~デンマークとクレセントロール~  ④海賊の巣

あたしとれいこちゃんは“海賊の巣”の前に立っていた。
 セメントを塗ったようなデコボコ壁。直角三角形の定規みたいに急傾斜した黄色い屋根。小さな窓が二つあるが、擦りガラスになっていて中の様子は分からない。
家から歩いて2分くらいのところに最近できた喫茶店だ。それまでは、この辺で喫茶店といえば“喫茶かみさわ”しかなかった。”喫茶かみさわ”は、家がある路地の角にある。カウンターと大理石もどきの四人掛けのローテーブルが四つほど並んでいて、いつも電動式のコーヒーミルで「ガー」と「シャー」が混ざったような機械音がしている。喫茶店のホットケーキを初めてここで食べた。スクランブルエッグをトーストの上にのせて赤いパプリカを振った玉子トーストを家でも真似して時々作った。時々、おじさんがカウンターの上の籠に盛られているゆで玉子を食べていた。こつんとカウンターの上にたまごをあてて、ひびを入れるとむしゃむしゃと殻をむき、食塩を振って齧る。一連のその動作が大人が、しかもおじさんが食べるもののような感じがして子どもが手を出すものでないと思った。ホットケーキや玉子トーストがある”喫茶かみさわ”も悪くなかった。でも、その”喫茶かみさわ”から50メートルほど北に”海賊の巣”はできたのだ。“海賊の巣”は夜には”スナック”になるらしい。母親に
 「“スナック”って何?」
と聞くと、
 「夜、お酒飲ませるところ」
と言った。夜になると”スナック”になることといい、斬新な外観といい、いつも気のいいおじさんがコーヒー豆をひいている”喫茶かみさわ”とはやっぱりちょっと違った。時々、男の人がくわえ煙草で店先にホースで水を撒いているのをみかける。小柄な細身の人で”しゃくれ顎”で髪の毛はチリチリパーマ。いつも白いシャツに黒いスラックスをはいている。シャツのボタンを三つまではずし、その薄いツルツルした胸元には金色のネックレスがチラチラしている。細いベルトのバックルも金色だ。グラスを片手にタップダンスを踊る外国人みたいやなぁと思った。
 店の前のショウケースには、蝋でできたサンプルが並んでいた。白いパンに黄色い玉子をはさんだサンドイッチ、鮮やかなグリーンにアイスクリームがのっかったクリームソーダ、直角三角形に切られこんがり焼けているトーストなど、どれも美味しそうだ。その中でも特に気になったのが“玉子サンド”だ。
「あたしは、焼いた玉子の方が好きや」
「わたしも焼いたほうがええ」
当時、玉子サンドと言えば茹で玉子が主流だった。“海賊の巣”の向かいにある“タモンパン”の玉子サンドも、“喫茶かみさわ”の玉子サンドもゆで玉子だった。ショウケースのサンプルはどちらか見分けがつかない。
 「絶対、焼いてるわ」
 「そうやろか」
あたしとれい子ちゃんは、そんなことを言いながら毎朝、”海賊の巣”の前を通って学校に行った。
 ある日突然、サンドイッチの玉子が”ゆで”か”焼き”か二人で確かめに行くことになった。親に言えばいいものを急に決めたということは、どうしても食べてみたい気持ちが募って、もう待てない気持ちになったのだと思う、子どもだけで、食べもん屋さんに入るのは、K沢市場のたこ焼き屋とお好み屋くらいのもので、”海賊の巣”に行くのは二人にとってちょっとした冒険だった。
その日は学校から帰るとすぐにランドセルを放り出してお小遣いをポケットにつっこむと”海賊の巣”に向かった。
 入るかどうか迷ってしばらく店の前でもじもじしていたけれど、思い切ってドアを押した。カランコロン! ドアに付けられているベルが騒々しい音をたてた。店の人が一瞬、不思議そうな顔をして二人を見た。客はおらず、壁もカウンターも白く、ガランとしていた。壁には金色の時計がかけられていて、時間を示す数字が外国で見るような数字で、振り子が揺れていた。店全体は薄暗かった。二人は寄り添うようにしてカウンターの端っこに座った。チリチリパーマの男の人が水を置きながら「はい、何しましょ?」と言った。あたしたちは
「玉子サンド…」
と言った。サンドイッチが出てくるまで二人は一言も口をきかずシュガーポットをいじったりメニューを眺めたりした。お店の人は、店の奥に入って出てこなかった。
 しばらくすると、
「はい、お待たせしました」
と言って、二人の前に白いお皿に乗っかったサンドイッチが置かれた。パセリが横についていた。玉子焼の匂いが鼻をかすめる。それぞれ、二切れずつ夢中でほおばった。熱々の玉子焼きで上あごをやけどした。マヨネーズとケチャップを合わせた少し甘いソースも美味しかった。思った通り、いや、それ以上に”海賊の巣”の玉子サンドは美味しかった。食べ終わるとすぐに席を立ち、ポケットの中の小銭をお店の人に渡した。いくら払ったかは覚えていない。店を出ると急に笑いがこみあげ、二人でゲラゲラ笑いながら走って帰った。
晩御飯の時、母親が
 「あんたら、海賊の巣行ったでしょ!?」
と言ってきた。姉が
「へっ?わたし、行ってないで!」と言った。母が
「あきことれいこちゃんやないの!」と笑いながら言った。
「うっそ!いつ、行ったん?」
と姉が嬉しそうに言う。あたしは、上あごを舌でなぞりながら、「れい子ちゃん、お母さんに言うたんや」と思った。
 次の日、学校に行く時、れい子ちゃんに
「昨日、”海賊の巣”に行ったこと、おばちゃんに言うた?」
と聞くと、れい子ちゃんは
「言うてないで」
と言った。
 学校の帰りに“海賊の巣”の前を通ると、チリチリパーマが水を撒いていた。チラッとこちらを見ると「今度はお母さんと一緒においで」と言った。

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