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金木犀の香り

 キンモクセイ-Osman thus fragrant var. aurantiacus-
 科属:モクセイ科モクセイ属。常緑小高木。
 分布:中国原産。
 花:葉のわきに橙黄色の小さな花が多数束生して、強い芳香を漂わせる。花冠は直径5ミリで4裂する(10月)。
 実:雌雄異株で日本には雄株しか渡来していないので果実は見られない。挿し木によって増やす。
 特徴:ギンモクセイの変種で庭などによく植えられている。
 高さは普通4~6メートル、高いものは10メートルを超え、よく分枝する。樹皮は淡灰褐色。葉は対生し、長さ6~12センチの長楕円形。10月、香りの良い橙黄色の花が咲く。
 用途:庭木、公園樹 。
(山と渓谷社「日本の樹木」より抜粋)

  ープロローグー

 廃墟と化した東京一帯にようやく復興という字がうっすらとだが見えかかっていた。それは混沌としてお世辞にも整然とは言えないものだったが、それでも人々はわずかながらの「希望」を胸の奥でゆっくりと育んでいるにちがいない。
 東京の空が大きな機影で埋まり、劫火と悲鳴と異臭が漂い、まさに地獄と化したあの日よりは――
 人々は絶望と悲しみに堪えながらそれでも空襲より難を逃れたことを糧にして、未知の明日へとわずかながらも希望を膨らませていた。
 いつもはにぎやかで慌ただしく人々が行き来するこの町もなぜだか今日に限って静寂に包まれている。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世の為に大平を開かんと欲す」
 耳をすますとラジオからボソボソと声が漏れる。お世辞にもいいラジオとは言えない代物に加え、その声も雑音混じりで決して聞き易いものではなかった。なんの抑揚もなく棒読みに聞こえるが、それでも人々はうなだれ目からは涙をこぼし、くぐもった声を漏らす。よく聞き取れなかった人々も多かったが、あとからそのことを聞き遅れて悲しみに暮れる。
 それはこの町に限ったことではく、日本全体が沈痛な面持ちとなった。

 ――1945年8月15日。その日戦争が終わった。

  ー一ー

 私はその日珍しく朝早く起き、普通のサラリーマンと同様、ラッシュアワーにもみくちゃにされる。
 昨年まではさほど混雑していなかったXX線も、D駅まで路線が延びた今では立派な満員電車の仲間入りだ。
 混雑を緩和するためという触れ込みだったのだが、今では誰もそんなことを聞いても信じることができないだろう。結局はXX線沿いに新しいマンションを呼び込み新たな乗客が増えるだけだった。
 この電車に乗る人々は様々だ。会社では冗談を言っては職場を明るくするサラリーマンかもしれない。もしくは会社でトップの成績をあげる営業マンかもしれない。あるいはひとたび家に帰れば家族サービスに精を出すマイホームパパかもしれない、職場で男勝りに働く女性もいるだろう。しかし、この車両いや「電車」という閉ざされた空間の中では人々は無関心という名の「虚無」の表情を浮かべている。
 いつからこうなってしまうのだろう――電車に乗るたびに浮かび上がる疑問が今日も脳裏一杯に充満する。
 どの男女の顔を見ても一様に同じ表情を浮かべているだけで、そこには個性もアイデンティティーも感じることができない。
 私は車内の人間観察にあき、電車の動きに合わせてゆっくりと揺れる週刊誌の広告に視線を移す。その一見出しを見て思わず私は目を疑う。
 週刊女性誌にありがちな芸能人のスキャンダラスな見出しが毒々しく羅列されている。
 最近他国で立て続けに軍の不祥事が起こったせいか、見出しの中で戦争勃発の恐れがあるという無責任な見出しが一際目立つ。
 戦後55年が経った今ではたまに不発爆弾が見つかる以外は空襲の痕跡など全く見ることも感じることもできない。それでも年に数えるほどではあるが、マスメディアは自分たちの国の古傷をこれ見よがしに報道する。だがそれは一時的なイベントのようなものにすぎない。その日が過ぎてしまえばマスメディアはおろか人々さえもそれを脳の片隅に追いやってしまう。
 もっとも私も人のことをとやかく言う資格などこれっぽっちもない。ほんの数年前まで私も彼らと同じだったのだから。いやもしかしたらあの時より無節操無責任になっただけなのかもしれない。
 電車がD駅に着くとようやくぎゅうぎゅう詰めの状態から解放された。大きめの車窓から背景が見えるが、目に映るのはビルと慌ただしい自動車と人の姿ばかり。
 最初は「豊かな自然との共存」というコンセプトで建てたマンションも、それが誇大広告となって屋上で風になびいている。
 電車の扉が開くと人々は追われるかのように急ぎ足で電車を乗降する。
 なにもそんなに急ぐことはない。たとえ少し急いだとしてもそこに待ち受けるのは相も変わらぬ現状が待ち受けているというのに。しかし次の駅で降りた階段で、私の足も半ば駆け足気味になっているの気づき、思わず私は苦笑いを浮かべ、周りに悟られぬよう私は元のペースに足取りを戻す。
 自己紹介が遅れた。私は楠原徳明、肩書きは一応フリーライターとなっている。フリーライターと言えば聞こえはいいかもしれないが、ようは「なんでも屋」だ。小説を書かせてもらえるときもあるが、たいがいはエッセイや小さなコラム、映画やドラマのレビューにと、いい使いっ走りといったところだ。
 それでもたまに小説なるものを書く機会は得るが、自分が書きたいテーマで書かせてもらうことなど滅多にない。ゲーム、アニメや漫画などのノベライズが多い。とりわけここ最近出版不況で余計に肩身が狭い。付け加えて自分の実力はどう贔屓目に見ても中の上が精一杯だろう。あまり贅沢は言ってはいられない。
 とはいえ自分の失敗で自分自身が痛い思いをするのは当然だが、そのとばっちりがなんの責任のないところまで飛び火するのだからたまったものではない。
 唯一の私の誇りは文屋家業を営んで以来、「各務基」というペンネームでずっと通していることだ。普段は不規則な生活の見本のような仕事ぶりだが、ふいに舞い込んだ一通の封筒によって今日は久しぶりの規則正しい生活に舞い戻ったわけだ。
 馬鹿らしいほどの階段を下りXX線に乗り込む。目的の駅まではたっぷり時間がかかる。私はもう一度手紙の内容に目を通す。封筒からはほんのりと淡い香りが漂う。

 前略
 突然貴方様に文をしたためましたことをお許しください。
 私は川俣瑤子と申します。
 ふとしたことから各務先生の「闇に棲む」を拝読し深く感銘を受けました。
 各務先生の戦争の生々しさを訴えるには十分なほどの表現力はもちろんのこと、戦争に対して色々な角度で捉えそれを土台にした上で一つのフィクション小説にして仕上げるところはさすがとしか言いようがございません。
 さて本題に入らせていただきます。恥ずかしながら私も微力ながらお力添えを致したいと思います。
 つきましては別紙に私の草稿というのか、アイデアなるものをお送りいたします。
 つたない文章で申し訳ありませんが、なにかご意見などありましたらお気軽にお問い合わせください。

                      草々

            〒△△△△-△△△△
            ○○県○○市○○町X-XX-XX
            電話番号(△△△△)△△-△△△△
                         川俣瑤子

 原稿用紙10枚程度に書かれた文章に思わず私は目を奪われる。
 まだこの話には続きがある。その続きが読みたい――私はその一心で手紙に書かれた電話番号に連絡をとってみた。だが、何度かけても留守番電話のままだった。そのたびに私は伝言を残し、ようやく数日前に携帯電話に伝言が入っていたのだ。
 私ははやる気持ちを抑え川俣瑶子の家へと向かう。
 地図があっても迷いそうなほど狭い小道を何度も折れた後、ゆるい坂を登ったところにブロック塀に囲まれた木造二階建ての一軒家が見えた。その家を飾るかのように全長4メートルほどの樹木がにょきりと姿を現す。
 その時一陣の強い風が舞い手紙の移り香と同じ匂いが周囲に立ち込める。
 坂を登りきると広めの庭の両側に先ほど目に映った樹木が目に映る。そして静かにたたずむ家。塀の脇に見落としてしまいそうなほど小さな表札と郵便ポストがある。
 私は躊躇する心持ちを好奇心で無理やり跳ね除けて玄関の呼び鈴を鳴らす。
「はい」
「私楠原と申しますが、瑶子さんはご在宅でしょうか?」
「楠原さんですね。鍵はかかっておりませんのでどうぞお上がりください」
 扉を開くと板張りの玄関に漆喰の壁、その奥からちらりと見える居間は畳敷きになっているようだ。まるで時代に取り残されたようなアナクロな家。だが私はフローリングの床に防火壁に囲まれた現代風の家よりむしろこちらのほうが好きだ。
「ただ今少々たてこんでおりますので居間のほうでお待ちください」
 私はその言葉に従い襖を開けふっくらとした座布団に腰をおろす。
 埃の一つも落ちていない畳からほのかな香りがする。
 どこか妙な家だ。外見は年季の入った家に見えるのに壁も天井もテーブルも襖も箪笥もまるでほんの数日前に買ってきたばかりのような真新しさを感じる。
 襖がゆっくりと開いたかと思うとそこから艶やかな黒髪を結い上げ和服に身をつつんだ女性が現れる。
 その女性はしずしずと私の正面に座り小さく礼をした。
 彼女からほのかに漂う手紙と同じ香りが私の鼻をくすぐる――何かの香水だろうか……
「お待たせいたしました」
「あの……瑶子さんは?」
「私が川俣瑶子です」
「あなたが?」
「はい。なにかご不審な点でも」
「いや実に達筆だったもので……失礼ながらもっとお年をめされた方かと思いました」
「あらこれでも三十はとうに越えてますのよ」
「これは……重ね重ね失礼を。込み入ったことをお聞きしますが、お一人で暮らしているのですか?」
「え、ええ……」
 ほんの少しだけ彼女は顔を曇らせる。なにか訳ありなのかもしれない。私は話題を変えることにした。
「ところで庭に植えてある木は」
「ああ金木犀です。随分前から植えてあるもののようなのです。毎年秋になると花を咲かすのでそのときに香りが家中にたちこめるんです。そのせいかいつまでたっても金木犀の香りがこびりついちゃって。やはり気になりますか?」
「いえ、実にいい香りで、私は好きですよ。なんだか気持ちが安らかになるようで。さて本題に入らせていただきます。送っていただいた作品を読ませていただいたのですが、これはまだ続きを執筆されているのですか?」
「はい。大変中途半端なものを送ってしまい申し訳ありません。ですが出来上がり次第順次楠原さんに送付させていただきますが、ご迷惑でしょうか?」
「迷惑だなんてとんでもない。こんないいものを送っていただいて感謝しています。余計なことかもしれませんが、これほどの作品であれば私のような作家に送らず出版社に投稿すればどこでも飛びつくと思います。なんでしたら何社か知っていますのでそちらをご紹介いたしましょうか?」
「いいえその作品は楠原先生の作品にしてください」
「しかし……それでは」
「いいのです。著作権も楠原先生で結構です。私はただ単にアイデアを提供しそれを生かせていただければ十分なのです」
 私はその後何度か説得してみたが彼女は頑としてその考えを変えることはなかった。
 結局私は一週間後もう一度訪れることだけを約束し帰途につくことにした。

 彼女から連絡が来たのは約束の日の一日前であった。
「楠原先生ですか」
「はい。川俣さんですね。先日はどうも」
「実は……ザ……ていまして……ザザ……申し訳……ザ……ザザ……ザザザザ……でしょうか?」
「もしもし? 少し電話が遠いようなんですが」
「ザザザザザザ……ザ……」
 雑音が混ざった後忽然と電話が切れた。
 その後何度となく電話をかけてみるが雑音交じり留守番電話の声だけが聞こえた。
 私は不安にかられ思い切ってもう一度彼女の家へ訪れようとした時、彼女から一通の封筒が再び届いた。

  ー二ー

 前略
 先日は大変失礼を致しました。
 私ことで大変恐縮ですが、最近多忙になりなかなか家にいる時間がありません。
 作品は完成いたしましたので取り急ぎそちらを送付させていただきます。
 勝手ついで申し訳ありませんが、こちらより連絡を差し上げてお会いしたいと思います。
 それでは簡単な挨拶ながら失礼致します。
 追伸:表題は無題とさせていただきました。表題のほうはお任せいたします。

                      草々
                         川俣瑤子

            (無題)
                川俣 瑤子

 登場人物
 川俣義昭(36):川俣工業の社長
 川俣揺子(31):義昭の妻
 李広利(35):工場長。義賊「蒼き狼」の頭。
 郭侯嬰(30):李とともに川俣工業に入社。かつては義賊「蒼き狼」の一人。以来李の右腕的存在。
 沈子文(24):かつては義賊「蒼き狼」の一人。李を慕う。
 曹竣揚(23):同上
 馮玉祥(23):同上
 鄭沫若(17):同上
 鈴村和久中佐(34):川俣家にかつて世話になったことがあり、以降川俣夫婦をなにかと助ける。

 まだ第二次大戦が始まって間もない頃、当時の満州といえば栄華を極め日本人たちはそれに酔いしれていた。
 この地は選ばれた者だけの土地――そんな錯覚に陥り、人々の心に傲慢という文字が徐々に膨らんでいった。
 当時現地人をなけなしの安い賃金でこき使い、自分の国に我が物顔でよそ者がふんぞり返れば誰だって面白くはない。
 一部ではあるが、現地の人々を同等以上に扱うところもあった。
「川俣工業」――小さな工場一箇のみの言わば零細企業である。だが同業他社は「鉄の川俣」と畏怖の目を向ける。または「鉄キチの川俣」と悪口を言う者もいたが、決して憎しみや妬みから出た言葉ではない。
「川俣工業」は主に自動車、機関車などの小さな部品を製作する会社でだ。社長などを含めても従業員は30名程度だが、成果物の品質と精度と速さは名立たる会社も舌を巻くほどである。
 従業員30名のうち15名が中国人、5名が韓国人、残り10名が日本人という割合だ。実に多国籍の顔ぶれだがお互いに厚い信望を寄せそして互いに切磋琢磨し、まさに社員一丸となっている。
 それは会社が当時としては珍しく能力で評価しそれに見合う給与を与えていたこともあるのだが、やはり社長の川俣義明の人望が全社員を惹きつけて止まないのだ。
 惜しむらくは社員をもっと増やし、それなりの根回しなどをすれば大企業の仲間入りができるというのに、当の社長は一向に経営面を向けないため現在の規模のままである。
「やはり工期を10日延ばしてもらうようにもう一度頼むべきです」
「いやそれはできない」
「なぜです!」
 工場長李広利は食ってかかるように社長の川俣の顔を見つめる。
「いいか。延期の件は5日と答えたんだ。二日前に迫って今更『実は10日延びます』とどの顔してお客様に言うんだ」
「それは……」
 李は肩を落としそのまま言葉を失う。延期を3日と決めたのは李のほうだった。川俣はもっとゆとりを持てと反対したが、ついムキになってぎりぎりの日数で押し切ったのである。李は拳を力強く握り唇を血がにじむほど強くかみ締め自分の不覚を呪った。
「李工場長、五日だ」
「しかしそれでは……」
「お客には私がなんとか掛け合ってみる。君は五日延期でなんとか間に合わせるよう調整するのが仕事だ」
「わかりました」
 軽く一礼し狭く間取られた社長室を後にする。
 貸しを作るつもりが逆に借りを作ってしまった。李の心に悔しさがこびりつく。
「あら、李さん。また社長に何か言われたの?」
 李が声のするほうに振り向くとそこには小柄な女性が立っていた。
 150センチほどしかない背に今にも折れてしまいそうな華奢な体を質素な服で包み、その後ろで一つに結んだぬばたまの三つ編みが小さく揺れる。
 どこかおっとりとした印象を受けるが美人の部類には入るだろう。まだ子供がいないせいかとても人妻には見えない。
「これは副社長……」
「副社長なんて柄じゃないから名前で呼んでいいのに」
「しかし……」
「ふふ……副社長でいいわよ」
 揺子はにこりと誰もが思わず魅入られるほどの笑みを浮かべる。
「それより今日もまた何か言われたの? ごめんなさいね。うちのバカ社長の言うことあんまり気にしないでね」
「いえ」
 互いに小さく挨拶をした後、李は瑶子の後ろ姿を見つめる。先ほどは背で小さく揺れていた膝あたりまで伸びた三つ編みが彼女の歩に合わせて振り子のように大きく左右に揺れる。仕事の邪魔にならないようにするためか、つややかな髪を惜しげももなくきつく結っている。ほどけばもっと魅力的になるに違いない。
 ――俺は何があってもここを守る!
 決して許されぬ揺子への恋慕を李は無意識にこの工場に転化していた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 昭和の年が一つまた一つと増えるごとに不穏な空気が満州を徐々に包んでいく。
 そんな不安感を向かい風で吹き飛ばし、鈴村和久中佐は愛車である陸王を川俣工業へと走らす。ここ最近どうも機嫌を曲げる頻度が多くなり、一度川俣義昭に見てもらうためだ。
 川俣義昭と言えば今でこそ小さな部品工場の主だが、部品さえそろえば一人で二輪車を自在に作ることができると言われているほどの実力の持ち主だ。この二輪車も名前と外見こそ「陸王」だが、厳密に言えば「義昭改式陸王」だ。

「巡察だ」
 鈴村は形ばかり軍人らしく振る舞い、川俣の姿を見つけると小さく敬礼する。
「これは鈴村中佐殿」
「二人だけのときは中佐は要らん。ところで相棒の様子を見てもらいたいんだが。このところどうも調子がな」
「また派手に無茶をしたんでしょう。どれ」
 陸王をやさしくなで義昭は食い入るように見つめる。
 ――いい目をしている。
 夢中で二輪車を調べる義昭の姿が鈴村にはまぶしく見える。
「どうだ?」
「何とか。二三日ほどかかりますけど」
「それぐらいで大丈夫か?」
「ええ、今丁度仕事のほうも落ち着いていますから」
「悪いな」
「いいえ。それより鈴村さん、いいんですか?」
「なあに。たかだか三時間ぐらいだ。たまには歩くさ
 それより……」
「なにか?」
「いや……なんでもない。あまり無理はするなよ」
 つい口から出そうになった決して言ってはならない言葉――日本は負けるかもしれない。だから今のうち満州を離れ母国に帰れ――をなんとか鈴村は飲み込んだ。鈴村の混沌とした心持ちが胸のうちから広がるばかりだ。
 ――私の幻想ならいいのだが。いやこんなことを考えてはいけない。考えるだけでそれこそ売国行為にあたるのだ。
 鈴村はその幻想を無理矢理封じ込める。だが、鈴村の抱いた幻想は刻一刻と「現実」になろうとしていた。
 鈴村は状況が悪いほうへ向かっていくのに感じていた。その思いは日が経つにつれ静まるどころか強くなる一方だ。
 感じ始めたころはほんの些細な歪みだった。まだそれは思い過ごしだと思える程度だった。だがその歪は徐々に大きくなっていく。

 栄華――それはもはや満州のどこからも感じることはできない。次々と日本人たちは満州を去り母国へと帰っていき、一部のものだけが満州に残る形となった。
 噂では露西亜兵が南下し日本人を捕縛しているという。それでも川俣夫婦は満州にいた。
 かつては20名ほどいた従業員も今では李がこの会社に入ったときに一緒に連れてきた5人のみだ。もはやこの地ですべきことはない――することがあるとすれば工場内の整理ぐらいなものだ。もっとも所狭しとあった機械はどこにもない。
 鉄が不足しているという理由で一方的に軍が取り上げていったのだ。
 だがいくら帰りたくても「満州に残れ」という厳礼が下ってしまい、満州から一歩も外には出られない。
「社長……」
「もう私は社長じゃないさ。それよりお前もここを離れたほうがいい。日本人と一緒に働いたというレッテルをつけられ阻害される目に遭わないうちに」
「俺は……決めたんだ! ここを守ると。勘違いするなよ。あんたのためじゃない。ただ野良犬のような俺を拾ってくれた借りを返すだけだ」
「李工場長……」
「そうそう。李兄貴の言う通り」
 工場内でわずかに残った部品などを整理していた五人の男たちが姿を現す。
「水臭いですよ。社長。それに俺らはまだ退職金をもらってないし」
「すみません……みなさん」
 感涙を目一杯に潤ませ揺子は深深と礼をする。
「いや……そんな揺子さん、うちらは別に帰るあても行く所もないからここにいれば寝泊まりはできるだろうかと」
「おい、曹! 本音丸出しだぞ」
「うるせえな。そういうおまえこそそうだろうが」
 まるで兄弟のようにじゃれあう若者たちの姿に川俣夫婦と李は目を細める。
「そうだ。兄貴今日はお二人に贈り物があるんでしょう」
「ああ……そうだった」
 あわてて李は川俣夫婦二人に小さな枝木を差し出す。
 義昭は首を傾げながらも枝木を受け取る。
「なんだ? 突然」
「あら……金木犀。李さん、手に入れるのに苦労したでしょう」
「いえ……たしかそろそろお二人の結婚記念日じゃないかと思いまして。本当はもっといいものを差し上げたのですが、結局金木犀の雌株と雄株の二株だけで……すみません」
 久しかったわずかな幸せの時間。だがそれはさらなる過酷な運命へ落ちる前触れでもあった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 駐屯地に玉音が流れたのは8月15日昼頃のことであった。
 誰もが肩を落としあふれんばかりの悲しみに耐えていた。だがそれも間もなく開放されるだろう。背後から彼らを狙う無数の銃によって。
 耳をつんざく銃声の後もただひたすら音は流れる。その音を耳にしているものは一人としていない。

 その頃鈴村中佐は陸王を走らせていた。
(一刻も早く川俣夫婦に知らせなければ、あの二人が危ない)
 はやる気持ちをぐっとこらえるが、グリップを握る手は汗だくだった。
 あちこちで支那の人々が暴徒と化し日本人たちを襲っている。今の今まで自分たちの国を土足で踏みにじりあろうことか我が物顔でふんぞり返り自分たちを虐げていた日本人たちに対する積年の恨みを晴らしている。
 R駐屯地もD駐屯地も支那兵に教われ血の海と化しているに違いない。
 アクセルを目一杯ふかし鈴村は川俣工業のあるK村へ向かった。

 ――今だ、今こそ復讐の時が来た。
 ――自分たちを虫けら以下に扱ったあいつらに報復するのだ。
 ――積年の恨みを。屈辱を。苦痛を。俺たちが受けたものをそっくり返してやるのだ。
 男たちは身の回りにあるもので武器になりそうな物を手にして幽鬼のように立ち上がる。
 最初は恨みの対象となる一部の日本人だけだったのかもしれなかった。だがもはや今の彼らは「日本人」であれば老若男女誰であろうとお構いなしになっていた。
 彼らの足元にはすでに幾人もの人が横たわっていた。
 最初は一撃で殺していた彼らも襲えば襲うほど次第にエスカーレートしていく。

 許しを請い泣き叫ぶ男を撲殺した――そうだ、もっとわめけ
 気が触れるまで体中を徐々に切りつけた――そうだ、もっと叫べ

 また一人、顔かたちがわかるなくなるまで殴られ血の池に沈んだ。また一人、「人」という形がわかるなくなるまで切り刻まれ血の池に沈んだ。

 まだいるぞ、まだいるぞ。逃がすな。一人として逃がすな。
 ――いた! 日本人だ。
 まだ生まれて間もない赤子を抱きかかえ必死に逃げる一人の女性――俺にもかつて妻と子がいた。二人が病にかかった時、あいつらは休みをとることを許さなかった。土下座までして何度もたのんだというのに。挙げ句の果てに薬も買うことができない金を投げ捨てるように手渡した。結局妻と子は苦しみもだえながら死んだ。
 あの時休ませてくれれば……あの時もう少しでも金を多めにくれれば! あの日本人の女も同じ苦しみを味わうがいい。
 男は真っ先に鉈で降りかかった。女は赤子をかばうために背を丸める。
 ざっくりと背に鉈が刺さりそこから勢いよく鮮血が噴き出す。声にならぬほどの悲鳴を大きくあげながらも女は必死に子をかばう。
 ――ダメダ! ユルサナイ!
 男は何度も何度も鉈を振り下ろす。
 もはや男には「正気」という言葉のかけらも残っていなかった。あるのは「狂気」という恍惚の感情のみ。
 すでに女は声をあげなりびくりとも動かなくなった。それでも鉈はなかなか止まらなかった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「お、おい! 誰かがくるぞ」
「なに?」
 郭が双眼鏡を覗くと二輪車にまたがった男の姿が浮かび上がる。
「鈴村ってやつだ。おい鄭! もたもたしてないで兄貴に知らせろ」
「わかった」
 鈴村が二輪車を止めると一人の男が工場から姿を現す。
「よう。どうだ」
 鈴村はゆっくりと首を振ると李の表情がとたんに曇る。
「まずいのか?」
「もう『女狩り』が始まっている。駅という駅でな。連れ去られたら最後だ。それにもっとまずいことが起こっている」
「なんだ?」
「Y村とD村で暴動が起こっている」
「なんだと」
「とにかくここから一刻も早く逃げるんだ」

 川俣たちはK村から10キロほど離れたG村で身を隠すことにした。G村は数年前から廃村同然であり人一人いない。家屋も形をなしていないものがほとんどだ。
 川俣たちはその中で比較的まともな小屋で小休止をとることにした。全員が中にはいるとぎゅうぎゅう詰めの感があるが、あまり贅沢は言えない。むしろ一時的な雲隠れには最適の場所だ。
「どうでした? 兄貴」
 このあたりの様子を調べに行った李に視線が集中する。
「ああ。なんとか暴動までは起こっていないが、それでも日本人の女はどっか連れ去られるらしい。それに暴動がここまで及ぶのも時間の問題だろう」
「俺たちや社長はともかく、揺子さんをなんとか目立たないようにする方法を考えないと」
「私……髪を切ります」
「揺子さん?」
 今まで体を小さくして義昭の体で恐怖におびえていた揺子が力強い声を発する。
「男に見間違えるぐらいに髪を短くして顔も炭や泥で汚くすればなんとかごまかせると思います」
「でもそれじゃあ」
「いいんです。それに李さんたちがここまでしてくれたですもの。私も自分でできることを精一杯やらなくっちゃ」
「揺子……」
 心配そうに義昭が揺子の肩に手をそえる。
「あなた。髪を切ってください」
「……わかった」

 揺子は後ろで一つに束ねていた髪を解く。大きく頭を左右に振るとたっぷりとした長い髪がばさりと大きく揺れる。揺子は黒髪を一房手にとり愛しげに櫛を当てた。一筋一筋とその髪が櫛で削られるたびに光沢と艶が増す。
 椅子に腰をおろすと揺子の髪は床に届きそうだった。
 揺子は汚れた皮袋から布に包まれた漆塗りの小箱を義昭に手渡す。その小箱の上段には手鏡、小箱の下段には鋏と手動バリカンが入っていた。
 揺子は鋏を義昭に手渡す。
 滝のように背を流れる黒髪の一房を手に取り、ゆっくりと鋏を近づける。揺子が小さく頷くと「ジャキリ」という音が鈍く響いた。
 ――バサリ
 床に何十センチもの黒髪の束が床に散る。鋏で切られた髪は肩の上で小さく揺れる。
 義昭は無言で鋏を李に手渡す。
 李はまだ膝まである髪の一房を手にとる。「髪は女の命」どこかでそんな言葉を聞いたことがある。その言葉どおりだとするならば彼女はその命を切っているのだ。
 手で触るとサラサラとしていて、いつまで触っていたい気持ちになる。
 どれほど手をかけてどれだけの思いを込めて伸ばしてきたのか――それを考えるときとても切るつもりにはなれない。
 工場の中で揺れる黒髪――もうそれを見ることもできなくなるのだ。
 再び揺子は小さく頷く。李は震える手を必死に止めてゆっくりと刃を閉じていった。
 一人また一人と鋏がわたるたびに揺子の髪は短く切られていった。
 誰もが無言だが顔には苦渋の表情を浮かべていた。ただ一人揺子だけは笑顔のままだ。 揺子は笑顔のまま涙を流していた。
 右半分は肩の上で無残に切り落とされ、残りの半分にも鋏がゆっくりとだが確実に入ってゆく。
 切り落とされた髪は床を黒く染めてゆく。
 ――ジャキ……バサリ
 ――ジャキ……バサリ
 最後の一房も義昭の手で切り落とされる。
 ――ジャキリ

 五人は居たたまれない気持ちになって家から出ることにした。
 李は目から涙を流しすっかり短くなった揺子の黒髪を見つめていた。先ほどまで地面すれすれで小さく揺れていた髪は今では肩に届かないほどになっている。そこからわずかに見える細い首筋が痛々しく映る。鈴村も先ほどから帽子を深くかぶり揺子を直視していない。
 鋏を小箱に仕舞い込んだ義昭はバリカンを手にとる。長いこと使っていなかったが、普段手入れを怠らなかったためか錆一つ見あたらない。義昭は取っ手に力を入れる開閉させると、わずかな金属の摩擦音を残し細かい刃が小刻みに開閉する。
「本当にいいのか?」
「いいの。丸刈りのほうが男に見間違えられやすいでしょ。だから思いっきり短くして」
 揺子の艶やかな前髪をかき分けそこにゆっくりとバリカンを入れてゆく。
 ――ジキジキ……ジャキリ……
 前髪が根元近くから離れ揺子の目の前をゆっくりと舞い落ちる。
 鈍い金属をたてバリカンはゆっくりとゆっくりと揺子の頭上を這い進む。
「う……う……うう……」
「痛いのか?」
 揺子は涙を流しながらも笑顔を浮かべ小さく首を振る。
「だいじょうぶ……つ……続けて」
「……わかった」
 義昭は再びバリカンの取っ手に力を入れる。ゆっくりと力を入れる。
 ――バサリ、バサリ……
 前髪が数ミリ程度に切りそろえられてゆく。最初は小さく聞こえていたバリカンの金属音が耳に大きくそして深く突き刺さる。
 髪を刈るたびにバリカンの刃の間に長い髪が絡み、そのたびに義昭は丹念に絡みついた髪を取り払う。そして義昭は妻に悟られぬようにこぼれだした涙を振り払った。
 揺子は口を手で押さえ必死に泣き声を噛み殺している。
 右半分は肩あたりまでだが、すでに左半分は針鼠のように短く刈られていた。そこからは地肌が透けて見える。その右半分にもゆっくりとだがバリカンが侵入する。
 右肩に切られた髪がバサリバサリと落ちて、一房はそのまま肩に残り、残りの一房は肩を流れ地面に舞い落ちる。
 残りの後ろの髪を義昭が掬い上げると、揺子は驚いたのか、ビクリと体を小さく震わせおずおずと頭を垂れた。揺子の首筋にひやりとした感触があたる。

 ――ジャキ、ジャキ、ジャキ、ジャキ……バサッ! バサバサバサ……
 ――ジャキ、ジャキ、ジャキ……バサッ! バサッ!

 スルスルと揺子の背中を流れたい量の黒髪の束が床へと流れ落ちる。
 長い髪の面影が金属音ととも徐々になくなってゆく。バリカンがいままで一番鈍い音をたてると最後の一房が宙を舞った。揺子は手鏡の中で歪んだ笑顔を見せるとそのまま声もなく泣き崩れた。

「揺子さん?」
「どう? 男の人に見えるでしょ?」
 揺子の変わり果てた姿を見ると誰もが口をつぐんだ。声を離さなければ小屋からひょっこり出てきたやんちゃ坊主と見間違えるだろう。胸はタオルを巻いてごまかしているからなおさらだ。
 義昭たちは痛々しい目つきで揺子の短くなった髪を見つめる。かつて膝まであった髪は無惨に短く数ミリ程度に刈られていた。揺子は恥ずかしそうに慣れない手つきで頭をさする。
「そんなに見ないでくれます?」
「あ、ああ……すいみません……」
「そ、それより早く港のあるP市に向かいましょう」
「まずいのか」
「ええ。さっき様子を見に行ったのですが、ここが見つかるのも時間でしょう。それに日が経てば経つほどP港の検問も厳しくなるでしょう」
 郭の言葉にその場の空気が一層重苦しくなる。
 その空気を吹き飛ばさんばかりに揺子が明るい声を出す。
「みなさん、それじゃ今日は遅いから明朝出発しましょう」
 男たちは驚いた顔を一斉に揺子へと向ける。やがて彼らは噴出し大きな笑い声をあげる。
「ど、どうしたの?」
「い、いや……あまりにも顔と声が一致しないから」
「まあ! あなたまで!」
 腹をかかえ笑いを堪える夫に揺子はむくれてそっぽを向いた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 明朝川俣たち一行はG村を出た。どの顔も不安の表情を一様に浮かべている。しかしそこに鈴村和久と李広利そして郭の三人の姿は見当たらない。
 朝起きると三人の姿はなく、G村周辺をくまなく探しても見つからなかった。
 必ず三人はどこかで姿を現すに違いない――そう信じて川俣たちはG村を後にしたのである。
 G村からP村までは荒地ばかりで村落などない。天候にも左右されるが、P村まで最低五日はかかる。残った食料も多くはない。過酷な旅になるのは目に見えている。それでも前に進むしかない――六人の足取りは着実にP村まで進んでいった。

 少なくても日本の軍人がいれば囮になる――そう思い鈴村はK村まで戻った。
 武器になるものといえば堅い木の棒ぐらいだ。苦笑いを浮かべ木棒を手に取った時だった。背後から足を音が聞こえた。
(一人……いや二人?)
 木棒を力強く握り締め鈴村は足音のするほうに振り向く。
「いよう、鈴村中佐。奇遇だな」
「李……郭……」
「鈴村中佐、忘れ物でも取りに戻ったのかな」
「そうだ。おまえたちは何しに来たんだ!」
「郭がよ、あんたが思いつめた表情で夜も明けないうちに出ていったのを見かけてな。俺たちもついてきたってわけだ」
「そうそうこんなバカはほっとけないってね」
 郭はにやりとした笑顔を浮かべ、すっかり面を食らった表情の鈴村の肩にポンと手を置いた。鈴村にもようやく笑みが零れる。
「君達は日本人が嫌いじゃなかったのか」
「ああ今でも嫌いだ。だがなバカは嫌いじゃない。それにバカがあと二人増えてもあんたも困らないだろう?」
 屈託なく笑みを浮かべる二人。この二人を見ていると、いったいなぜ自分たちが戦争をしていたのかという疑問が脳裏に浮かぶ。何のための戦争なのか誰が為の戦争なのかと――そんな答えのない疑問が鈴村の胸にしこりとなって重々しく残る。
 ようやく鈴村は搾り出すかのように声を発した。
「君達も相当なバカだ」
「なごやかに話していたいが、そうも言っていられなくなったかな」
 窓越しに外を見ると二三十人の人影が徐々にこちらに近づいてくる。
「思ったより早いな」
「なあ……鈴村中佐」
 ようやく鈴村は笑みを作り李の言葉を遮る。
「もう中佐じゃないさ。李工場長」
「俺ももう工場長じゃない。それよりもし無事に三人生きていられたら酒でも飲み交わそう。あんたとだったらうまい酒が飲み交わせそうだ」
 李は指で杯の模りそれを口に運ぶしぐさをする。
「兄貴……」
「わかっている。団体さんがお着きだ。鈴村……殺すなよ」
「ああ、同じ過ちは繰り返さん」
 三人は勢いよく工場から飛び出した。

 工場から出てきた人影に男たちはゆっくりと手にしていたものを身構える。それは鉈であったり、鉄棒のような物であったり様々ではあるが、いずれの武器にもべったりと血糊が付いていた。いや、武器ばかりではない。衣服にもあたかもなにかのデザインであるかのようにどす黒くなった血がこびり付いている。
「誰だ?」
「李だ。ここの工場長だ。なんのようだ?」
「この工場にカワマタという二人の日本人がいるはずだ。素直に引き渡せ。さもないと……」
「さもないと?」
「同胞だが仕方がない。痛い目にあってもらう。日本人をかばった罪としておまえたちを日本人とともに裁く」
「裁くだと? なんのためにだ」
「おまえたちもあいつらに辛酸を味わったからわかるだろう。日本は負けたんだ。もう日本人をかばう理由はなにもない。むしろ今度は我々がかれらに報いを……裁きを与える番だ。もうおまえたちはそこにいる日本人に洗脳されたんだろう」
 その言葉が虚空に大きく響くと、李の目が怒気を含む。
「報いだと? 裁きだと? たしかに俺たちの国を土足で踏みにじり俺たちを動物のように扱った日本人もいるだろう。だがなそんなことをしなっかった日本人もいたはずだ。おまえらはそれとは無関係に殺戮を繰り返しているだけだ。そんなことをして被害者面するんじゃねえ! いいかおまえらはもう日本人のことをとやかく言う資格なんてねえんだよ。それに俺はここの工場長だ……俺はこの工場を守る義務がある。どうしてもっていうんだったら俺を倒すんだな」
 李はそう言うとおもむろに深呼吸を繰り返す。やがて李の体を包むかのようにおびただしい気がたまる。
「お、おい……李ってまさかあの李じゃないのか」
「ああ……間違いねえ。『蒼き狼』の李だぜ」
「誰だ?」
「おまえ知らねえのかよ。あいつはかつてあくどいことやってるやつから金を取っては貧しいやつらにそれを振りまいたんだ」
「ただの義賊じゃないか」
「そ、それだけじゃねえ! あいつなんでも拳法の達人で何人か殺したとか」
「素手でだと? 馬鹿な……単なる噂だ。気にするな。それよりこっちは大勢いるんだ。かまうものかやっちまえ!」
「じょ、冗談じゃねえ」
 途中で脱兎のごとく逃げ出した数人を除き、数十人の人影が一斉に李たちに襲いかかる。

 怒涛のように襲ってきた男を李と郭は洗練した動きで捌く。鈴村を木の棒を木刀代わりにして次々と襲いかかる男たちを昏倒させてゆく。一人また一人とゆっくりだが確実に減っていった。そしてついに残るは一人。すでに男はだらしなく座り込み全身を震わせている。
「た……助けて……くれ」
 すっかり戦意喪失した男を鈴村が手を貸し起き上がらせようとしたときだった。
「! いかん。鈴村!」
「え?」
「てめえ!」
 郭は慌てて男を制止する。

 ――ブスリ……

 鈍い音をたてて鋭利な刃が鈴村の胸から背へと貫通する。
 鈴村は信じられないものを見るような目つきで自分の胸に刺さったそれを見つめる。
「スズムラー!」
 李の声が虚しく荒涼とした大地に響き渡る。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「ねえ……あなた」
「なんだ?」
「今声が聞こえなかった?」
「いや……だがなんだか胸騒ぎがする」
「あなたも? 私もなんだか」
「とにかくP村までもうすぐだ。急ごう」
「ええ」
 不穏な空気に追われるかのように川俣たち六人は足取りを速めた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「よう……」
「李か……もう片付いたのか」
「ああ……あまりしゃべるな。いいな。郭が今医者を呼んでいる。安心しろ急所は外れている。見た目はひどい出血だが大丈夫だ、助かる」
「君は嘘が下手だな」
「……」
「……君に頼みがある」
「なんだ? 言ってみろよ」
「もし日本に行く機会があたらこれを家族に渡してくれ……それから……李、君と酒が飲みたい……」
「いいぜ」
 李は小瓶を内ポットから取り出し蓋になみなみと酒を注ぐ。李はそれを鈴村の口へ近づけた。
「飲めよ……どうしたんだよ……口……から……酒が……あふれてるぜ。なんだよ……飲まねえのかよ……ほら……俺が……ついでるんだから……飲めよ」
 両目から涙をこぼし李は鈴村の口に酒を流し込むがそのたびに鈴村の口から赤く濁った酒が押し戻される。
「……しかたねえな」李はそう呟くと残った酒を自分の口に流し込んだ。

「兄貴、すいません。あちこち医者を探したんですけど、どいつもこいつも逃げ腰で……兄貴? 鈴村は?」
「……死んだよ」
 李は力なくうなだれ残りわずかになった酒をあおった。郭も拳を力強く握り締めやりきれない感情を必死に抑えている。
「なあ郭」
「なんです?」
「俺たちは……いや俺はいったい誰を恨んでいたんだ? 誰に憎しみを抱いていたんだ? 確かに俺の両親は日本兵になぶり殺された。そのとき俺は日本人を狂った犬のように感じた。だが俺たちの同胞はどうだ? 日本が敗戦国と決まったとたん、今まで大人しくしていたの奴らが日本人たちを襲っている。その時の顔が、目が、表情があの時の日本兵と同じだった。いったい何がそうさせたんだ?」
 苦々しい言葉を李がはき出すとそれに続くように郭は言葉を絞り出す。
「……飢えていたんですよきっと……俺たちも、日本人も。その飢えが頂点に達すれば誰だって狂った犬と変わらない。きっと……俺も兄貴も……
 それより兄貴、これからどうします?」
「俺は……日本に行く。行って鈴村の家族に渡さなければならないものがある。もしかしたら二度とここには戻れないかもしれない。郭お前はどうする?」
「俺はここに残ります」
「そうか……俺はP村に行く。運がよければ合流できるかもしれん」
「じゃあ兄貴とはここでお別れですね」
「ああ……元気でな」
「兄貴も」
 二人の影はお互いに背を向けると徐々に離れていった。

   エピローグ

 それから川俣たちは無事に日本に帰国することができた。帰国後義昭は再び社員数七人という小さいながらも「川俣工業」という会社を興し、時代に紆余曲折しながらも会社に軌道に乗せ、徐々にではあるがその規模を大きくしていった。
 その中で社員から「工場長」というニックネームで親しまれ、会社の中核的存在であった男がいた。その男が李広利であるかどうかは今だ定かではない。

                                <完>

  ー三ー

 京間は深い息をついて手にしていた原稿をばさりと置き不機嫌そうな顔を私に向ける。
「よく書けてるじゃないか。まあ、加筆修正するところや多少練り直してもらわないところはあるがな。これなら単行本として出しても大丈夫だ」
「そうか」
「なんだ。久しぶりの大仕事になろうとしているわりには不満そうだな。もしかしてこれがお前の完全なオリジナルじゃないことを気にしているのか。もしそうなら気にするな。原紙を見せてもらったが、ほとんどお前が書き直しているじゃないか。これはお前じゃなければ書けない文章だ。気にするな」
「いや、それはいいのだが……ただな」
「なんだ?」
「なんとなくな。三十代の女性にしては不自然すぎる文だ」
「そうか。それは彼女の個性だろう」
 私は嘯く彼をひとにらみする。京間はその視線に気づいたのか一つ咳払いをして急に「編集長」の顔に戻る。
「ふん、これは俺のあくまでも勘ってやつだがな、字の書き方、肉筆の強さなどなどから見てもだよ、三十の女性が書くしちゃああまりにも老けすぎているな。この文章は少なくても八十歳後半のおばあさんが書いた文だ。もっともお前が会ったその女性は代理なのかもしれないがな」
「そうか」
「気になるか? そんなに気になるんだったら仕事をやる。『川俣揺子』のことを調べろ。お前の納得がいくまで。期限は10日だ。それで結果を俺に提出しろ。交通費とかその他もろもろの経費はこっちでもつ。いいな」
「いいのか?」
「ああ、俺もな彼女のことを調べたくなったよ」

 私は早速○○町へ向かい「川俣揺子」について彼女の家の近所に聞いてみることにした。
「山本」という表札のかかった門のドアフォンを鳴らすと、わずかに遅れて少し曇った声が返ってきた。
「はい。どちら様?」
「お忙しいところすみません。私G社の楠原と申しますが」
「出版社のG社?」
「はい。実はこのたび弊社でガーデニングの月刊誌を刊行することになりまして。そこで偶然こちらを通りかけましたらお隣の川俣様の立派な金木犀が目に留まりまして、川俣様にお話を伺えればよかったのですがあいにくお留守のようで」
「あら川俣さんのお宅ね。川俣さんよく出かけるみたいだから。ちょっと……ザ……待ってね。立ち話もなんでしょうから……ザザ……」
 ドアフォンの声が雑音で途切れるとドアが金属音をたてて開く。中から出てきたのはいかにもおしゃべり好きの主婦だ。
「どうぞ。中に入って」
「それでは失礼します」
 家の中に入るなりかすかに鼻をくすぐる匂い。これは金木犀だろうか。
 彼女はお茶を出すとそのまま世間話を話し出す。駅前のスーパーがどうの、隣の犬がうるさくてしかたがないだの、と私にはどうでもいい話を機関銃のようにしゃべり出す。
 私は内心苦笑いを浮かべわずかな話の間を狙い言葉を挟んだ。
「ところで川俣さんのお宅のことを二三お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ構わないけれど、でもあんまり立ち入ったことはちょっと……」
「もちろんです。まず川俣さんはどなたかご家族と同居なさっているのでしょうか?」
「いいえ彼女一人暮らしだったと思うわ」
「そうですか。ところで川俣さんの庭にある金木犀はいつ頃植えられたかご存知ですか?」
「そうね。いつ頃からかしら。ずっと前からあったと思うんだけど。あ! そうそう。川俣さんの金木犀すごく珍しいらしいのよ。雌株らしいのよ」
「雌株?」
「そうよ。日本にあるのは雄株で雌株はないみたいなの。だからあの木が日本唯一の金木犀の雌株ね」
「本当ですか。それは是非とも取材させていただきたいですね。ところでお宅も金木犀を栽培なさっているのですか?」
「あら? どうして?」
「いえ……お宅に入るなり金木犀の香りがしたもので」
「そう? 川俣さんの家と塀を挟んですぐ隣でしょ? だからいつのまにか私のところも金木犀の移り香が染み付いちゃったのね」
 くすりと彼女は苦笑いを浮かべる。彼女自身そのことを迷惑とは思っていないようだ。「もっとゆっくりしていけば?」という彼女の半ば強引な誘いを断り、私はもう一度川俣家の様子を見てみることにした。
 まだ川俣瑶子は戻ってきていないようだ。私は仕方なく内ポケットの奥に仕舞い込んだ携帯を取り出す。
 携帯のディスプレイの表示を目にし私は思わず目を疑う。
「圏外? そんな馬鹿な」
 ○○駅に着いたときには携帯は使えた。その○○駅からここまで二十分ぐらいの距離だ。私は訝しみながらも駅に戻ることにした。
 ○○駅に戻るなり携帯が苛立たしそうに身を震わせ出す。
「もしもし」
「おい! おまえどこに行ってるんだ? まさか川俣瑶子を調べるとか言ってどっか遊びに行ってるんじゃないだろうな」
「冗談を言え。俺はちゃんと○○町に行ったさ。おまえにも地図を渡しただろ? ちょっと入り組んだところだがその地図を見ながらなら方向音痴のおまえでも簡単に着くさ」
「おまえ……本当にあの地図で川俣の家に着いたのか?」
「ああ……それがどうした。まさか迷って着かなかったのか」
「おまえ早くこっちに戻って来い!」
 京間は珍しく感情的な声で私を怒鳴りつける。
「おい、どうしたんだよ」
「いいから! とにかく戻ってくるんだ!」
 耳障りな音をたてて携帯が切れる。私は顔をしかめながらも仕方なく東京に戻ることにした。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 出版社に戻ると京間は蒼白な顔を私に向ける。
「どうした? 不景気な顔をして?」
「おまえ……最近変な亀でも助けたのか」
「なに言ってるんだ」
「まあ……いいから座れ」
 要領を得ぬまま私はすっかり疲れきったソファーに腰を沈める。
 ヤニで汚れたテーブルカバーに私の渡した地図のほかにそれより一回り大きい二枚の地図のコピーが並べられている。
「最初の方はおまえが持ってきたやつよりも詳しい地図だ」
「これがどうした?」
「まあ、いいから二枚目を見ろ」
「……一枚目と違う場所のようだが」
 京間は大きくため息をつき、まじまじと私の顔を見つめる。
「一枚目も二枚目もどちらも同じ場所だ。二枚目は現在の地図だ。そして最初の地図は同じ場所の30年前の地図だ。そしてお前が俺に手渡した地図は最初の地図と同じだ。つまりお前は30年前の地図を見て川俣瑶子に会ったことになる。
 いいか。よく聞けよ。○○町はな30年ほど前に区画整理されて今じゃマンションがずらりと建てられている。川俣瑶子の一軒屋どころか住宅地なんかどこにもないんだ」
「お、おい冗談もいい加減にしろよ」
「当時地方紙が小さいながらも取り上げている。これはその時の新聞のコピーだ。
 それからな当の川俣瑶子だがな、彼女は10年ほど前に亡くなっている。夫の川俣義昭のほうはもっと早く亡くなっているし、二人に子供生まれなかったそうだ」
「つまり俺は30年前の○○町に行きそこですでに故人の川俣瑶子に会ったと言うのか。そんな馬鹿な」
「俺の話だけじゃ信じられんだろうな。で……だ、お前に会いたいっていう人が来ている。応接室で待っているからあとはその人の話を聞いてみるんだな」
「だ、誰だよ」
「いいから会ってみろ」
 私はすっかり混乱した頭を整理できないでいるうちに応接室の扉をノックした。
「失礼します」
 応接室に入ると、一人の老人がまるで信じられないような光景を見ているような表情を私に向ける。年齢は90歳ぐらいだろうか、白髪で顔も手も皺だらけだが脆弱な感じはまったくしない。
「お……おお、まさに生き写しだ。まさかここまで似ているとは……」
「あの……大変失礼ですが」
「大変失礼しました。私は鈴村インダストリアル株式会社の鈴村と申します」
 平静を取り戻した老人から手渡された名刺を見て思わず私は素っ頓狂な声を出てしまった。
「鈴村インダストリアル? あの自動車の大手の? 鈴村和久……待てよ……ま、まさかあなたは……」
「今年の四月に社長から相談役となりました。もう私も年ですから」
「それで鈴村さんは私になにか?」
「はい。先ほど京間さんからこの原稿を見させていただきました。楠原さん、あなたはたしかに川俣瑶子と名乗る女性からこの原稿を受け取ったのですね?」
「はい。一週間前ぐらいだったと思います」
「そして二本の金木犀の生える家を訪れたと?」
「ええ。ですが先ほど京間から話を伺い、私自身夢の中の出来事のような気がしているのですが」
 彼は無造作に古びた一枚の写真を私の目の前に差し出す。なにかの集合写真だろうか、前列の椅子に座った二人の人物を中心に五人の人物が囲み、さらにその後ろには二本の木が背景を添えるかのように立っている。
「これは?」
「今の鈴村インダストリアルを創業した当時の記念写真です。当時は川俣工業という会社名でした。楠原さん、一番前の右側に座っている人物をよく見てください」
「この少し若い少年のような方ですか?」
「はい。白黒で髪も五分刈りになっていますが、その人の髪を長くした姿あるいは髪を結い上げている姿を思い浮かべてください」
 私はその写真の人物の髪型を変えた姿を頭に映し出す。ふいにある人物と姿が重なる。 艶やかな黒髪を結い上げ和服に身を包んだ女性、そして写真に写っていた木……あれはまさか……金木犀……
「ま、まさか……そんな」
「その方こそ川俣瑶子さんです」
「馬鹿な! 私は彼女に会ったんですよ。しかもどう見ても年齢も30代でした。もしこの写真が川俣瑶子だとしたら、私は誰と会っていたんです? 彼女の親戚とですか」
「瑶子さんそして義昭さんの方にも身寄りの方はいません。なんでも戦時中に空襲で亡くなられたそうですから」
「では私が行った○○町は30年以上前の○○町で、私が会ったのは瑶子という人物は30年以上前の紛れもない本人だと」
「おそらくそうでしょう」
 私は全身の力が抜け眩暈を感じそのまま倒れそうになる。今の私の顔を鏡に映したらそれこそ幽霊に見間違えられるだろう。
「では仮にそうだとしたらいったい彼女はなんで私に」
「楠原さん、あなたは川俣義昭になにもかもそっくりなのです。顔も背丈も声もそして仕種さえも」
「先立たれた夫に似ている私を見て彼女は再び姿を現したと?」
「私にもなぜ瑶子さんがあなたの目の前に現れそしてそしてあなたに会ったのかはわかりませんが」
 私はテーブルに置かれた写真を手にとりゆっくりと見つめる。
 短い髪の瑶子に寄り添うようにして座る義昭の姿。確かに背格好も顔も似ているのかもしれない。その後ろに写った金木犀もあの日彼女の庭で見たままだ。おそらくあの時と同じ香りで。
 金木犀? その言葉が頭に浮かび上がり私は京間を呼び出す。
「なんだよ、楠原。急に」
「すまん。○○町にあった二本の金木犀が今どうなっているか。ちょっと調べてくれ」
「どうするんだ。そんなこと調べて」
「いいから早く!」
 京間が再びむっつり顔を応接室に覗かせたのはそれから五分ぐらいだ。
「ほらよ。お前の勘通りだよ」
「やはり」
「なんです?」
 鈴村も私の表情をみて京間から手渡された紙を見つめる。
「鈴村さん、写真に写っている二本の金木犀ですが、雌株のほうは今もあるそうなのですが、雄株のほうは昨年枯れてしまったそうです。
 鈴村さん、私はもう一度○○町に行ってみようと思います」
「だめだ! 危険すぎる」
「京間、行かせてくれ」
「わかっているのか? もう今存在しない所に行くんだぞ」
「二度行ったが無事に帰れたじゃないか」
「今度もそうとは限らないだろうが」
「私も行きましょう」
 鈴村はやおら立ち上がり私のほうに近づき笑顔を向ける。
「鈴村さん……」
「京間さん、私が付き添って何が何でも楠原さんを無事に帰しますよ」
「しかし、鈴村さん」
「なあに老いたとはいえこれでも昔は『蒼き狼』と恐れられたものです。ご心配には及びません」
「鈴村さん、あなたまさか……」
「楠原さん、行きましょう」
 にこりとした鈴村の表情に険しく鋭い目が光る。私は差し出された手を握ると、驚くほどの力で彼は私の手を握り返した。

「じゃあ行ってくる」
「おう、楠原ちょっと来い」
「なんだよ」
「いいか。おまえのどこがいいのかわからないが、おまえにベタ惚れした妹がいる。その妹をあまり悲しい目にあわせるなよ」
「わかっているさ」
 人差し指を京間に向けると、不機嫌そうな顔で親指をたててそれに応える。

 ――必ず帰るさ

 私は駅で心配そうに見送る京間に笑顔で手を振った。

  ー四ー

 ○○町に着いたのは夕方に差し掛かる頃だった。町並みが夕焼けで赤く染まりだすが、そこに高層マンションの形は浮かんでいない。
「どうやら昔の○○町に着いたようですね」
「ええそうみたいです。楠原さん、行きましょう」

 狭い小道を何度も折れた後、以前来たときと同じようにゆるい坂を登ったところにブロック塀に囲まれた木造二階建ての一軒家が見えた。その家を飾るかのように全長4メートルほどの樹木がにょきりと姿を現す。そして思わず目を閉じてしまうほどの一陣の強い風が舞い、金木犀の香りが周囲に立ち込める。
「お待ちしておりました」
 風が吹き止むと目の前に艶やかな黒髪を膝あたりまで伸ばした女性が立っていた。
「川俣瑶子さんですね」
「はい。楠原先生ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
 鈴村は瑶子の姿に吸い込まれるようにゆっくりと歩き出す。
「瑶子さん」
「李さん、いえ鈴村さん。ごぶさたしておりました。それとここまで『鈴村工業』をもり立てていただいて有り難うございました」
「そんな。私はただ……それになんの断りなく社名も変えてしまって」
「いいえ。私は夫とともにずっと今まで見守ってきました。鈴村さんは本当によくやってくださいました」
「瑶子さん、あなたは……」
 我ながら無遠慮だと思いながらもついと出たその質問を彼女はにこやかに答える。
「はい。この姿を見ていただければおわかりになるかと思いますが、私はすでにこの世の者ではありません。死後金木犀の力を借りこうして姿を現しているだけなのです。この姿はかりそめの姿、長くこの姿でいられるはずはありません。ですが、夫はすでに金木犀より離れあるべきところへ戻れたというのに、私だけなぜだか戻れません。おそらくこの世にまだ名残があるせいかと思い、楠原さんに筆をしたためたのです。……楠原さん、鈴村さん、お二人に不躾ながらお願いがあるのです」
「なんですか?」
 私は緊張のあまり思わず喉の音を立てる。
「最後の現世への名残である……この髪を落としてください」

「剃髪式」と呼べばいいのだろうか、川俣瑶子の髪を彼女の家で切ることにした。
 どこで手に入れたのか、鈴村さんは息を切らしながら、バリカンと剃刀そしてシェービングクリームを持ってきた。彼女はそれをみると一瞬だけ緊張した顔になったがすぐに笑みを作った。その笑みが私には痛々しく映る。
「あの……なにか下に敷いたほうがいいのでは?」
「いえ、このままで結構です。この畳も、この家も、街もなにもかも偽りのなのです」
 彼女の腰をはみ出し畳を流れる艶やかな長い黒髪、これも偽りなのだろうか……
 鈴村さんは頑なに彼女の髪を切ることを拒んだ。しかたなく私はバリカンを手にとる。 スイッチを入れると、バリカンは小さい体ながらも思ったよりも強い振動を繰り返す。びっしりと生えた刃は左右に小さく揺れ、銀色の残像を泳がせる。
 彼女は正座をし、儀式の始まりを厳粛に待っている。
 自分でもさぞ間抜けな声を出してしまった。
「よろしいですか」
「……はい」
 彼女が頬にかかるほどの前髪をバサリと払いのけると、その分け目から額にびしりと生える髪の茂みが露わになった。
 私は震える手でゆっくりとそこへバリカンを近づける。
 あと少しこの手を進めたら……
 この振動を繰り返すバリカンをほんの少し前に動かしてしまったら……
「楠原さん、大丈夫ですよ。この姿は偽りなのです……ですから思い切りよくお願いします」
 その声が耳に入ったとたん、私の手がまるで自分のものではないように、なんの躊躇もなく前髪のほぼ真中にバリカンを入れた。
 バリカンの音がくぐもった音をたてると、頬にかかった前髪がそのまま彼女の前を流れ、畳の上に落ちる。
 ――ゾクリ。罪悪感と緊張感の中に生まれた、背筋が凍りつくような快感。この感じはなんなんだ?
 私の手に握られたバリカンは自分の意志を持ったかのように、彼女の髪を次々と刈ってゆく。
 数ミリ程度の刈られた前髪から青白い肌が透けて見える。その部分が妙になまめかしく移る。
 畳は黒髪が束になり、黒々しい海を模っている。
 バリカンを横のほうに滑らせると、彼女の体がビクリと震える。バリカンの刃が進むと毛先から髪が宙に舞い、それが彼女の肩に触れる。
 彼女の瞳からは幾筋もの涙が流れる。
 ――バサリ。
 左側の最後の一房がするりと彼女の肩を流れた。

 右側は長い髪のままの川俣瑶子、左側は丸坊主になった少年。その二つの姿が彼女の手に握られた鏡の中で映る。
 正面から見ると滑稽な姿だ。その滑稽な姿を彼女は目を逸らすことなくじっと見つめ、声もなくただひたすら涙を流す。
「つ……続けてください」
 私はバリカンを右側の方に走らせた。躊躇せずにバリカンを入れたため、バサバサとけたたましい音をたてて黒髪の束が彼女のもとから離れ、そして畳に落ちていった。
 最後に残る後ろの髪を彼女はゆっくりとたくし上げる。先ほど短く刈ったばかりの前髪の部分に黒い髪の束がバサと流れる。
 露わになった細く白い弱弱しい首筋に思わず私の視線は釘付けになる。
 彼女がうつむき加減に顔を傾けると、そこに数本の髪がハラリと落ちる。
 胸が締め付けられそうになりながらも私はそこにバリカンの刃を近づける。

 最初に項に生えていた細い髪がパラパラと落ちていった。次に黒い生え際に刃を近づけると、わずかに刃が入っただけ一瞬盛り上がったかと思うと、バラリと根元から離れた。その代わりに青白い地肌がくっきりと表れる。
 別れを惜しむかのように、あるいは、最後の躊躇う心を表したかのように、徐々に、ゆっくりと、バリカンを頭上へと這い上がらせてゆく。
 それは彼女にとっては残酷な行為かもしれない。彼女にとってすれば、いっそのことあっという間に終わらせて欲しいのかもしれない。
 それでも私の手はまるで呪われたかのようにゆっくりとしかバリカンを動かすことができない。
 バリカンによって切られた髪はわずかに宙を彷徨うが、決して再び彼女の元に戻ることはない。
「終わりましたよ」
 私の声と同時に彼女はさらに顔を傾け、ゆっくりと手を離す。
 ドサッという重々しい音をたて大量の長い黒髪が畳を流れ、放射状に広がっていった。 数ミリ程度になった彼女の頭は一回りか二回りほど小さく見えていた。
 かつては長い髪に隠れて見えなかった大き目の形のよい耳、細く引き締まった顎、青白い項、そしてより丸みを帯びた頭の形。ここに今度は剃刀を当てるのだ。
 シェビングクリームをまず手に噴き出す。ガスの漏れた音の後に白い泡が雲上に積もる。 泡がはじけるような音を止まぬうちに私はそれを摺り込むようにして彼女の頭になじませる。
 青白い地肌が白いそれに包まれてゆく。
 彼女は唇を硬く噛み締め、その光景を鏡越しに見つめる。
 その顔がゆっくりと頷いた。私はそれと同時に前髪の生え際あたりに剃刀を当て、それをゆっくりと引く。
 ゾリともゴリとも聞こえる鈍い音とともに真新しいほどの青白い道が引かれる。剃刀の前には白い泡の塊にゴマをまぶしたかのように短い髪が無数に姿を現す。
 もはや躊躇うことなく私は剃刀を前髪のあたりから後頭部のあたりまで二三度往復させる。
 彼女の短くなった髪はほんの少しの抵抗をし、そして白い泡の中に吸い込まれてゆく。 プラスチック製の洗面器に並々と注いだ水に剃刀を浸すと、白い泡が拡散し、それに遅れるように短い髪が水面に浮かび上がる。
 わずかながらも水気を含んだからだろうか、すっかり剃り落とされた彼女の青白い頭は日の光を浴びずとも妖艶ともいえる光沢を返す。
 その艶やかさは長い黒髪のときはまったく対照的なものだ。
 最後の後頭部にも剃刀をあてる。数回剃刀が往復しただけで彼女の髪は剃刀の中へ消えていった。
「楠原さん……鈴村さん、有り難うございました」
 青白い頭になったせいか、川俣瑶子の姿は先ほどより清々としたように映る。
 その時だった。一陣の強い風が舞い、庭から強い金木犀の香りが舞い込むと、彼女の姿が強い光に包まれる。
「瑶子さん!」
 鈴村さんが大きな声で彼女の名を呼ぶと彼女は寂びそうに微笑み深々と一礼を返した。 金木犀の香りが一段と強くなると、私はなんだか強い眠気に襲われてきた。鈴村さんも力が抜けたように崩れ落ちる。
 眠ってはならない――そんな意思とは裏腹に私は深く心地のよい眠りの世界へと落ちていった。

「……さん……く……さん……楠原さん!」
 目の前に飛び込んだのは私の頬を激しくたたく鈴村さんの顔だった。
「鈴村さん……ここは?」
「○○町ですよ。それもあのかつての町でなく、今の○○町です」
「そんな!」
 私は飛び起きすっかり日の暮れた○○町を見渡す。
 ない! どこにもない。あの住宅地がどこにも……代わりに図体のでかい高層マンションがうごめくように並んでいる。
 後ろを振り向くとそこには全長10メートルほどの木が立っていた。
「夢? 私たちは夢を見ていたんですか?」
「夢じゃないですよ」
 目の前に差し出された皺まみれの手。その手には黒い髪一房と一本の枝木が握られていた。
「川俣瑶子……いえ彼女の化身の残したものです。楠原さん、あなたはどちらかをもらう権利があります。どうぞ」
 私は迷わず枝を選ぶ。
「では私はこちらの遺髪を」
 鈴村さんはそう言ってにこりと笑みを作る。私はそれにつられゆっくりと手を差し出す。相変わらず強い力で握り返される。しかしどこか温かみを感じる手だった。
「鈴村さん帰りましょう。うちのへぼ編集長が首を長くして待っている」
「違いないですな」
 お互いにどちらともなく高らかに笑う。見上げると金木犀が優しげに揺れたように見えた。

 出版社に着いたのは夜の8時を過ぎた頃だった。
 私達の姿を見つけると京間は待ちくたびれた表情から安堵の表情を覗かせる。
「よう遅かったな。もう帰ってこないと思ったぞ」
「ああ。悪かった」
「俺よりもう一人に謝れ。事情を話したとたんすっ飛んできてあのとおりだ」
 京間の背後で一人の女性が泣き顔に笑顔を滲ませると、勢いよく私の胸の中に飛び込む。「よかった……無事で。楠原さんがいなくなったら……私、私……」
 そう言うと彼女は再び胸の中で泣き出す。私は困ったような表情を見せると楠原は不機嫌そうに口を開く。
「俺はちゃんと今までのいきさつをちゃんと話したからな。とはいえ、俺もブンヤの端くれだ。まあ多少の脚色はしたがな」
「きゃ、脚色だと! おまえ美由紀さんになんて」
「さあてバカップルはほっといて、鈴村さん飲みに行きませんか?」
「お、おお……いいですな。最近若いもんの毒気に当たると、なんだか体調が悪くなるみたいでして」
 わざとらしく咳をし、鈴村さんまでもがそそくさと京間とともに姿を消した。
 あの二人のお返しはあとでたっぷりするとして、今はこの現状を何とかしなければならない。
「美由紀さん……俺は」
「すみません……私、楠原さんにはしたないことしてしまって……迷惑……ですよね?」 そう言って彼女は精一杯の笑みを模る。その笑顔を見たとたん、私は思わず彼女体を抱き寄せ、そして唇を塞いだ。
 彼女は両目を見開き少し驚いたような表情を見せるが、安心したかのようにゆっくりと目を閉じ細い腕を絡ませる。
 まんまと兄貴の思惑どおりとなったのはいささか悔しいが、それもいい。
 私は温もりを確かめるかのようにさらに彼女を抱き寄せた。

  ー終章ー

 美由紀と結婚してもう15年になるか……今年もまた庭に植えた金木犀が花を咲かせそして実をたわわに実らそうとしている。
 あのとき嗅いだ同じ香り、同じ花。それが今、少し広めの庭の隅にある。その反対側にはまだ植えたばかりの金木犀がある。
 文庫本を閉じ庭の手入れを楽しそうにしている美由紀の背後にそっと近寄る。今ちょうど雌株の金木犀の手入れをしているところだった。つい最近背中の半ばまで伸ばしていた髪を顎のあたりのショートボブにバッサリと切り揃えたせいか、細く長い首筋が露わになり少しばかり若返った感じがする。
 私はゆっくりと美由紀に手を回すと、彼女は驚いた表情で振り向く。
「あら、あなたでしたの? 驚かせないでください」
「すまん。あまりにも熱心に手入れをしていたものだから」
「私……この木が好きなんです。なんだかこの木を見ているだけで心が和むんです」
「いいのか。実はこの木は俺の浮気相手かもしれないぞ」
「馬鹿」
 美由紀は軽く私に口づけをした後、悪戯っぽく微笑む。私もつられて思わず笑顔を作る。
 さわさわと、秋風が吹き抜ける。ほんのりと鼻をくすぐる金木犀の香り。その香りとともに秋風も私たちを優しく包み込む。
「ちょっと、お父さん! お母さんも! 年頃の娘の目の前で朝っぱらからいちゃいちゃしないでよ。お父さんが私の読みかけの本を勝手に持っていったと思ったら、もお!」
 今年で13歳になる琴美が顔を真っ赤にして本を手にし、縁側にどかっと座り込む。
 中学に入ってますます生意気な口に拍車がかかった。その口調だけ私に似て、それ以外は美由紀似だ。
「あら、琴美、あなたもこっちに来なさい」
「別にいいわよ。それよりこの匂い。今年も咲いたの?」
「おまえは嫌いなのか?」
「ううん。友達は変な匂いだって言うけど、私は好きだな」
「そうか」
「ねえ。お父さん、この本のタイトルとこの木なんか関係あるの?」
 琴美の手に握られた一冊の文庫本。それは私の作家生活を一変させた、いわゆる私の出世作だ。
 それが我が娘に読まれているのがなんだか気恥ずかしく感じる。
 娘の推察通り私はこの木にちなんでこの作品のタイトルに「金木犀の香り」とつけた。
 いつかあの時の話を美由紀に話すときが来る。それが今この時なのかもしれない。
 ――もうこの子に話してもいいですよね? 瑤子さん……笑った? 錯覚だろうか……一瞬この木が笑ったような気がする。
 そうだ。今話そう。瑤子さんが残したこの金木犀の木の下で琴美に話そう。

  -了

参考文献
新版戦後引き揚げの記録 若槻泰男著 時事通信社
沈黙のファイル-「瀬島龍三」とは何だったのか- 共同通信社社会部編 新潮社
落日燃ゆ 城山三郎 新潮社
満州国の首都計画 越沢明 日本経済評論社
近代史リブレット 日本のアジア侵略 小林英二 山川出版社
萩原朔太郎詩集 三好達治選 岩波書店

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