冬の歌

皆さんは冬にアルバイトをしたことはありますでしょうか。

いや、今から30年近い昔、私の生まれて初めての「アルバイト」は祖母が勤めていた乾物問屋の手伝いでした。

期間は12月30日までの一週間。
あの頃はまだ大型量販店は滅多になく、年末年始は市場で買い物をするという風習がまだ残っていたので、那覇の真ん中にあるその乾物屋さんは大忙しでした。

それまでクラスメイトがアルバイトをしてお金があるのが羨ましかったし(我が家は結構厳しい経済状態でしたが、父の方針でアルバイトは厳禁でした)、あそこの乾物屋の主人夫婦はお年玉もいっぱいくれるし、きっと待遇もいいに違いない、と軽い気持ちで引き受けました。

まあ、そこが当時15才の頭の悪さです。働く事の重さを知らなかったんですね。

まず朝6時から出て、おさんどんをしていた祖母が帰ったあと、12時近くに家に帰るという勤務態勢。

そして乾物屋の人たち祖母の孫として私が来るときとは違って、「店員」の私には厳しく(とはいえ、今思い返せば特に厳しかったんでは無く、私が鈍くさかったので厳しくせざるを得なかったんだと理解出来ますが)、その落差も世間知らずの子供を愕然とさせました。

が、世間の人間はいつもこんなに働かされているのか、ということはそれ以上の衝撃でした。

沖縄はよく温かいと言われます。
冬の気温は20度前後、低くなっても18度、15度を切ったら魚が気絶して浮いてくるぐらいの南国です。

が、実際には20度に設定したエアコンの中に居るわけです。
しかも常時風が吹いています。
体感温度は風によって5~10度は下がってしまうので、北海道から来た人が「温かい」と笑っていたら風邪引いて帰ることもあります。

つまり、水道の水は東京並みに冷たい。

私の乾物問屋における仕事の半分は、山積みになった鰹節をタワシと流水で洗うことでした。残りは雑用。
1日6時間、水場に立ちっぱなしで手袋も無しに鰹節を洗ってました。

その時の大ヒットが小林旭の「熱き心に」とバラクーダの「血液ガッタガタ」で、これを聞きながら毎日鰹節を洗っていたら掌の皮がみるみる厚くなってきて、掌を握りしめる事も難しくなり、指関節のあたりをカッターナイフで削ったことがあります。
結構不器用なので、用心しいしいカッターの刃を当ててゆっくり動かしましたが、それでも2ミリぐらいの厚さで皮が削げて地が一滴も出ず(つまりそれでもまだ皮膚が残ってた)、指を折り曲げられるようになったものの、「このバイトが終わったら全体を削ろう」とかまるで自分の手がプラモデルになったような気がしたのを覚えています(その後、実際に手の皮全体を削ぎましたが、同じ様に2ミリぐらいの厚みで削り落とすことになりました掌だけで甲の側はいつも通りだったのが不思議でした)。

そしてようやく世間でなぜ「水仕事の手に」といって薬用クリームが売られているのかを理解したのです。

家に帰ってヘビーローテーションで聞いていたのが「アステロイド・ブルース」と「星空のエンジェルクイーン」。

あれから幾つもの冬を越えていまこうしておりますが、お陰でこの四曲を聴いているとあの時の乾物屋の空気の匂いと、何とも懐かしい気分になります。(実はもう1曲、冬の曲というと「地球へ……」のエンディングテーマ「愛の惑星(プラネット)」と「キタキツネ物語」のテーマソング「赤い狩人」もありますがこれはまた別の機会に)。
で、他の冬にも他の想い出の曲がありまして、そういうのをまとめてiTunesでプレイリストを作り、最近は年末になると聞いております。
こんな感じです。

なお鰹節を洗い、徒歩の配達をして朝6時から夜12時まで一週間働いて報酬は3万円(手取り)。朝六時に起きて夕方五時には帰る祖母は15万(手取り、もちろん保険など一切無し)


その最終2日に入った乾物屋のイトコはろくに働きもせず同じく3万円。

そしてようやく気づいたのです。
これが「今の自分の値段」なんだということに。
ガッカリしました。
時給という言葉はまだ理解していませんでしたがもっともらえると思っていたのです(事前に金額を訊くという知恵もありませんでした)

「まだいい方だよ、オレなんかバイト代も出ない」

と乾物屋の息子の人(一緒に働いていた次男)に言われ、これが世の中というものか、と世知辛く思ったのを覚えてます。

今から考えるとあれは短期の丁稚奉公であると同時に、「お年玉を多くあげるための口実」であって、アルバイトでは無かったと思います(笑)

なお、バイト代はどうなったかというと、当時出たばかりのコクサイのモデルガンM29(金属製)の6インチと本に化けました。
翌年も「バイトしない?」と言われましたが、あの不公平さ(とその時の私は思っていました)を目の当たりにした上、高校に入ってからアニメサークル活動の仲間も出来、他のバイトは決してここまでヒドイものではないと知ってしまった自分は「やらない」と即答しました。
まだお小遣いとお年玉という物を貰う立場、という気楽さもあったと思います。

そしてその時から無根拠な自信で「作家になってもっと儲けるから今は言い」とぼんやり考えていました(←この考えが後に色々祟ってくるのですが(笑))

数年後、高校を卒業したあと市役所のアルバイトという金額的には美味しいけれど難儀な「飲みにケーション」にウンザリしたり、警備員で「地方のお金持ちはケチ」だという現実をみたり、色々あるのですがそれはまた別の話。

あの頃のお金が無い、というのは単に「余計な買い物が出来ない」程度の不自由さだったなーと懐かしく思います。

一週間以上の未来は漠然としてて、それが苦にならなかった頃のお話。


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