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空も飛べるはず

今日私は髪を切ることにした。

携帯にそのタイトルでメールが届いたのはお昼休みに差しかかった頃だった。
 朝早起きして超人気のパン屋でコロッケパン、カレーパン(辛口)そして限定五十個の
メロンパンをゲットしたのだ。そして今至福の瞬間を味わおうとした矢先だった。
 突然私の携帯から「マツケンサンバ」が鳴り始めたのだ。
「なあに……あんた、まだ松平健のファンなわけ」
「ウププ……。相変わらず親父趣味だなあ。和穂は」
「……うるさいよ」
 顔が熱く火照りながらも私は心の中でつぶやく。
 ――ああ、健様、松平健様。悪友からなんと言われようと、私はいつまでも、いつまで
もあなたのファンです……
「また……和穂のヤツ、妄想モード入っちゃったよ」
「こらー、和穂ー早くでないとあんたの大事なパン食べちゃうぞ」
「ああ……今出るからちょっと待ち」
 ちょっと前まで顎まで揃えたはずの黒髪のボブは、肩までうるさげにかかっていた。
 携帯の画面をチェックすると、メール受信のアイコンが表示されている。私は受信メー
ルをチェックする。そのメールのタイトルが「今日私は髪を切ることにした」だったのだ。
「なあに? イタ電?」
「ううん、メール……ごめん、きょうはパス! 一人で屋上で食べる」
「ああ、ちょ、ちょっと和穂」
 友人たちの声の制止を振り切り、私は屋上へ向かった。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

屋上に出ると、艶やかな長い黒髪が風に揺られている光景が目に焼き付いた。
 髪が風にたなびく音が聞こえてきこうなほど、見事な黒髪が宙をそよいでいる。
 ついさっきまで息が上がっていたことを忘れ、しばしその光景に見とれていた。

「よう」
「ちょっとミャア! ようじゃないわよ。久しぶりに学校にきてるかと思ったら……なに、このメール」
 ドギマギした自分をまぎわらすためとはいえ、思わず口調が強くなってしまった。それでも美明はまるで気にしないかのように平淡な表情を見せている。
 美明とは高校一年からずっと同じクラスだ。それが高校三年になったと同時に不登校を始めた。美明はクラスの中で取り立てて目立たない存在だったから、だれもそのことに気を止めていない。彼女がこの学校の生徒だというのは、私と担任の先生しか知らないんじゃないかと言うぐらいだった。
 無口で無表情で無感情な印象を受けるけれど、色々とつるんでいるうちに美明もちゃんと感情表現するし、くりくりと大きめの目が子猫みたいで結構可愛いと思う。それになにより腰を覆うほどの癖のないつややかなまっすぐな黒髪。これが黒猫みたいになんともなで心地がよい。親しくなって以来私は彼女のことを「ミャア」と呼んでいる。
 相変わらず彼女は素っ気ないけれど、それがまた猫みたいで可愛いのだ。
「ああ、それね。髪切ってもらおうと思って」
「あんたってコはまた。そんなことでしか学校来ないの。この前カットサロン教えてあげたでしょ」
「和穂じゃないといや」
 う……私より身長高いのに、わざと私の胸ぐらいまでかがんで上目遣いするなんて。こういう攻撃には弱いのよね。
「しょ、しょーがないな。じゃあいつものところでいいよね?」
 美明は大きくコクンと頷いた。
 くーー! 可愛いなあ。うちのクラスの、いやうちの学校の男どもはマジで見る目なさすぎだよ。私が男だったら絶対にほっとかないなあ。私が男だったら……へっへっへ。ジュルジュルジュル。
「……和穂なにぼーっとしているの」
 美明の現実の声に私の超妄想モードはいとも簡単に突き破られる。
「う、ううん。なんでもない。いこ、いこ」

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

私はいつもの手で職員室から工作室の鍵を拝借した。私は手が器用だからか、美術の先生は「自習」と言えば部活のない放課後ならたいがい鍵を貸してくれた。
 放課後の教室は水を打ったように静かで、グラウンドでサッカー部や野球部の練習音がわずかにこぼれてくるだけだ。
「さ、ここに座って」
「うん」
 美明は借りてきた猫のように椅子にちょこんと座る。その仕草がなんとも可愛い。
 私は例によってロッカーに隠しておいた刈布やら鋏やら櫛やら道具一式を用意する。我ながらよくもまあこれだけのものを学校に持ってきたものだとあきれる。
 もっとも卒業生の中で私と同じことをやって、しかも学校からも黙認されていたらしい。
 案外私も黙認されているのかもしれない。

たまらず吹き出た笑みをみて、美明は不思議そうな表情で私の顔をのぞき込む。
「ああ、ごめん。私と同じようなことをした先輩がいることを急に思い出しちゃって」
「それ……水斗先輩のこと?」
「あれ? 美明……水斗先輩のこと知っていたの?」
「うん。実際には会ったことないけど」
「そうか……それで今日もいつもぐらいに毛先を揃えるぐらいでいいんでしょ?」
「……して」
「え?」
 美明の口から想像できない言葉を聞いて、私の体は硬直したように動かなくなる。
「今、なんて」
「バッサリと短くして」
「……」
「和穂? もしかしてマツケン夢想モード驀進中?」
 誰が夢想モードじゃ! というツッコミは置いといて、私は間抜けな表情で「短く?」と鸚鵡返しに聞くのが精一杯だった。
 美明は普段と変わらない無表情で首を縦に小さく振る。
「いいの?」
「うん」
「肩ぐらい?」
「もっと短くして。男の子ぐらいに。後ろは思い切り短く刈り上げて」
「刈り上げって……いったいどうしちゃったの? 今まで長い髪だったじゃん」
 美明はいたずらっぽい笑みを浮かべ、私から鋏を手に取った。
「いいの」
 刈布を付けたまま美明はゆっくりと立ち上がった。そしてお辞儀をするかのように頭を
下げる。美明を覆っていた長い黒髪が滝のように前へ流れ落ちる。

美明は前に流れる髪を一掴みに束ね、束ねたところに鋏を勢いよく入れた。

――ジャギ!

鈍い鋏の音が工作室に響きわたる。その音が私の耳には幾層にもなりひびいた。
「美明……」
「和穂、ごめん。自分で切っちゃった」
 粗く切られた黒髪の束は静かに美明の手で二つ折りになって小さく揺れている。
 今まで腰が隠れるほど暖かみは顎の下ぐらいまでに短くなっている。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

私は美明の白いうなじにバリカンを近づける。
「それじゃあ、思い切り刈り上げちゃうね」
「うん……バッサリやって」
 スイッチを入れると細かい刃が激しく動き出す。そのままバリカンを美明の髪の中へ潜り込ませる。

――ジジジジ……

わずかに美明の後頭部の髪が盛り上がると、バリカンのは入った部分の髪がバサリと床に散った。バリカンを後頭部から離すと、地肌が透けて見えるほど髪が短くなっていた。
 私は無言で再びバリカンで美明の髪を刈り始める。

ほとんど抵抗のないまま髪はバリカンによって刈り落とされていく。私は慎重にバリカンを美明の後頭部に走らせる。
「私ね……空を飛ぶんだ」
「は? そ、そらあ? 美明、飛行士にでもなるの?」
「そんなんじゃないよ。本当に空を飛ぶわかないじゃん。ただね今までずっと私、籠の中にいたから。そろそろ籠から飛び出してみたいと思ったんだ」
「なんだか……よくわからないけど、髪を切ったのはその決意表明?」
「うん。そんなところ」
 後頭部を刈り終えると、サイドの方にもバリカンを入れる。美明の形のよい耳が露になる。なんだか猫みたいで可愛い。

一通り刈り終えると私は美明に手鏡を渡した。
「どう? 結構短くしちゃったよ」
 美明は慣れない手つきで刈り上げた後頭部を何度もさする。刈り上げなんてきっと生まれて初めてだから、きっと違和感があるに違いない。
 美明が言ったこととはいえ、短くしすぎてしまっただろうか。

「ね……もうちょっと短くできる?」
「え! できるけど、これ以上短くしたら青くなっちゃうよ?」
「いいの。どうせだから……もっと思い切って刈り上げちゃって」
「わかった」
 私は再びバリカンのスイッチを入れると、美明は頭を頷かせ首筋を露にする。
 すっかり短くはなったものの、まだ地肌が現れていないうなじ。そこにバリカンを入れると、青白い道ができるとともに短い髪が私の手の甲に降り注ぐ。
 長いときと違ってなんだか手の甲がむずむずとこそばゆい。
 私は躊躇することなく耳の上までバリカンを入れていく。首のあたりはすっかり青みがかかった肌が見えている。
 同じように両サイドのほうも短く揃える。その間美明はただじっと晴れ晴れとした大きな空を見つめていた。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「こんどはどう?」
「うん。いい感じ。さっきよりすっごくスースーする」
「そりゃ。うんと刈り上げちゃったもん。それより本当にそんなに短くしてよかったの」
 美明は気持ちよさげに青々と刈り上げられた首筋をさすりながらほほえむ。
「いいの。髪を切ったのは決意表明だから。和穂、私ねあの大きなさらに向かって羽ばたくの。別に学校が嫌いって訳じゃないけど。この学校にいることは私には鳥かごでじっとしてろってことだから。だから……
 そうだ頼みついでで悪いんだけど、いつかこのこと書いてくれる? 和穂、文章書くのうまかったでしょ」
「うん」
 私は少し涙ぐんだ。美明の晴れ晴れとした表情から幾筋の涙が流れている。
 きれいな唇ととも美明の涙が私の頬に移る。ただ唇を重ねただけなのに、そのときはま
るで時間が止まったかのように思えた。

翌日、藤原美明は退学した。

おわり

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