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黒髪儀礼秘話        ー第二話 R高校野球部男女対抗戦秘話ー

 見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう
        ヨハネの黙示録二十二章十二節

  ー一ー

 R高校女子寮から公園まで往復約三キロ半のランニングを終えると、美樹はゆっくりと乱れた呼吸を整え柔軟体操にとりかかる。
 入念に体をほぐし終えると、美樹は頭の上で団子状にきつく結い上げた髪をほどいた。
 背中を隠すほどの癖の無い真っ直ぐな黒髪がバサリと美樹の背中で優雅にはねる。その一房一房が眩しいほどの朝日を浴びて薄茶色に透けて輝く。しだいに美樹の長い髪に汗が滴となって零れ落ちる。それが太陽の光を乱反射して美樹のつややかな長い髪に一層の美しさを添える。
 美樹が煩げに肩にかかった髪をバサリと払うと、長い髪から無数の汗の滴が太陽の光沢を七色に輝かせながら滴が宙に舞う。宙に浮いた髪は太陽の光に透けてその一筋ごとに琥珀色に輝く。
 一段落下した美樹はお気に入りのスマホに目を向ける。
「いっけなーい! もうこんな時間だ」
 慌てて美樹は女子寮の中へと駆け込む。
 男子野球部との対抗試合を明日に控えていても、美樹にはいつもと変わらない日常の始まりだった。

 女子野球部はいつものように学校の近くのM川の河川敷で軽い練習で汗を流し、ミーティングを行った。
 明日の試合の作戦やサイン、チャンスまたはピンチに対する対処、念入りに調べた男子野球部員の癖や弱点などの確認をした。
「美樹、いよいよね」
 女子野球部副部長佐野恵子が美樹の肩をポンと軽くたたく。
 R高校唯一のグラウンドの利用を賭けた男子野球部との対抗試合。勝てば一年間女子野球部がグランドを使えることになる。もし負ければ美樹は――女子野球部廃部と引き換えにだした条件――自慢の長い髪を男子野球部の手によって切られる羽目になる。
 九回まで同点の場合は、翌週の土曜日に再試合となる。
 今なら男子野球部員たちは「所詮はお嬢様野球」と見下している。だが明日の試合で手の内全てをさらけ出し、全力で立ち向かった相手に男子野球部は次の試合では本気になるに違いない。そうなれば勝つ望みは俄然低くなるのは火を見るより明らかだ。
 ――勝つしかない。その思いは美樹に無数のくさびとなって打ち込まれていき、美樹の体を硬直させる。
「大丈夫だよ。美樹。ぜったい勝つって!」
 恵子のみならず他の部員たちも美樹に思い思いの励ましの言葉をかける。
 どの部員の目にもこの一週間の血のにじむような特訓から生まれた自信がみなぎっていた。
 ――私が弱気になっていたら駄目じゃない! 美樹。
「みんな。明日は男子野球部にぎゃふんと言わせよう」
 美樹の明るい笑顔に他の部員たちも右手を挙げ明るい声で「おー」と応える。
 それでも美樹の心の奥底に不安が黒い霧のように立ち込めていた。

 もともとR高校のグラウンドは全ての部に「完全予約制」とういう形で平等に使う機会が与えられていた。その状況が一変したのは昨年の夏、男子野球部が三回戦で惜敗したものの、「弱小野球部」の呼び名を跳ね返しR高校創立以来初の甲子園出場という快挙を果たした時からである。
 R高校初の快挙と言うこともあって、その日から男子野球部は特例として好きな時に好きなだけグラウンドを使えるようになった。
 最初は不満の表情を浮かべていた他の部も次第に野球部に媚びへつらってグラウンドを使用するようになった。
「完全予約制」を徹底させた教師たちも見て見ぬふりをし、中には抗議に来た部にたいして「野球部に頼みなさい」とあからさまな対応をする教師までいた。
 自分の子供のために「自由平等の精神」の校風が特徴のR高校を通わせているPTAの親たちも「R高校甲子園初出場」の実績にあっさりとそれを捨てた。

 男子野球部からも相手をされず、教師たちに言っても梨のつぶて、自分たちの親たちでさえも頼ることができない――そんな女子野球部にとって男子野球部との賭けにのったのは仕方の無いことであった。

 ミーティングが終わると美樹はいつも通り恵子とともに下校した。
 ――恵子とはいつもこうやって肩を並べて帰ったっけ……
 恵子の横顔を見つめていると、ふいに恵子が美樹に顔を向ける。
「なに? 私の顔なんかついてる? あ、『じょぱんに』で食べたバナナパフェがまだついてるんでしょ?」
「ううん、そうじゃない、そうじゃないって! いや、恵子高校卒業したら本当に野球やめちゃうのかなって……」
 慌てて鞄から手鏡を手繰り寄せようとする恵子を美樹は必死に止める。
「ああ、そのこと。前にも言ったでしょ、アネキが勝手に大学いっちゃったから妹の私が美容院つがなきゃいけないって」
「そうなんだけどさ、そうなんだけど……」
 がっくりとうなだれる美樹の肩に恵子はポンと軽くたたいた。
「ねえ美樹……。私最近ね、美容師になるのも悪くないなあって思ったの。ついこの間
まで嫌がっていた私がだよ。おかしいでしょ。
 激しく首を振って否定する美樹の姿に恵子は苦笑いを浮かべる。
「本当は……両方できればいいんだけど、どっちつかずになっちゃうし。だから私高校卒業と同時に野球も卒業しようって決めたの」
「……そう、そうなんだ」

 ――負けられない……ぜったい負けない! 恵子のためにも
 美樹は両の拳を力一杯握り締めて胸の奥に残る不安を必死に取り除いた。

  ー二ー

 試合当日、R高校の近くにあるR球場は雲一つない晴天に恵まれた。
「大事な対抗試合だからな」と男子野球部副部長多川洋輔がわざわざこの球場を借りたのだ。
 両翼九十三メートル、奥行き百十八メートル、芝は人工芝である。男子野球部にとってここは第二のグランドのようなものだ。
「地の利はむこうにあるってわけね」
恵子の声に美樹は無言で頷く。
 すでに余裕の笑みを浮かべた洋輔が美樹にオーダー表を手渡した。
 なによ……これ?
思わず口から出そうになったまぬけな声をあわてて引っ込めて、美樹は男子野球部のオーダー表を食い入るように見つめた。
 そのオーダー表に書かれているのは控えを含め十人。そのうち男子野球部は四人、残り八名は美樹たちの知らない名前ばかりだ。
「へへ、俺のダチが二名、残りは新人のやつらが適当にかき集めた。いちおう場慣れはしてるからな。ハンデつけてやったぜ
 先攻、後攻どっちか選んでいいぜ。うちはどっちでもかまわないからな」
 ――見てなさい! その余裕を粉々に打ち砕いてやる
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただいて後攻を選ばせてもらうわ」
 美樹は洋輔の顔を強く見据えると、洋輔は「ちっ! 気の強い女だぜ」とはき捨ててベンチの方へ去っていった。

「どうも釈然としないな……なんで今更女子野球部と練習試合をするんだ?」
「たまにはいいじゃねえか。それにむこうから公然と挑んできたんだぜ? 逃げるわけにはいかねえだろうが」
「それはそうだが……」
「とにかくお前は七回からでいいからよ。まあ、お前が出なくてもこっちの楽勝だろうがな。へへへ……」
 ベンチの奥の方で納得していない牧口の声を洋輔は背中ごしに軽く受け流す。
「まあ、おまえら三人なにたくらんでるんだか知らないが、楽勝……だといいがな……」
 牧口のボソリと言った言葉に佐竹、黒川そして洋輔の背中がビクンと震えた。

 一回の表

 緊張のせいかぎこちなさが残る美樹は先頭打者をかろうじて打ち取ったものの、二番バッターにストレートのフォアボールを許した。続く三番の佐竹に左中間を破る二塁打、四番の洋輔にレフト前。女子野球部は一気に二点を失った。
 美樹はいきなりの失点に頭が真っ白になり呆然と立ち尽くす。
「美樹!」
 恵子はタイムをとってマウンドへ駆け寄る。
「恵子……」
 恵子の平手が美樹の右頬に強く当たると、「パン」と乾いた音がマウンド場に響いた。
「眼が覚めた?」
「うん……有り難う、恵子」
「さ、しまっていこう」
 恵子はホームベースに戻り大きな声を上げる。
 すっかり落ち着きを取り戻した美樹は後続のバッターを断ち切った。
 一回の裏、マウンド上には投手経験のない黒川がたった。黒川のコントロールの定まらないピッチングに女子野球部は美樹のヒット一本に終わった。
 一回のボードに男子野球部「2」、女子野球部「0」の数字が刻まれた。

 四回の裏

 二回、三回、四回の表ともに走者は出すものの無得点に終わった男子野球部に苛立ちが出始めていた。
 スピードこそないが、上下左右コーナーをついてくる美樹のピッチングに男子野球部は翻弄された。逆に女子野球部員たちは黒川の投球にすっかり慣れ、二番の川田芳実、三番の美樹が連続フォアボールで出ると、恵子は初球をライトスタンドへ運んだ。
 さらに女子野球部は一点追加し、黒川をノックアウトした。

 四回終了――男子野球部「2」、女子野球部「4」

 六回表

 ラストバッターのところで代打「牧口」の名が告げられた。
 ――いよいよ、真打ち登場ってわけね……
 三球目が美樹の右腕から放たれた。少し高めに浮ついた分甘くなったその球を牧口は見逃さなかった。

 六回表終了――男子野球部「3」、女子野球部「4」

 六回裏

 黒川に代わった洋輔は先頭打者の京間に二塁打、美樹にはレフト前ヒットを許し、ワンアウト一塁三塁というピンチに陥った。
 洋輔が一塁ベースをちらりと見た瞬間、美樹はすかさず一塁ベースからスタートをかけた。
「あっ!」
 たまたま荒れていた土に足を取られたのか、美樹は一二塁上のほぼ中間で大きく転んでしまった。
 ――馬鹿め!
 洋輔に再び笑みが零れる。洋輔は落ち着いて一塁に投げようとしたときだった。
「よせ!」
 ショートにはいった黒川の声に反応できたのは顔だけだった。
 ファーストに投げようとした瞬間、サードランナーがスタートをきっていたのだ。そしてファーストからバックホームしたときはすでに手後れだった。

「くそ! あんな手にひっかるなんて!」
 全ては女子野球部いや、美樹のかけたフェイクであった。
 ダブルプレイを恐れてのファーストランナー盗塁でおきた凡ミスとみせかけて、実はサードランナーをホームへと返すための演技だったのだ。

 六回終了――男子野球部「3」、女子野球部「5」

 七回の表

 美樹の球に疲れが見えだした。それが球威、制球力を美樹からじわじわと奪い取っているのだ。
 普段ならアウトロー一杯に決まるはずの球が、やや真ん中よりの球になった。それを見逃すほど洋輔は甘くはなかった。

 七回の裏

 本来男子野球部でマウンドで立つべき名前が告げられた。
「ピッチャー、牧口」
 甲子園三回戦最終回に逆転のソロホームランを打たれるまで無失点という成績を残した牧口の球を女子野球部はバットに触れることすらできなかった。

 七回終了――男子野球部「4」、女子野球部「5」

 八回の表

 サード窪田のエラーにより最初のバッターが一塁に出た。
 牧口との二度目の対戦――美樹に残っているのは闘志だけだった。
 ――今度こそ打ち取って見せる。カウントはツーストライク、ツーボール。美樹の渾身の一球はアウトローに決まる最高の球だった。
 牧口のバットが振り出されると、それに吸い込まれるかのように白い球がみるみるバットの芯に近づく。そしてバットに当たった白球は醜くひしゃげて美樹の見えないところへ消えていった。
 ――ボールは?
 後ろを振り返ると、誰もが空を見上げていた。美樹の顔も無意識に空へ向いた。
 青空に小さな白い一点が気持ちよさそうに泳いでいた。やがてそれは大きな放物線を描いて場外へと消え去っていった。

 八回終了――男子野球部「6」、女子野球部「5」

 九回の裏

 最後の気力を使い果たした女子野球部に牧口は容赦なく速球を投げた。
 女子野球部はなす術も無く三者三振に倒れた。

 試合終了――男子野球部「6」、女子野球部「5」

  ー三ー

 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、
 その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。
 しかし彼は変わることはない。
 だれが彼をひるがえすことができようか。
 彼はその心を欲するところを行われるのだ。
        ヨブ記二十三章十二節および十三節

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 試合が終わると佐竹、黒川そして多川洋輔の三人だけを残し、男子野球部は足早に球場を去っていった。
「約束だぜ部長さん。うちの部室にきてもうらおうか。ちゃんと準備もしてあるからよ」
「……わかってるわよ」
 美樹は今にも込み上げてきそうな涙を必死に我慢し、洋輔の顔を睨み返す。
 うな垂れた表情と力のない足取りで男子野球部部室を向かう美樹に他の部員たちはただ「美樹ー!」と悲鳴に近い声を上げるだけだ。
 美樹に課せられる罰がどれほど過酷なものか他の部員たちにも痛いほどわかっていた。
「女子野球部部長さんのお出ましだぜ」
 比較的広めに間取られた部室にはすでに二人の部員が待ち構えていた。
 ――こんなところで髪を切られるなんて
 部員の一人が頭の上で結わえてあった美樹の髪を強引にほどくと、美樹の背中で長い髪が蛍光灯の光を一本の曲線にして反射させる。
 それはまるで豪奢なカーテンを思わせるほどの美しさだ。
 洋輔たち三人の声から思わず感嘆の声が漏れる。
「へへへ……お客さん、髪長いしきれいですね。どんなふうにしますか?」
 洋輔は獲物を見つけた獰猛な野獣を思わせるような笑みを浮かべる。
「……し……てください」
「ええ? なんですか? 聞こえないですね」 
「短くして……してください」
「短くですか……へへ……もったいないですねえ。でも短くといってもねえ……どのくらい切ればいいんですか」
「……」
「ほら言えよ。部長さん」
「『おまかせします』って言えばいいんでしょ!」

 美樹はプライドをズタズタにされながらも、部室に入ると同時に渡された台本通りに台詞を読み上げる。
「そうそう、ちゃんと台本どおり言わないと廃部になっちまうぜ」

 洋輔が目配せすると、部員の一人が手慣れた手つきで美樹に刈布をかぶせる。
 目の前には美樹の顔が映る大きさの鏡が置かれた。
「こいつは床屋の息子だけによ、結構髪切るのはうまいんだぜ。だから安心しなって。仕上げだけはこいつにやってもらうからさ。野球のほうはそれほどじゃねえけどな。なあ黒川」
「余計なお世話だ」
 黒川がブラッシングで美樹の髪を整え終えると、洋輔が鋭く光る鋏を美希の横側あたりでちらつかせる。

 ――シャキン、シャキン。

 虚空を切る鋏の音が徐々に美樹の髪へと近づくと、美樹の両目は飛び出さんばかりに大きく歪む。

「目を閉じないでちゃんと見てろよ」

 洋輔はもう一方の手で美樹のサイドの髪を一房手に取り、ゆっくりと刃を閉じていった。
 ――チキ、チキチキ、ジョキリ……

「――!」
 その瞬間美樹の顔は絶叫をあげる表情となった。大きく開いた口からは声は出ない。そこからはかすれた呼吸音が出るだけだ。

 まばらに肩のあたりで切られた髪は再び美樹の元へと戻るが、肩から先の髪はあっという間に美樹の見えないところへと散っていった。
 最初の一房を切って勢いがついたのか、洋輔は息をつく間もなく美樹の髪に銀の刃をはしらせてゆく。

 ――ジャキン、ジャキン、ジャッキン!

「あ、あ、ああああ」
 涙なんか流すものか! その決心は左側の髪が肩の上まで切られた瞬間にもろくも崩れた。
 鏡に映った自分の姿は涙を流し見るに堪えない表情だ。
 反対の髪も荒々しい音を見る見る間にたてて消えていった。
 後ろでは一番重い音――バサバサと音をたて始める。切られた髪は肩の上あたりで無残にもバラバラに断ち切られていった。
「いや、いやああ……」
 美樹に唯一許されることはただ弱々しい悲鳴をあげることだけだ。
 ――ジャキン、バサバサバサ……
 最後に美樹の前髪がぐいっと引っ張られる。
「おい佐竹、前髪はお前だったな」
「ああ、くじ引きで当たったからな」
「ほらよ」
「ひ、ひい」
 美樹の恐怖に歪み細かく震える両目は頭上に剥き出す。
 佐竹と呼ばれた丸刈りの野球部員の大きな手の平すれすれのところに鋏が入る。

 ――バラ、バラ、バラ……
 頭上で一直線に切られた髪は美樹の目の前を恨めし気に降り注いでいった。再び美樹のもとに戻った髪は眉の前ですっぱりと一直線に切られていた。
「い、いやああ……」
 美樹はあまりの光景に耐えられなくなり、次第に意識が薄らいでいった。

「お、おい。……気を失っちまったぜ」
「どうすんだよ」
 とまどった表情で佐竹は洋輔の方に視線を向ける。
「おい黒川。あれ持ってきたか?」
「ああ。使うのか」
「気失っちまったからな……。気付け薬代わりだ」
「ったく! よく言うぜ。これのどこが気付け薬の代わりなんだよ。それに最初からそれ使うつもりだったんだろ」
「へへ……ご名答。でもようお前もコレ持ってきたってことは……」
「ま、まあな」
 黒川の手に握られた黒く縦長の金属製の棒。その先には獰猛な細い牙が幾筋もついていた。

  ー四ー

 棒状のようなものについた小さなスイッチを押すと部屋中に不気味なモーター音が響き出す。
 ――ウィーン……
 やがてその黒い棒はゆっくりと美樹の後頭部に近づいていく。
 佐竹は肩の上でまばらに切り揃えられた髪をかき上げ、露わになった襟足のところに棒を近づける。
 チャリ、チャリ……後れ毛が何本か細かく振動する無数の刃に巻き込まれると、ハラリと美樹の肩の上に落ちる。

 ――ジージジジ……
「う? ううん……え? ええええええ?」
 後頭部に違和感を憶えた美樹は慌てて飛び起きようとしたが、ごつい手で強引に下を向けさせられる。
「おっと。動くなよ」
 ――ジョリジョリジョリ……
 後頭部に冷たい感触がするとその部分の髪がザクリと切り取られ、バサリと美樹の背をたたいた。

「ひ、ひゃ、あああああああ……。なに? なにー?」
「バリカンだよ。バ・リ・カ・ン。こいつで今あんたの後ろの髪を刈り上げてるんだよ」
「え?」
「今見せてやるよ」
 後ろから手鏡がひょっこり出ると、美樹の後頭部が映った。
 バリカンは美樹の後頭部の真ん中を走りぬけ、耳の上あたりまでの髪を奇麗に刈り取っていた。
 刃先が離れるとそこに地膚が見えるほどの極端に短くなった髪の小道ができた。
 黒川はさらにバリカンを進める。
 バリカンが入り込みと髪は一旦盛り上がり、根元近くからあっさりと離れ、美樹の背中を流れた。
「いやああああああああー!」
 部室に美樹の絶叫がバリカンの音と異様な合唱を奏でる。
「やあああああ! もう、いいよ。やめて……やめてー!」
「おっとあんまり動くと、手元が狂ってツルツルに剃っちゃうかもな」
 ――ビクン
 美樹の体が彫刻のように硬く動かなくなるにはその言葉で十分だった。
「へへへ……大丈夫、大丈夫。ちゃんときれいにワカメちゃんカットにしてやるよ」
「そんな……そんなあああ」
 執拗なほど後ろの方でバリカンをあてると、おびただしい量の髪が次々と床に積もっていった。
「へへへ……すげえ……面白いように髪が切られていくぜ」
 最初はバリカンを自分の手に持てず悔しい表情を浮かべていた洋輔の顔もしだいに興奮の色へと変わっていく。
 後頭部の髪の半分以上を刈り上げると、バリカンはサイドの髪に牙を剥けた。
 耳のあたりにバリカンが近づくと鈍いモーターが大音響となって美樹の脳裏に響きだす。
「いやあああ! やああー! あああああー……」
 サイドの片方の髪はあっという間に目のラインできっちりと切り取られ、そこから耳の下には数ミリ程度に刈り上げられた。
 髪の生え際にはうっすらと青白いラインがそれになぞるようにひかれていった。 
 最後の片方にバリカンが入った時には、もはや美樹には悲鳴を上げる気力すら残っていなかった。
 涙で赤くなった両の瞳で無残に変わりつつある自分の姿を見ることだけだ。
 目の前の最後の一房にもバリカンが入る。

 ――ジョリ、ジョリ。

 無力にも最後の一房の髪がスルスルと美樹の目の前を滑り落ちる。美樹の頬に再び涙が伝った。
 美樹の意識は再び現実よりも遥かに心地のよい闇へと引き摺りこまれていった。

  ー五ー

 グラウンドで力なく座り込む部員たちの目の前に洋輔たちが現れたのは一時間経つか経たないぐらいだった。
「終わったぜ」
 女子野球部副部長の佐野恵子に、洋輔は赤いリボンで結わえられた五十センチは優に超える黒い糸状の束をぞんざいに手渡した。
 恵子の両手を優にはみ出したそれは太陽の光を浴びて艶やかに光る。
「ひ……ひぃぃぃぃ」
 恵子は一気に全身の血が蒸発し冷水を浴びせられたような冷気に襲われる。
 それは紛れもなく美樹の髪だった。

 女子野球部員たちはあわてて男子野球部部室に駆け込む。
 錆の目立つ扉を開くと、そこには目を背けたくなるような光景が飛び込んだ。
 コンクリートの床におびただしい量の髪の束があたり一面に散らばっていた。
 女子部員は一応に「うそー……。ひ、ひどい……」と一様に悲痛な声をあげた。
 美樹は鏡の前で力なく項垂れていた。
 かつては背中が隠れるほどあった真っ直ぐな黒髪は、耳の上あたりで断崖のように断ち切られていた。そこから項あたりまでは短く刈り上げられ、首筋のあたりは青白い地膚がのぞくほどだ。
「美樹、美樹ー! こんな……こんなにバッサリ……ひどい」
「恵子……美樹が気を失っている間に片づけちゃおうよ」
「……そうね」
 川田芳実の提案に恵子は一も二もなく頷く。
 確かに芳実の言う通りだ。美樹が意識を取り戻すなりこの光景をみたらどうなるか。それは火を見るより明らかだ。
 芳実は手際良く他の部員たちに掃除の指示を与える。
 恵子も鏡を片づけ、美樹に悟られないよう慎重に刈布を取り外した。

「あ、あれ? 私……」
「あ! 美樹、みきー!」
 美樹が目を覚ますなり他の部員たちが一斉に美樹のところに駆け寄った。
 ――そうか……夢だったんだ。長くていやな夢だったんだ。 私どのぐらい寝ていたのだろう……
 美樹はゆっくりと立ちあろうとする。

 ――グラリ。
「?」
 おかしい……。なんだか首がすわらない。いえ? それだけじゃない。頭が……頭が妙に軽くて首筋や耳のあたりがやけにスースーする。
「あ! 美樹、だ、だめー!」
 恵子の必死の呼び止めもむなしく、美樹は恐る恐る両手を頭に近づける。
「……あ……れ? あれ……へんだな……」
 青ざめた表情で美樹は必死に自分の髪を両手でまさぐった。
 背中が隠れるほどあった私の髪……
 ずっと大切にしていた、自慢にしていた、私の大切な宝物。それが、いつもと同じサラサラとした指通りの良い感触は耳の上でなくなっているのだ。
 ――そこから下……どうなってるのー!
「恵子……鏡ある?」
「み、美樹……」
「大丈夫……私、大丈夫だから」
 美樹は恵子に無理な笑顔を向ける。
 ――そうよ……鏡を見ればいつもの私がいる。きっとそうよ

 恵子は手鏡を無言で美樹に差し出した。
「!」
 手鏡を除いた美樹は遠慮の無い現実の姿に今まで抱いていた甘い幻想が無残にも引き千切られる。
 ――耳の上まででスッパリと切り揃えられた髪……そこから下はくっきりと刈り上げられている……
「え? あれ……」
 美樹は震える手で刈り上げられた部分に触れてみる。ザリともジョリとも聞こえる音と指や手の平に刺さるような感触が返ってきた。

 ――後ろは! 後ろのほうはどうなってるの?
 慌てた手つきで美樹は背後の髪を襟足の方からなでてみる。
 鋭く段々状に刈り上げられた髪はわずかに抵抗をして美樹の手の平の動きに合わせてかき上げられていく。

「あ、ああああ……!」
 想像を絶する手の感触に美樹はただ悲鳴を上げるだけだった。

 部室を出た美樹は表情を一変させて「軽くなってわ」と明るい表情で振る舞った。それがかえって他の部員たちには一層痛々しく映る。
 結局美樹は切った髪を一房も持ちかえることはなかった。

 女子寮に戻った美樹は部屋に入るなり明かりをつけずにベッドに入った。
 ふかふかの枕に後頭部が当たると、全身が震え上がるほどの衝撃が走った。
 ――うしろの……刈り上げたところが枕にあたってザリザリするよー!
「ひ、ひあああああ……」
 美樹はその日髪を切られたショックと、それに追い討ちをかけるかのように次第ににじみ出てくる敗北感に一睡もすることができなかった。

  ーエピローグ――後日談

 美樹たちが卒業した女子野球部は次第に力をつけ、数年後には全国大会で優勝候補の筆頭と呼ばれるまでになる。
 一方有力な三年が一気に抜けた男子野球部は衰退の一途をたどり、元の「弱小野球部」に戻ったという。

  ―了―

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