~デンマークとクレセントロール~  ⑨グッモーニンのおじいちゃん

夏休みの日課にラジオ体操があった。朝の六時頃になると表で呼ぶ声が聞こえる。
 「あっこちゃーん、ゆっこちゃーん」
その声が聞こえるとあたしはむくっと起き上がり眠い目をこすりながら布団から出て、服を着替える。ノースリーブの白地に親指姫のプリントがされたTシャツがお気に入りだ。他にもフエルトでリンゴのアップリケがついたシャツも好きだった。引き出しから適当に着ていく服を選んで手早く着替えると、寝ている父と母の足を布団の上から踏まないように気をつけながら表に出る。たかし君とれいこちゃんがいて、後はあつこちゃんを待つだけ。みんなの日に焼けた眠たい顔が朝日に照らされている。
 「このあさがお、もう咲くで」
と言いながら、あさがおのぷくぷくした蕾を触ったりしながら待っていると、あつこちゃんとのりちゃんが出てくる。みんな揃ったところで歩いて5分くらいの会下山《えげやま》公園まで「たこ焼きの坂道」を歩いて行く。みんな首から出席カードをぶら下げている。上に着くと、子どもや大人が集まり、ワイワイしている。体操が始まる前に出席カードにスタンプを押してもらう。タコやすいか、ヨットにぶどう、麦わら帽子にひまわりと色々な図柄があってスタンプ係りのおじさんやおばさんが押してくれる。今日は何の柄かと楽しみにしているのだけれど同じ柄が三日も続くと損した気分になった。そうこうしていると
 「ラジオ体操、だいいーち!」
と放送が流れてきて、みんなそれぞれの場所で体操をする。音楽に合わせてみんなで身体を動かすのは楽しかった。手を勢い良く左右にブンブンと振ったり、飛ぶ時には思いきり高く飛んで見せたりした。体操が終わると公園の上にあるはげ山に行って遊んだ。この頃になるとみんな眠気も吹っ飛んでテンションも上がり、はげ山を上からお尻で滑り降りたり、ブラブラしたりして遊んだ。帰り道でいつも二匹の犬を連れたおっちゃんに会う。犬は細くて毛がつるつるしたこげ茶色で、百一匹わんちゃんの犬が茶色くなって目つきが悪くなったような犬だ。細い足をシャカシャカ言わせて歩いていた。そしてすれ違う時にいつも「う~、う~」と唸ってこちらに近づいてこようとして、今にも飛びかかって来そうで怖かった。おっちゃんは怖がるあたし達をみて犬を叱るわけでもなく、ニタニタ笑って犬のしたいようにさせていた。嫌なおっちゃんだった。
 でも、楽しいおじいちゃんもいた。真っ白なキャップを被って、白いポロシャツ、白いジャージパンツ、白いスニーカー全身白ずくめのおじいちゃん。すらっと背が高くステッキを持っていて、背筋を伸ばして歩いている。おじいちゃんはあたし達を見ると
 「グッモーニン、エブリバディ!」
と言って手を振る。トレンチコートを着てパイプをくわえて帽子を被ればたちまち「ムッシュユロ」になりそうだ。おじいちゃんは公園のウンテイでケンスイをしてみせてくれたりお菓子屋さんの前のベンチに座って英語を教えてくれたりした。間近で見るおじいちゃんの顔は高いお鼻から鼻毛が出ていた。たまに汗ばんだその手で腕を触られるとちょっと「ひぇ~」と思ったけど、おじいちゃんはどんな時もニコニコ目を細めていた。
 ある日、みんなでおじいちゃんの家に遊びにいったことがある。おじいちゃんが「みんな遊びにおいで」と言って呼んでくれた。おじいちゃんの家はあたしたちの家から近かったのでどこにあるのかは知っていたけれど中に入るのは初めてだった。二階建ての大きな家で木でできた重たい門がある洋風の家だった。門の中に入るとガラスの引き戸があり、それをガラガラと開けて玄関に入った。おじいちゃんは
 「あがりなさい、あがりなさい」
と言って、自分も上がり框に座って白いスニーカーを脱いだ。ひんやりとした広い玄関で廊下の突き当たりに菱形の擦りガラスがはめ込まれたドアがあった。あたしたちが靴を脱いで上がると、そのドアから自分たちの母親よりちょっと年配の女の人が出てきて、あたしたちをチラッと見るとおじいちゃんに何か言っていた。その時のおじいちゃんの顔はあたし達が知っているおじいちゃんの顔ではなかった。悲しそうなちょっとこわい顔をしていた。でも、おじいちゃんはあたし達に顔を向けるといつもの優しい顔に戻り「あがりなさい」と静かに言って、すぐ横にある階段を上がるように促した。階段を上がるとおじいちゃんの部屋があった。八畳くらいの部屋だろうか、布団が敷いてあって小さなタンスと窓に向かって木の机が置いてあった。窓から白いカーテン越しに陽が射しこんでいた。そこで何をして遊んだのか、おじいちゃんと何を話したのか、よく覚えていない。もしかしたら、なんとなく居心地が悪くなって早々に帰ったかもしれない。それからもおじいちゃんとは、ラジオ体操に行くたびに会っていた。おじいちゃんはいつもニコニコ顔で力瘤を作って見せてくれたり、英語を教えてくれたりした。でも、新学期が始まると、ラジオ体操に行くこともなくなり、おじいちゃんの姿を見ることもなくなった。今でもおじいちゃんの高いお鼻の優しそうな笑顔や金色の産毛が光った汗ばんだ腕を思い出すけど、それと同じくらい思いだすのが、おじいちゃんの家に行った時に一瞬見せた悲しそうな顔、敷きっぱなしになった布団、窓際に置かれた木の机、窓から差し込む黄色い光だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?