~デンマークとクレセントロール~ ⑦れい子ちゃんの金魚

 学校からの帰り道、ボタボタと傘にあたる雨音を感じながら、今日は好きなだけ漫画を読むと決めていた。長靴の足でぴちゃぴちゃと雨水を跳ね上げながら早足で家に着くと、傘の柄を首に挟みながら、玄関の引き戸の鍵穴に鍵を突っ込んでゆっくりと回した。カチャリ。今日はスムーズに鍵が開いた。時々、鍵がすんなりと回らずにそれでも無理やり回そうとして鍵を曲げてしまった時もある。でも、今日は問題なし。
 「ただいま」
と、言いながら部屋に入っていく。薄暗い部屋の天井からぶら下がっている蛍光灯の紐を引っ張ると、白い光が部屋の中に広がった。お膳の上には二つの小皿にカステラが二切れ、ラップが掛けられて置かれていた。その横に置き手紙があった。
「おかえりなさい 冷蔵庫に冷たい紅茶あります」
 ランドセルを置きに二階へ上がり、窓から外を見る。向かいのれいこちゃん家の小さな庭が見える。この辺りはいわゆる“長屋”で、平屋の同じ作りの家が軒を連ねている。どの家も小さな庭と縁側がある。あたしの家はその長屋と道を挟んで反対側にあった。れい子ちゃん家の庭を囲む肌色のトタンの波板がヌラヌラと濡れている。あたしはそののっぺりとした波板を見ながら、爪を立てた時のことを想像して身震いする。縁側のガラス戸は閉められていて擦りガラスには部屋の灯りが映っていた。縁側の端っこが雨で濡れて黒くなっている。
「れいこちゃん、おるんかな?」
と思ったが今日は漫画を読むと決めたので誘いに行くことはしない。あたしは『りぼん』を持って下に降りる。手を洗い、冷蔵庫から紅茶を出してコップに注ぐ。母が作る冷たい紅茶は苦くて甘くて色は濁っている。あたしは牛乳をたっぷり注ぎ、こぼさないようにそおっとお膳の上に運ぶ。あたしはカステラを頬張りながら母が書いた手紙を手に取り、もう一度読む。
 「おかえりなさい 冷蔵庫に冷たい紅茶あります」
パート勤めの母は毎日なにかしらおやつを用意しており、一言書いた手紙が添えられている。誰もいない家のお膳の上にひっそりと並べられたおやつや母の置き手紙を見ると、母がもうこのまま帰ってこないのではないかと思うことがある。手紙の母の字は滑らかで優しい字だ。あたしの中では実際の母と結びつかない。
 あたしは早速『りぼん』のページを開き、心おきなく一人の時間を楽しんでいた。カステラでべとついた指でページを捲りながら二つ目のカステラに手を伸ばした時、玄関で鍵を開ける音がした。姉が帰ってきた。
 「ただいま」
 「おかえり」
姉は鞄を置くと手を洗いながら
 「れい子ちゃん、外におったで」と言った。
 「何、しとった?」
 「知らん。溝んとこに傘さして、座っとったで」
あたしは、見に行こうかなとも思ったけれど、雨が降っているし、面倒くさいのもあったので、そのまま『りぼん』を読んでいた。
 「あんた、それ読んどん?」
と姉がカステラを頬張りながら聞いてきた。
 「うん」
なんでわかりきったことをわざわざ聞いてくるのか。
 「ふ~ん…」
あたしは素知らぬふりをして、『りぼん』を読み続けた。姉はカステラの下の部分についている紙をはがすとキザラのところだけを齧りながら、あたしの方を、いや、『りぼん』を覗き見ている。あたしがページをめくると、
 「あっ!」
と、小さな声をたてた。
 「なにぃ?」
わたしが、聞くと
 「えっ? いや、ちょっと、読んどってん」
と、誤魔化し笑いをしながら言った。あたしは、めくったページを戻す。
 「読んだ?」
 「うん」
また、ページをめくる。
 「読んだ?」
 「いや、まだ!  あんた読むん早いわ!」
 「おねえちゃんが、遅いねん」
姉はどんどん体をこちらに寄せてきて、覗き見るどころか、『りぼん』を自分の方に引き寄せて読み始めた。あたしは一人で心ゆくまで田淵由美子や陸奥A子の世界を味わいたいのだ。邪魔が入った。
「先、読みいな」
 あたしはムッとしながら、『りぼん』を完全に姉に引き渡した。
「なんで?一緒に読んだらええやん」
「いや、後で読む」
あたしは、ムッとしたまま口の中のカステラをアイスティーで流し込んだ。
「れい子ちゃん、外で何しとった?」
「知らん。溝んとこで座っとったで」
姉は『りぼん』から顔を上げずに気のない返事をした。あたしは二階に上がって窓から外を見た。まだ細い雨は降り続けている。トタンの波板の前でれい子ちゃんが傘をさしてしゃがみこんでいた。
「れい子ちゃん!」
二階の窓からあたしが声をかけるとれい子ちゃんは、振り向き、細い目を一層細くしてまぶしそうにこちらを見上げた。
「なにしとん?」
あたしが聞くとれい子ちゃんは
「あっこちゃん…ううん…」と言いながらまた下を向いて何やらゴソゴソしている。あたしは下に降り、外に出た。
 「何しとん?」
わたしは、後ろかられい子ちゃんを覗きこむようにして聞いた。れい子ちゃんは、穴を掘っていた。溝の前に小さな穴を掘っていた。そして、溝には小さな赤い金魚がいた。テラテラ光った金魚のおなかはぷっくりふくれ糞か何かわからない緑色のものが糸くずみたいにちょろりと出ていた。口はうけぐちで小さな黒い目玉が宙を見ていた。
「金魚すくいで獲ったやつ?」
夏休みの終わりに二人で金魚すくいに行った時に獲ったものだ。
「そうやで、死んでもてん」
「それで埋めとん?」
「解剖してん」
「?」
「おなかのとこ、カッターで切ってん。死んでからやで」
と言って、れいこちゃんはえくぼを作った。
よく見ると、おなかのウロコがモロモロしている。
「前、学校で鮒の解剖したやろ?金魚はどんなんかな、思てん。でも、なんか、上手いこと切れへんから、切るのやめてん」
そう話している間もれい子ちゃんは穴を掘り続けた。傘をさしながら掘っているし、スコップに小さな石がカツカツと当たってなかなか深く掘れない。わたしも家からスコップを持ってきて一緒に掘った。しばらく二人は無言で穴を掘った。傘にあたる雨の音と二人の微かな鼻息しか聞こえなかった。生臭い匂いが漂っていた。やっと小ぶりの深い穴が掘れた。れい子ちゃんはスコップの先っちょに金魚をのせるとポトンと穴の中に落とした。黒い小さな目玉がこちらを見ている。上から砂をかけ、最後に足でギュッギュッと土を踏んで固めた。それでもまだ生臭い匂いが漂っていた。あたしは
「ちょっと、待っといて」
と言って、家に戻り仏壇から線香1本とマッチを持ってきた。姉は気づいているのか気づいていないのか、こちらを見ずに『りぼん』を読み続けていた。
金魚のお墓の上に線香を立て
 「れい子ちゃん、マッチ擦って」
と言って、れい子ちゃんにマッチを渡すと、れい子ちゃんはちょっと危なっかしい手つきでマッチを擦った。マッチはシュッと音を立てポッと火を灯した。これまたれい子ちゃんは危なっかしい手つきで
 「あつ! あつ!」
と言いながら線香に火を点けた。あたりに火薬の匂いが立ちこめた。それからあたしたちは傘の柄を首に挟み目を閉じて両手を合わせた。それから顔を上げて、れい子ちゃんは満足そうにえくぼを見せた。
 「ばいばい」
 「ばいばい」
あたしたちはそれぞれの家に帰った。家に帰ると、姉はまだ『りぼん』を読んでいた。あたしは手を洗い、もう一切れカステラを切って、食べながら2階に上がった。窓から金魚のお墓を見た。線香は倒れていた。れいこちゃん家の縁側の擦りガラスからぼんやりとした白い光が浮かんでいた。あたしはカステラをもぐもぐしながら、しばらく白い光を眺めていた。

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