋭い剃刀の感触が私の首筋や顎のラインを縦横無尽に走った。

「お疲れさん」
 私は椅子から立ち上がろうとするが、首がぐらんぐらんして妙に落ち着かない。おまけに首から上がやけに寒々しく感じる。
 鏡に近づくとそこにまったく別人に変わり果てた私が不思議そうな表情を浮かべ私を見つめている。
 前髪は目が隠れる程度、そのラインに合わせたかのようにサイドの髪はスッパリと切り揃えられている。いつもは鏡越しに見えた黒髪のカーテンはまったく見ることができない。

 ――う、後ろの方ど、どうなちゃってるの?

 おそるおそる、首筋の方に手を当てる。
「……へ?」
 その時の私の顔はさぞかし間抜けな表情をしていただろう。
 後頭部はザリザリとしたまるで紙やすりを思わせるような感触。
「ほら」
 先生が後ろから小さな三面鏡を差し出す。
 かつての髪はサイドに合わせたラインですっぱりとなくなり、そこから顎のあたりまでは数ミリ程度の長さに刈り上げられていた。しかも首筋のところなんか真っ青に豹変している。
「けっこう短いのも似合うじゃん。まあ、俺の腕がいいからかな」
「もう! そういうコト自分で言うかな……」
 泣きたいほど悲しい気持ちはいつの間にか吹っ飛んでしまった。
 こうして先生との『もう一つの夏』は終わった。

   * ◆ ※ ◆ *

「え? み、み……瑞希? うっそー! どうしちゃったのその髪!」
「へんかな?」
 瑞希は恥ずかしそうにすっかり短くなった髪を手で撫で付ける。
「へんてことはないけど……『ちょっと知り合いのところ行ってくる』とか言ってどっか一人で行っちゃったと思えば、自慢だった髪をバッサリ切って帰ってくるし……
 ねえ、知り合いのところで何かあったの?」
「べつに、なんにも」
「う・そ! なーんかあったでしょ。なんか目の当たりちょっと腫れてるし……。うしろなんか……う、うわー! 後ろのほうなんかもうほとんど坊主に近いぐらい刈り上げちゃっているじゃない」
 聡子は瑞希のすっかり変わり果ててしまった後頭部を見るなり悲鳴に近い声をあげる。
「やだ聡子ったら。そんなことないよ。さーてと温泉はーいろっと!」
「ちょ、ちょっと。私も一緒に入る。瑞希……もう! 待ちなさいよ」
 そんな聡子を尻目に瑞希はさっさと浴場の方へ向かってゆく。
 瑞希の心に悲しい気持ちは微塵も残っていなかった。ただ少しほろ苦い味が残るだけだ。
「あ……」
「なーに、瑞希? 素っ頓狂な声出して」
「うん……とんぼ」
「あ、本当だ! もう夏も終わりだね」
「うん」
 瑞希は夕日で赤く染まった少し寂しげな笑みを聡子に向けた。
 聡子はすっかり露わになった瑞希の細い首筋をしばし見つめる。やがて聡子は大きく首を横に振り、明るい笑みを瑞希に返す。
「瑞希お風呂にはいろ」
「うん」
「たまには体洗いっこしようよ」
「どうしたの? 聡子いつもは『一人で洗う』って言い張るくせに」
「ひみつよ」
 聡子はペロリと舌を出して大浴場の方へと小走りで向かう。今度は瑞希があわてて聡子の後ろ姿を追う。
 そんな二人を秋風が優しく包み始めた。

  ―了―

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