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尼僧秘話 ―― 第二輪 仲合

 東京駅構内は今日もまた慌ただしく動く人並みで染まっている。
 その人並みにもみくちゃにされそうになりながらも、葛原美佐はようやく新幹線の改札口に着いた。
 美佐は荷物を下ろしようやく一息をつく。
 胸まで届く天然のダークブランの髪がさらりと宙を舞う。宙に舞う美佐の髪は明るい茶色く透けて輝く。
 ――きっかけはアルバムを見たときだったっけ……
 葛原美佐は東京駅構内にある東海道新幹線の電光掲示板を観ながらここまでのいきさつを脳裏に浮かべた。
 つい半年まで葛原美佐はY大学付属病院に看護婦として勤めていた。
 美佐は常に明るく振る舞い、細かいところによく気がつくので、患者からも看護婦仲間からも医者からも、厚い信頼を受けていた。
 しかし三年前に遭遇した出来事をきっかけに美佐は看護婦としての自分に疑問を抱き始めたのである。

 ――三年前

 ある一人の青年が会社の定期検診を受診しに来た。
 血液検査の結果ある測定値が一般の基準値よりも逸脱していたので、再度再検査となりこの病院に来院となったのだ。
 そして再検査の後精密検査も行われた結果、その青年に残酷な診断が知らされた。
 良くてあと数年――それが診断の結果だった。
 その青年は、最初時こそショックを受けていたが、真摯に自分の病気を受け止めた。
 そして青年は何事もなかったかのように普通の生活に戻っていった。
 結局青年の希望で彼自身と両親のみ病状が知らされ、妹や恋人や友人にはそのことが伏せられた。
 カルテには『巻島和樹』と名があった。
 結局巻島和樹は病気では死なず、飛行機事故で亡くなった。
 だがそれでも美佐の心の中に「妹や恋人に本当に知らせなかったことが良かったのか」という疑問が大きくこびりついた。
 それは日を追うごとに大きくなるばかりだ。
 やがて電光掲示板はのぞみ67号を最上段に浮かび上がらせる。
 病院に入職する前に行った京都。アルバムに写ったその光景を見るうちにふいに美佐は思い立ったのだ。
「京都に行こう」
 まるでコマーシャルの宣伝文句のような思いつきだったが、美佐は矢も盾もたまらず旅支度を整えた。
 ほんの小さな卒業旅行で訪れた京都。気心の知れた数人の友人と過ごした数日の思い出が今でも鮮明に蘇る。
「7号車6のD……」
 その窓側に白い衣装に身を包んだ女性が座っていた。形のいい小さな卵上の頭には短い髪が生えそろっていた。
(巡礼中の尼僧の方かしら)
 尼僧と隣の席なのかと思うと、美佐は急に緊張した面もちになる。
「あ、あの!」
 思わず出た素っ頓狂な声に美佐は思わず顔から火が出る。
 少し寂しげな感じのする本当に尼僧なのかと疑いたくなるような美しい女性だ。
「あ……どうぞ」
 彼女はにこりと微笑む。つられて美佐も笑みを浮かべる。
(よかった……優しそうな人で……でも……どこかで見たことがあるような)
 車窓を見つめる彼女の横顔に美佐は思わず目を奪われる。
 艶やかな髪を無惨に丸刈りにしているせいか、その尼僧は美しい少年のように見えた。
(きれいな髪……もっと長かったら……)
 いつしか美佐は頭の中で長い髪の彼女の想像を浮かべる。
 腰まである艶やかな長い髪、そしてきりりとし一見冷ややかな顔。だがそれは内面から沸き出す彼女特有の暖かで明るく朗らかな性格によって見事に中和されている。
 ――どこかで……見たことがある。
 あれは定期検診で巻島和樹が落とした定期入れを拾った時だ。
『巻島さん、この綺麗な人ひょっとして?』
『なんだ。見られちゃったか……バレちゃあしょうがないな。名前は吉田隆子さん。それで一応僕の恋人』
『なにが一応なんですか? しっかり彼女の写真を定期入れに入れて』
 ふいに定期入れに入った写真と彼女の顔が重なる。
「よ……吉田……た……隆子さん……」
 美佐の声に驚いたように尼僧――吉田隆子――は振り向いた。
「私……葛原美佐と申します」
 葛原美佐その名前を何度か頭の中で繰り返すが、その名前に思い当たるイメージがない。もしかしたらファンなのかもしれない。
 隆子はわずかに戸惑いの表情を浮かべ、
「あの……失礼ですが……」
 車窓から美佐の顔に視線を移した。
「あ……すみません。お亡くなりになった巻島和樹さんのことで……実は私、隆子さんにどうしても話さなければならないことがあるんです」
「美佐さん、どうして和樹のことを……」
「はい。実は私Y大学付属病院に勤務していました。三年前その病院に巻島さんが健康診断に来院されたのです。彼はその時……」
 それ以上美佐から言葉が出ることはない。代わりに両の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ始めました。
「あ……み、美佐さん……どこかで降りてゆっくり話しましょ。美佐さんはどこで降りるの?」
「き……京都です……」
「そう。私も京都だから、京都駅に着いたら降りましょう。そこでみささんのお話をゆっくり聞かせていただくわ」
「すみません」
 二人はR京都駅を出て近くの小さな喫茶店に入った。
 広い喫茶店だと隆子は嫌でも注目を浴びることになるからだ。
「三年前その病院に巻島さんが健康診断に来院されたところまで話しましたよね?」
「ええ」
「巻島さんが私の勤めていた病院に来たのは健康診断の再検査のためでした。再検査の結果も思わしくなかったので精密検査を受けてもらうことにしたのです。そのときわかったんです……巻島さんは……巻島和樹さんは……」
 美佐の言葉を聞き終わった隆子は顔色一つ変えずただ一言、
「そう」
と漏らしただけだった。だがその一言にどれだけの重いが込められていたことか……
 悲しみとも諦めとも怒りとも憎しみとも、もちろん喜びとも違うなにかがこもっていた。
 そのたった一言が美佐の胸に重くのしかかる。
「す……すみません……」
「み……美佐さん……あの……別に美佐さんを責めているのではないのですから……泣かないでください」
「すみません……」
「そう! 美佐さん、これから予定はあります?」
「いえ、特には」
「ではこれから一緒に私と春秋庵に行きませんか?」
「しゅん……じゅうあん……ですか? 別に構いませんけれど」
「そう。それじゃあ決まりね」

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 タクシーで小一時間ほど乗ると、そこには駅前の繁華な雰囲気はなく、深い木々に覆われた静寂な空間になった。
 小鳥が囀る声と風に揺れる枝や葉の音だけが支配する世界、長閑な春から夏を迎えようとしている空気が心地よい。
 タクシーから降りた美佐は周りの新緑に囲まれて思い切り深呼吸をする。
 清涼な空気が美佐の体中まで染み込み今まで沈んでいた気持ちがあっと言う間に消え去っていく。
「こんな森の中にあるんですか?」
「ええ。行きましょ」
 隆子は深い森の間にある人一人がようやく通れるほどの細い小道に入る。
 平坦な小道から少し勾配のある石段が覗く。その石段を登ったところに庵が見えた。その庵から小さな影が現れた。
「ようこそ、春秋庵へ。春秋庵の庵主をしております春日春秋と申します」
 五十代の小柄な尼僧がにこやかにお辞儀をする。
 隆子と美佐は四畳一間の茶室に案内された。質素な茶室だが春秋自筆の掛け軸や生け花がしっとりとした華やかさを演出している。
 清々とした動きで春秋は二人に茶をもてなす。
「美佐さん、どうです? 春秋庵にいるつもりはありませんか?」
「こちらにですか? 私は構いませんが……でもご迷惑では」
「ええ。もちろん美佐さんにもお掃除とか手伝っていただきますよ。それで美佐さんがそれでよろしければですけど」
「も、もちろんです!」
「すみません……春秋さん」
 隆子はすまなそうに小さく頭をさげる。
「いいんですよ。私にぎやかな方が好きですから」
 にこやかな表情で春秋は答えた。
 こうして隆子たちの春秋庵での生活が始まった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 春秋庵には一日二十人以上もの参拝客が訪れる。多い日はそれが倍以上になる。
 離れの本堂にある観音像への参拝がほとんどだが、中には春秋の人柄を知り人生相談やら世間話めいたものや些細な悩み、夫婦喧嘩の仲裁まで持ちかける者もいる。春秋は嫌な顔一つ見せずに真摯に対応する。
 ここに来てすでに1ヶ月が過ぎようとしている。隆子も美佐も大分ここの生活に慣れてきたところだ。
「隆子さん、明日の午後やることにします」
「明日ですか。わかりました」
「春秋様、明日なにがあるんです?」
 美佐は小首を傾げて春秋に聞くと、春秋はすまなそうな表情を隆子に向けた。
「ええ……実は隆子さんの得度を行わなければならなかったのですが、このところ慌ただしくて明日明日という風にずっと延ばしていたのです。ですから今度こそ……」
「それで」
「ええ……」
「そうだ! だったら私もお願いします!」
「え? 美佐さんもですか? ご存じかもしれませんが、得度式では……」
「頭を丸めるんですよね。私、ここにお邪魔させてもらって……少し……少しずつですけれど尼さんになってみるのもいいかなと思って……。本当は私看護婦になってホスピスに行きたかったんです。でも看護婦不足でなかなか異動させてくれなくて……私が思い描いている世界とは全然違うかもしれない、もしかしたら私が思っている以上に過酷で厳しい世界かもしれないけど……私やってみたいんです」
「美佐さん……。わかりました。美佐さんの得度式も明日行いましょう。よろしいですね美佐さん」
「はい」

 その日春秋庵はいつにもまして静寂な一日を迎えた。
 春秋庵の得度式は朝早く水風呂から入ることから始まる。小春日和とはいえ、近く清流からくべた水は肌を刺すような冷たさだ。
 隆子と美佐は一言も交わさずただ黙々と自分の身を清めていた。
 美佐はダークブランの髪に冷水のみで洗う。湿った髪は重みを増して美佐の方に付着する。その髪を美佐は丁寧にしごいた。
 あと数時間すればこの髪を触ることも見ることも出来なくなる。
 そう思うと悲しくなるがそれでも美佐の決心はゆるぐことがない。
 ――この髪を落とすのはどんな感じなのかな……
 美佐は意を決したかのように声を絞り出した。
「隆子さん……」
「なに?」
「隆子さんが髪を切ったとき……後悔はしませんでした?」
「……そうね……全く後悔しなかったと言ったら嘘になるかな。
 私の時はバリカンでね、切ってもらったの。バリカンが私の頭を通ったとき、すごく悲しかった。なんでこんなこと言ったんだろうってすぐに悔やんじゃった」
 隆子はくすくすと微笑んだ。
「切った後も……なかなか慣れなくて……ふと自分の頭の軽さに飛び起きることもあったし、枕に頭が当たる感触でなかなか寝つけなかったし、車窓に寄りかかったとき窓の冷たさにびっくりすることもあったわ。でも今は切ってよかったと思う。そうしなければいつまでたっても私はきっとあのままだったから。、もし止めるのなら今よ。たぶんすごくつらいし、何度も後悔すると思う……」
「いえ……いいんです。おかげですっきりしました。隆子さん、有り難うございました」
 美佐は笑みを浮かべた。その笑みに曇りはなかった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 最初に吉田隆子の得度式から行われた。
 真新しい装束に身を包んだ隆子の姿は普段よりも一層輝かしく映る。
 本堂の中央に隆子は静かに正座をすると、やがてその後ろから春日春秋が両手に桶を持って現れた。その桶には一杯の水とその中に二枚の剃刀が入っていた。
 美佐の手には真新しい和紙がのっていた。
「それではこれから吉田隆子の得度式を始めます。隆子さん、よろしいですね」
「はい」
 緊張のためか隆子は少しうわずった声を返した。それと同時に春秋は桶から剃刀を手に取る。
 隆子の前髪にゆっくりと剃刀が近づく。

 ――ゾリ……

 静寂に包まれた本堂におぞましい音がこだまする。それとともに美佐の手の上にある和紙に短い黒髪がバサリと落ちる。
 声こそ出さなかったが美佐は両目を大きく見開く驚愕の表情を帯びている。
 さっきまで確かに隆子の頭で黒々しく輝いていた短い髪。それが今和紙の上にあるのだ。
 春秋は構わず隆子の髪を剃り落としてゆく。
 剃刀が通ったところには真新しい青白い道が出来ている。
 黒髪の生え際に刃が当たりゆっくりと剃刀が進む。刃の当たったところがわずかに浮き上がったかと思うと、そのまま刃の動きに合わせて黒髪が隆子の元から離れる。

 ――バサ、バサリ……

 さっきまで隆子にあった黒々とした前髪は和紙の上で小さな山を作っていた。
 隆子はただ目をつぶり表情一つ変えることがない。
 サイドの部分に1、2センチほどの短い髪はバラバラと小雨のように落ちる。それが時折隆子の耳にこびりつく。
 美佐は涙ぐみながらも丁寧にその髪を和紙に落としていった。
 右側の髪をすっかり剃り落とした春秋は反対側の髪に剃刀の刃をあてる。
 反対側の髪を剃り落とすと和紙はすっかり真っ黒に染まっていた。
 青白い頭に唯一残った後ろの髪、そこにも剃刀の刃が当たる。

 ――ゾリ、ゾリ、ゾリゾリゾリ……

 三、四回動いただけで後ろの髪もあっさりと剃り落とされていった。

「隆子さん、おめでとう」
「ありがとうございます。春秋様」
 隆子は満面の笑顔の中に涙を滲ませていた。それは悲しいのではなく、ようやく尼僧になれたという喜びの涙だった。

「今度は私の番ですね……隆子さん、春秋様……見ててください」
「美佐さん?」
 美佐は隆子たちの視線に笑顔を向け、懐からゆっくりと小さな鋏を取り出した。
「私……この髪ずっと大切にしていました。だから……せめて切るときは……自分自身で切ろうと思ったんです。お願いです。だからそこで見ていてください」
「わかりました。美佐さん、ここで隆子さんと見届けていましょう」
 春秋の声に隆子も大きく頷く。
「有り難うございます。春秋様、隆子さん」
 美佐はワンレングスに伸ばした髪を愛おしげに手で梳いてゆく。小さな鏡台で美佐はゆがんだ笑顔を浮かべ、前髪をゆっくりと頭上に持ち上げる。
 一直線上に宙で揃った髪は日に当たり、透き通った明るめのブラウン色に変わる。
 隆子たちの目から見てもその髪は綺麗に輝かしく映った。だが、二人の口から「やはりやめましょう」という言葉は出ない。
 美佐の手に握られた鋏は逡巡するかのように小刻みに揺れながらも前髪の毛先から根元のほうに近づいてゆく。やがて前髪の根元からわずかに離れたところで鋏が止まると、二対の鋭い刃が勢いよく閉じる。

 ――ジャキリ!

 鈍い音ともに鋏の入ったところか短く切られた前髪が額に落ちる。
 かつては優に美佐の顔を覆い隠していたほどの前髪は、今では無惨にも額を露にするほど短く切られている。その上勢いで切ったために毛先はがたがたで不揃いになっており、それがかえってよけいに惨めに映る。
 笑顔を歪めながらも美佐は右サイドの髪を無造作に掴む。
 耳の上あたりに鋏を近づけ思い切るように鋏を入れていく。

 ――ザク、ジャキ、ジャキリ。

 切られた髪はバサバサと畳の上に舞い落ちていく。
 反対側の髪も美佐は無造作に掴み、勢いよく鋏を入れる。

 ――ジョキジョキジョキ……

 左右の長さも気にせず美佐は黙々と鋏を入れ続ける。
 美佐は後ろの髪をたぐり寄せ、無造作に切り始める。切られた長い髪は、美佐の背中を流れ床に落ちていった。
「春秋様……お願いいたします」
 涙を流しながらも美佐は晴れやかな表情を浮かべる。その姿には長い髪はない。無造作に切られた不揃いな短い髪があるだけだ。
 春秋も思わず瞳に涙を滲ませていた。
「美佐さん、それではよろしいですね?」
「はい……」
 春秋はすっかり短くなった髪を分け、その分け目に剃刀を近づける。

 ――ゾリ……ゾリゾリゾリ!
「――!」
 剃刀が美佐の頭をなぞるように進むと、鏡に映った美佐の表情が大きく歪む。
 白い和紙にバサリ髪が散る。真っ白な和紙の一部分が濃い茶色に染まる。
 前髪のほぼ中央に引かれた青い直線。鏡越しにそれを見ても美佐は涙を流しながらも微笑みを浮かべたままだ。
 それでも時折美佐の口からくぐもった泣き声がかすかに漏れる。
「う……う……うう」
 前頭部分が真っ青になって露になると、サイドの方に剃刀が進み出す。剃刀の進む音と振動が容赦なく美佐の耳に刻まれる。
「ひ……い……ああ……」
 美佐の微笑は崩れだしても春秋はためらうことなく剃刀を進める。
 すでに和紙はダークブラウン一色に染まっている。
「美佐さん……有り難う」
 隆子は美佐に優しく微笑む。美佐の顔にも再び笑顔が浮かぶ。

 ――ゴリ……ゾリゾリゾリ!

 最後に残った一房の髪が剃り落とされた。
「美佐さん、隆子さん、よくぞつらい儀式に絶えてくださいました。たった今からお二人は尼僧になられたのです。でもお二人とも勘違いしないでください。これはあくまでも始まりの儀式です。そして私が唯一お二人に力を貸せるのはここまでです。お二人が本当の尼僧になるのはお二人自身しだいです。」
「有り難うございます……春秋様」
 春秋庵の名にふさわしい小春日和の日に二人の尼僧が誕生した。
 一人を吉田春照、今一人を葛原秋華という。

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