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悪魔の預言者

悪魔の預言者

※本作品は、2020年11月29日『STORY LIVE Special』(三省堂書店池袋本店開店5周年記画)にて朗読、一部書店にて配付されたものを加筆・修正したものです。
※小説「悪魔と呼ばれた男」シリーズの特別ショートストーリーです。
※「悪魔と呼ばれた男」のネタバレを含みます!!

1 

 苦しい──。
 首に食い込んだロープが、ぎりぎりと気道を絞め上げていく。
 何とかロープを外そうと爪を立てたが、付け爪が剝がれただけで、ロープを外すことはできなかった。
 意識が遠のいていく。
 早く、何とかしなければ──。
 そう思った矢先、どんっと背中を何かに押された。
 一瞬の浮遊感のあと、衝撃音と共に意識が真っ暗な闇に吞み込まれた。
 私が感知できた彼女の記憶は、そこまでだった。
 目の前に横たわっている女性の死体から手を離し、私はゆっくりと立ち上がる。呼吸が乱れ、目眩がした。
 ふらふらとした足取りで死体から離れつつ、深呼吸を繰り返す。幾分、気持ちが鎮まったが、それでも背中に痛みが残っている気がした。
「こりゃ自殺ですね」
 刑事の一人が呟くように言った。
 ──違う。
 私は心の内で否定する。
 女性の死体は、自宅の吹き抜けになっている二階の柵に括り付けられたロープから、ぶら下がっていた。
 一見すると、首吊り自殺のようだが、そうでないことを私は知っている。
 私には、特異な能力がある。
 触れることで、他人の記憶が見えてしまう。
 いや、見えてしまうという言い方には語弊がある。映像として記憶を視認していることは間違いないが、それだけではない。
 聴覚、嗅覚、味覚など──五感の全てでその記憶を感じ取る。それは、追体験ともいうべきものだ。
 私が、さっき体感したものは、首を吊っている女性の死の間際の記憶──。
 女性は、自らの意思で首を吊ったわけではない。
 誰かに首にロープを巻き付けられ、絞め上げられた後に二階から突き落とされたのだ。
 これは、自殺に見せかけた殺人だ。
 だが、ここでそれを主張したところで、受け容れられない。誰も、他人の記憶を感知できるなどという話を信じないからだ。
 だから、これが殺人であると証明する為に、客観的な証拠を見つけなければならない。
 気持ちを落ち着けたところで、私は改めて現場を観察する。
 現場となったのは、世田谷の閑静な住宅街の一角にある一軒家だ。
 広い庭が設けられていて、陸屋根式の二階建ての瀟洒な邸宅で、普通の家なら三軒は入ってしまいそうだ。
 被害者の女性は、真壁啓子。三十六歳。
 大手物流会社の社長令嬢で、会社の取締役に名を連ねている。
 この家には、夫と二人で暮らしていた。夫は、事件当日出張で家を空けており、出勤してきた家政婦が死体を発見した。
 家の鍵は全て施錠され、セキュリティー設備も正常に機能していた。つまり、第三者が侵入した痕跡がなく、密室だったということになる。
 しかし、現場に啓子以外の人間がいたことは間違いない。それは、彼女の記憶が証明している。
 彼女が犯人を見ていれば良かったのだが、背後から襲われているので、その相手が誰なのかは不明だ。
 思考を巡らせていると、ふと突き刺さるような視線を感じた。
 振り返ると、エントランスの隅にじっと立っている男と目が合った。痩せ形だが、異様な存在感のある男だった。
 警察関係者で雑然とした空間の中、その男だけ浮き立っているように見える。
 年齢は五十手前くらいだろうか。身なりや佇まいからして、警察官僚のようだが、見覚えがない。
 もしかしたら、被害者遺族なのかもしれない。
 阿久津の方から声をかけようとしたが、それを遮るように同僚の水野が目の前に立った。
「予言者のお出ましか──」
 水野は、冷やかすような笑みを浮かべている。
「その呼び方。止めて欲しいものですね」
「そう言うな。みな、阿久津に憧れているんだ。名誉な渾名じゃないか」
 水野が目を細める。
 本心でないことは、明らかだ。私が〈予言者〉と呼ばれるようになったのは、事件の検挙率が高いからだ。
 しかし、誰もそれを賞賛していないし、まして憧れを抱いてもいない。
 本来警察は、市民の安全を守るのが仕事だ。誰が検挙しようが、その目的が果たされればそれでいいはずだ。
 だから、私は警察官という職業を選んだ。
 自分の能力を、もっとも有効活用できるのが事件捜査だと感じたからだ。
 ところが、素直にそう考える者は少ない。犯人を逮捕することだけでなく、手柄を欲し、出世を望むのが組織で働く人間の性というものだ。
 つまり、私に向けられた〈予言者〉という渾名は、蔑み、妬み、嫉みといった感情の集合体に過ぎない。
 特に、水野のようにプライドが高く、出世欲の強い男からしてみれば、私の存在は煩わしいものなのだろう。
「本心じゃないでしょう」
「まあ、そうだな。とにかく、早々に引き揚げようぜ」
 水野は軽い調子で言いながら、その場を離れて行こうとする。
「待って下さい」
「何だ?」
「あの人は、関係者ですか?」
 私は、エントランスの隅に立つ小柄な男に目を向けた。
 その途端、水野が苦い顔をした。
「ありゃ黒蛇だ」
「黒蛇?」
「ああ。内部監査室の大黒って警視正だ。しつこくて、ずる賢くて、陰湿だから黒蛇って呼ばれてるんだよ」
「どうして、内部監査室の人間が?」
「さあな。お前、何か目を付けられるようなことをしたんじゃないのか?」
 水野は、そう言い残すと歩き去って行った。
 正直、内部監査に目を付けられるようなことは、何一つしていない。むしろ、目を付けられるなら水野の方だろうが、口に出すことはなかった。
 あの男の素性が分かればそれでいい。
 私がやることは一つ。これは自殺ではなく、殺人であり、その犯人が誰かを突き止めることだ。

 家から外に出ると、雨が降っていた──。
 霧のような雨が舞っている。
 軒下には、制服警官と話をしている男女の姿があった。男の方は、啓子の夫である武昭だ。そして、女の方は秘書の真美だったはずだ。
 私は、二人の許に歩み寄って行く。
「捜査一課の阿久津です。一つだけ確認させて頂いてよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
 武昭は、神妙な顔で答える。
 目が充血している。泣き腫らしたように見えるが、悲しくなくても涙を流す方法は、幾らでもある。
「出張に向かわれる前、奥様にふだんと変わった様子はありませんでしたか?」
「いつもと、変わらないように感じました。まさか、こんなことになるとは……」
 武昭が無造作にジャケットの袖で目を拭った。
 おそらくは演技だろう。この手の男は、言葉で幾ら追及しても、決して尻尾を出すことはない。
「ありがとうございました。ご協力感謝します」
 私は、会話を早々に切り上げて、武昭と握手をした。肌が触れると同時に、彼の記憶が流れ込んできた。
 断片的なものではあったが、それでも、今の接触で多くのことが分かった。
 武昭が出張に行っていたというのは、噓ではない。だが、知っていた。妻が自殺に見せかけて殺害されることを。
 むしろ、それをけしかけたのは武昭自身だ。
 ただ、それを問い詰めたところでシラを切るだけだ。まず、落とすべきは、今回の事件の実行犯だ。
「すみません。もう一つだけよろしいですか?」
「何でしょう?」
「この家は、シリンダーキーの他に、セキュリティーを解除する為のカードキーを使用していますよね」
「はい」
「外部からの侵入は、不可能という訳ですね」
「そうです」
「その鍵を見せて頂いてよろしいですか?」
 有無を言わさぬ調子で言うと、武昭は戸惑いつつもシリンダーキーとカードキーを差し出してきた。
 私は、白い手袋を嵌めてそれを受け取ると、すぐに近くにいる鑑識を呼び寄せ、指紋を採取するように指示をした。
 武昭は、ようやく私の意図を察したらしく、驚きの表情を浮かべたが、もう手遅れだ。
 ただ、これだけでは証拠が弱い。
 私は再び家の中に戻ると、啓子の死体の許に足を運んだ。
 今、まさに運び出されようとしているところだったので、慌ててそれを制止した。
「少し、確認したいことがあります」
 私は改めて死体の手を摑み、その指先を丹念に観察する。
 小指の付け爪が剝がれていた。ロープを外そうと抗ったときに、外れてしまったのだろう。
 私は、密かにある作業を済ませると、待ってくれたことへの礼を言ってから、その場を離れた。
 これから、私がやろうとしていることは、明らかな違法行為だ。だが、正常な捜査では、真相を暴くことはできず、啓子の死は自殺として処理されるだろう。
 それはあってはならないことだ。罪を犯した者は、裁きを受けなければならない。
 再び家を出ようとしたところで、大黒と目が合った。
 内部監査室に籍を置き、黒蛇と畏れられる男は、まるで私の全てを見透かしているようだった。
 大黒の視線を振り切るように外に出ると、すぐに水野に声をかけられた。
 引き揚げたとばかり思っていたが、まだ残っていたようだ。いや、呼び戻されたのかもしれない。何れにせよ好都合だ。
「ちょっといいか?」
 水野が、ついて来いという風に目配せする。私は、それに素直に従って歩き始めた。

 水野に連れられて来たのは、エントランスの脇にあるリビングルームだった。
 床はエントランスと同じ大理石で、十人は座れそうな大きなテーブルが置かれていて、その奥にはアイランドキッチンがあった。
 外に面した壁一面がガラスになっていて、雨によって水玉模様が作られている。
「自殺でカタが付いてるんだ。あまり引っ搔き回すなよ」
 水野は、ガラスに付着した水滴を見つめている。
「別に引っ搔き回しているつもりはありませんよ」
 私の答えに納得していないらしく、水野は露骨に表情を歪める。
「鍵やセキュリティーカードの指紋を採取するように、鑑識に指示しただろ」
 それを知っているということは、やはり水野は武昭と繫がっているということだろう。
「一応、確認の為です」
「その必要はない。これは自殺で、武昭にはアリバイがあるんだ。鑑識にも、必要ないと伝えておいた。とにかく、これ以上、搔き回すのは止めろ」
 水野は、それだけ言うとリビングから出て行こうとしたが、私はその進路を塞ぐように立った。
 水野が睨み付けてくるが、その奥には怯えが見え隠れしている。
「指紋採取は、もう終わっています」
 私は、ポケットの中から簡易式の指紋採取キットを取り出した。セロファンを使って、指紋を写し取るだけなので、手間はかからない。
「お前……それを寄越せ」
「それはできません。私の推測が正しければ、セキュリティーカードには、あなたの指紋が残っているはずですから」
 それが、どういう意味なのか、水野にも分かるはずだ。
 武昭と水野は、共謀して啓子を殺害した。
 とても単純な事件だ。武昭は出張に出る前、水野に会い、鍵とセキュリティーカードを渡した。
 それを受け取った水野は、堂々と正面玄関から家に侵入し、啓子の背後から近付き、首にロープを巻き、絞め上げた。
 ただ、そこで殺害はしなかった。
 意識が朦朧としたところで、ロープの端を二階の廊下の柵に括り付け、彼女をそこから落としたのだ。
 そうすることで、自殺を偽装できる。
 犯行後は、何処かで待ち合わせをして、武昭に鍵とセキュリティーカードを返せばそれで終わりだ。
 水野は、内部から自殺説を強く主張し、警察の捜査を誘導した。
 仮にバレそうになっても、それを揉み消すつもりでいたのだろう。だから、私をここに呼び出した。
 おそらく、水野は私が真相に辿り着いているとまでは思っていなかったのだろう。
 ただ、圧力をかけて、揉み消しを図ろうとしていただけだ。
「どうして、隠していたんですか?」
 呆然としたまま何も答えない水野に、そう問い掛けた。
「隠す?」
「あなたと武昭さんは、古くからの友人だった。それだけではありません。あなたは、武昭さんから金を借りていますよね」
 それこそが、水野の犯行動機だろう。
 水野は、内部監査から目を付けられるほど、金にルーズな部分があった。そうして重ねた借金の返済を、昔からの友人である武昭に肩代わりしてもらっていた。
 一方の武昭は、妻である啓子の存在が邪魔だった。
 婿養子に入ることで、大企業の専務取締役の座に就いた武昭からしてみれば、結婚は出世の手段であり、そこに愛情はなかった。
 外に愛人を作り、自由に振る舞っていたが、やがて啓子にそのことを知られ、離婚を切り出されることになった。
 そうなれば、武昭は全てを失う。水野からしても、それは望ましいことではない。金づるを失うことになるのだから──。
 お互いの利害関係が一致したことで、今回の犯行が生まれたというわけだ。
「いつ、そんなことを調べたんだ?」
 水野が驚愕の表情を浮かべたまま訊ねてくる。
「私は、他人の記憶を感知することができるんです──と言ったら、信じますか?」
 そう告げると、水野は声を上げて笑った。
「バカバカしい。そんなことあるわけないだろ。だいたい、おれと武昭が、友人だったら何だっていうんだ? 隠していたわけじゃない。私情を挟むべきではないと考えて、口に出さなかっただけだ」
「見苦しい言い訳ですよ」
「何とでも言え。だいたい、鍵やセキュリティーカードから、おれの指紋が出たからといって、何の証拠にもならない。おれと奴は友人だ。鍵やカードに触ったことくらいあるさ。お前が何と言おうと、これは自殺なんだよ」
 あくまでシラを切り、事件を揉み消すつもりのようだ。
 落胆はなかった。水野の性格から考えれば、こういう反応になるのは想像がつく。だからこそ、私も奥の手を用意している。
「証拠は指紋だけではありません」
 私は、ポケットから証拠品袋を取り出した。
 その中には、被害者の付け爪と髪の毛が一本入っている。
「何だそれは?」
 訊ねてきたが、わざわざ説明するまでもなく、水野にも分かっているはずだ。
「これは、被害者の付け爪と、そこに絡みついていた髪の毛です。おそらく、犯人と揉み合っているときに、付け爪に髪の毛が引っかかったのでしょう。この毛髪をDNA鑑定すれば、現場に第三者がいたことが証明されます」
 今言ったことは──全て噓だ。
 付け爪に毛髪は絡まっていなかった。さっき、改めて啓子の死体を確認したときに剝がし、私自身の髪を抜いて証拠品袋に入れただけのものだ。
 だが、水野は私の言葉を信じたらしかった。
 顔色がみるみる青ざめていく。
「まったく。予言者とはよく言ったものだ。お前は、本当に厄介な男だよ」
 水野は、小さく首を振りながら言うと、ホルスターから拳銃を取り出し、その銃口を私の額に向けた。
 目が血走っている。
 きっと、水野はトリガーを引くことを躊躇わない。この期に及んで、私を葬ることで、事件をうやむやにしようとしている。
 揺さぶりをかけるにしては、あまりに不用意だったかもしれない。
「そこまでだ。水野」
 唐突に声がした。
 目を向けると、いつの間にかリビングルームに大黒の姿があった。
「話は、私も聞いていた」
 大黒が静かに告げる。
 私一人だけなら殺して口封じもできるだろうが、証人が二人もいるとなると、もはや逃げ道はない。
 水野は、全てを諦めたのか、拳銃を持った手をだらりと垂らし、長い溜め息を吐いて天井を見上げた。
 私は、水野から拳銃を取り上げようとした。
 しかし──。
 水野は飛び退くようにして私から離れると、拳銃の銃口を自らの口の中に突っ込み、トリガーを引いた。
 乾いた破裂音とともに、水野の後頭部に穴が空き、ガラスを血が真っ赤に染めた──。

 相変わらず、嫌な雨が降っていた──。
 私は、濁った空を見上げる。
 自殺と思われた女性は、実は計画殺人によって殺害された。そして、その実行犯は現職の警察官で、同じ家の中で自ら命を絶った。
 他の結末は無かったのかと思いを巡らせてみたが、起きてしまったことを変えることはできない。
「ここにいたのか」
 声をかけられ、目を向けると大黒が黒い蝙蝠傘を差して、そこに立っていた。
「先ほどはありがとうございます。お陰で命拾いしました」
 腰を折って頭を下げる。
 大黒がいなければ、間違いなく私は水野に撃ち殺されていた。
「君のことを見ていた」
「え?」
「君は、いち早く事件の真相に気付き、証拠を偽造し、真犯人から自供を引き出した。その特別な能力を、私の許で発揮して欲しい」
「どういうことですか?」
「追って辞令を出す。話は以上だ──」
 大黒は踵を返すと、そのまま歩き去って行った。
 人は彼のことを黒蛇と称している。だが、阿久津には、まったく別のものに見えた。
 その背中は、禍々しい瘴気を纏う、悪魔のようだった──。

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