~デンマークとクレセントロール~  ③新開地

祖父は新開地ではんこ屋さんをやっていた。あたしたちが暮らすK沢8丁目から市電に揺られて10分程度のところにあった。祖母は市電の定期を母に買い与え、母は小さなあたしと姉の顔を祖父母に見せる為に毎日のように通った。時々、仕事帰りに父が寄って、みんなで近所にある『赤てんぐ』で晩御飯を食べに行くこともあった。そんな時は帰りがけに祖母が
「あんたら、タクシーで帰り」
と言って、母に小銭を持たせた。その後、市電が市バスになり、店のすぐ前が新開地のバス停になった。小学2、3年くらいになって自分たちだけでバスに乗られるようになると姉と2人でバスに乗って祖父母のところへ行くこともあった。乗車料金小人25円。母は2人が乗る時、運転手さんか車掌さん(当時、車掌さんが乗っていたような気がする)に
「新開地で降りますから」
と一言ことづけて、あたしたちに
「新開地に着いたら、おばあちゃんが停留所で待っとうからね」
と言って、2人を見送った。バスに乗っている間はずっと運転手さんか車掌さんの横にぴたりとくっついて、窓の外の景色を注意深く見ながら新開地に着くのをただひたすら待っていた。新開地のバス停に近づいてくるとバスの窓から店の前に立っている祖母を探す。かっぽう着姿で手を振る祖母を見つけると姉と2人で転げるようにしてバスから降り祖母に駆け寄る。
 店の扉は木枠にはめ込まれたガラスの押し扉になっていて扉の中央に黒い文字で「N山印章店」と書かれていて、押すとギィーッと音がした。六畳程度の小さな店で左手に印章を並べたガラスケースがあり、その向こう側に祖父の作業机がある。祖父はあたしたちが入っていくと、眼鏡越しにこちらを見るとコワい顔を一瞬にしてほころばせて
「いらっしゃい」
と言う。あたしたちだけが享受できる祖父の笑顔。
店の奥が祖父母の生活の場になっていて、手前に踏み台があり、そこで靴を脱いで上がる。上がったところに大きな衝立が置かれていて、それが目隠しになっている。高さは自分の目より高く、幅は1メートルくらいはあっただろうか。その後ろに祖母の鏡台が置かれているのだが、畳2枚分もないスペースは殆どが衝立で塞がれていた。衝立には伏せた一頭の虎が画面いっぱいに描かれていて、鋭い目でこちらを睨んでいる。祖父母は新開地で店を始める前は、B王寺町の大きな家に住んでいた。この大きな衝立はその時の名残りであろう。堂々とした虎の姿と職人気質の祖父が重なる。店に入ってまず最初に目に飛び込んでくる虎は誰よりもこの家の重鎮であり、新開地ではんこ屋を営む祖父母を護る”魔除け”であり、あたしたちが来るのをそこでじっと待っている主でもあった。
衝立の向こうに六畳一間と四畳半くらいの台所があり、トイレは裏にでたところにあった。あたしは祖母が使っていた鏡台の前に座って引き出しの中を開け、櫛や手鏡といった道具を見るのが好きだった。祖母はあたしたちが行くと三軒向こうの『びっくりうどん』からきつねうどんを出前してくれた。一杯180円。シルバーの丸いお盆にのせて、木の板蓋がされた丼を祖母が運んでくる。祖母はそれに味の素をかけ、お椀に取り分けてくれた。チュルチュルとうどんを啜るあたしと姉を見て祖母は
 「なんでや、美味しいからや」
と、歌うみたいに言って金歯を見せて笑った。あたしはうどんを口に入れるとそれを啜らずに、割りばしをすーっと下げ、割りばしの端にたまるうどん粉をねぶるのが好きだった。
 堅物な祖父の唯一の趣味はパチンコで、戦利品のお菓子を缶に溜めていた。その缶はタンスの上にあり、見上げていると祖父が仕事場から上がってきて
 「お菓子か? 下したろ」
と言って、缶を下してくれる。蓋を開けるとチョコレートや飴やラムネなど色々な菓子がありそれらが混ざり合った甘い独特の匂いがした。缶の中を覗きこんで、選り分けながら
 「あたし、今日はこれ!」
と言って、姉と二人で取りあった。
 店のすぐ前はバス停ということもあり、人通りも多かった。祖父の仕事場の棚には使い古した白いろう石があり、それをアスファルトに擦りつけて遊ぶのが好きだった。擦ると白い粉が出来上がる。その粉は片栗粉みたいな触感でさらさらつるつるしていて擦っては少しの粉を作ってそれを指先で撫でて遊んだ。
 姉と二人で遊んでいると、時々、にやけた顔で近づいてくるおじさんがいた。そのおじさんを見るとあたしと姉は慌てて店の中に逃げ込む。店の前を通り過ぎる時そのおじさんは、ガラスの扉越しにこちらを見ているのだった。ある日、店の前で姉と「けんけんぱー」をしていた。あたしは「けんけんぱー」の一番端っこまで行って、折り返しで戻ろうとしていた。その時、姉があたしの後ろを見て、
 「あかん!戻っておいで!」
と言いながら店の中に入っていった。あたしが後ろを振り返ると例のおじさんがすぐそこまで近づいてきていた。あたしは一目散で店の中に逃げ込んだ。こわいけど笑いがこみ上げてくる。おじさんは、店の前を通り過ぎながらガラスの扉越しにこちらを見ていた。いつものようにニヤニヤ笑って、今にもギィーっと扉を押して入ってくるのではないかと思った。あたしは祖母に
 「あの、おっちゃん誰?」
と聞いた。祖母は
 「子取りのおっさんや」
と笑いながら言うだけだった。
 店の前の大きな道路を挟んで向こう側に東映の映画館があった。春休みや夏休みになると『東映まんが祭り』をやっていた。その度に映画館の入口は、いつもの俳優のパネルではなく、赤、黄、青といった原色で作られたアニメの看板が置かれ、金や銀のモールが掛けられている。バスでK沢8丁目に帰る時には映画館の前のバス停から乗るので、バスを待っている間、入口から中を覗きこんだりする。あたしはどうもこの『東映まんがまつり』の映画を見る気になれなかった。映画館の場末的な雰囲気とケバケバしく幼稚なデコレーションに違和感を感じていたのかもしれない。前に朝日会館で見た『101匹わんちゃん』の方が、断然、洗練されていた。
「やっぱり東映よりディズニーやで」
と、子どもながらに感じた。
 東映の映画館から少し西に離れたところに大きな円錐形の先を切った煙突のようなものがあった。外側はうす茶色のタイルが貼られていた。時々、その口から煙か蒸気かわからないけれど、白い気体が出ていた。そこの下は地下街(メトロ神戸)になっていて、それは排気口のようなものだったのだろう。でも、あたしには大きな煙突に見えた。祖母に
 「あれ、煙?」
と聞くと、
 「悪いことしたら、子取りに取られて、あそこへ放り込まれんやで。ようさん、放り込まれた時には白い煙が出るん」
と、言った。広くて薄暗い穴の中で、膝を抱えて高い壁を見上げる男の子の姿が自分になった。
 新開地の娯楽場「しゅうらっかん」は店から歩いて3分くらいのところにあった。入場券売場には列を作る鉄の柵があった。それは学校の運動場にある鉄棒より小さくて低いけれど逆上がりや前回りができた。劇場の入口は円形になっていって映画か芝居か何かわからないけれど、演目がある夜は大勢の人が集まり、中からは音楽が聞こえていた。赤い絨毯が敷かれていたように思う。劇場の壁には映画スターの写真やポスターが貼られ、天井からは派手なシャンデリアがぶら下がっていた。中にはスケート場もあった。一度、家族で行ったが、中は薄暗くて靴を貸し出すところにいる叔小父さんが無愛想だった。ろくに滑られず、ほとんど手すりを持ってリンクの端を歩いていた。自分と同じくらいの子どもが得意げに横を滑っていくのを見ながら、「スケートできるんは、金持ちなんやろな」と思ったりした。
 「しゅうらっかん」に行く途中に、全身包帯の男の人が座っている。白い紙に何やら書いた看板みたいなものを後ろに置いて、傍らに置いたトランジスタラジオのような器械から音楽のような人の声のような音が流れていた。前を通る度に見てはいけない気がして母の陰に隠れてなるべく見ないようにして歩いた。ある日、祖母が
「兵隊さんや」
と教えてくれた。
「戦争に行って、足や手ぇ、失くして仕事でけへんから、ああやって道に座ってるんや」
と言った。戦争なんてずっと昔のことで、自分には関係のない話だと思っていた。本物の「兵隊さん」を見たのはその時が初めてだった。その人の目は虚ろなようでいて鋭く、実は見ないようにしていたこちらが見られていたのだ。よく見ると包帯だと思っていたのは白い着物のような衣服だった。片方の足の膝から下がなく、もう片方の足を投げ出して座っている。もしかしたら、片腕も肘から下がなかったのではないだろうか。どうやって歩くのだろう?母が
 「義足、つけてるんよ。今はそれをはずして座ってはるねん」
と言った。義足? 見ると傍らにセルロイド人形のようにツルツルした黄土色のバットみたいなものが1本置いてあった。膝から下がない足にそれを装着するところを想像するとぎゅっと目を瞑った。

戦後20年であたしは生まれてきた。思えば20年なんてそんなに遠い昔のことではない。当時は戦争が残した切れ端が街のところどころに転がっていたのだろう。

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