~デンマークとクレセントロール~  ①お好み屋

幼稚園くらいから小学校の2、3年くらい、1970年の初めごろまで我が家はお好み屋をやっていた。正確には「お好み焼屋」だ。でも、誰も「おこのみやきや」なんて言い方はせず「おこのみや」あるいは「おこのみやさん」と言っていた。

母がお好み屋を始めた理由は家計を助けるためか、ただ何か店をやりたかっただけなのかわからないけれど、たぶん、その両方からの理由だったと思う。近くに公立高校があり、そこの生徒か来ることをあてこんでいたこともあるかもしれない。
 母は本人曰く、「貧乏人のお嬢さん」で、高校を卒業してから22歳で結婚するまでは、仕事と言えばどこかの事務員のアルバイトのようなことをやっていたものくらいで、社会経験はほとんどなかった。若い頃の母が事務服にアームカバーをつけた姿で机に座り、八重歯を見せて無邪気に微笑んでいる写真を見たことがある。そんな母が食べ物屋さんをすると言った時に、祖父(母の父親)はお酒を置かないことを条件に許したそうだ。二階建ての家の一階部分の玄関を改装して、鉄板を置き、壁沿いには細長い板を設えてカウンターを作った。鉄板は知り合いの人から使い込んだ年季の入ったものを譲ってもらった。母は「お好みの決め手は鉄板とソース」とよく言っていた。席数は鉄板の周りに7人くらい、カウンターには3、4人くらいのものだった。
 母は、開店する前にどこかの店で修業みたいなことはせず、至るところのお好み屋さんを食べ歩き、リサーチした。美味しいそばを使っている店に行くと、
「このそば、美味しいわぁ。買おうて帰りたいわ。どこに売ってんのぉ?」
といった具合に仕入れ先を聞きだしたり、ソースなどの材料は店に置いてある業者の箱を見てチェックしたり、テコさばきや焼き方の手順なんかも目で見て盗んだらしい。
 メニューはお好み焼きとモダン焼きとそば焼きとうどん焼き。一番安いもので”かまぼこ焼き”50円。飲み物はアップル、ラムネ、ファンタ、チェリオ、コーラー。季節のメニューはかき氷とトコロ天。近所の人が、冷やご飯や卵を持ちこむこともあり、「これで焼き飯作って」「そばと一緒に焼いて」と言われたり、メニュー以外にもリクエストがあれば自由自在に焼いた。
 あたしは、かき氷やトコロ天の注文があると手伝うことがあった。ところ天は木製のトコロ天突きに天草を二つ入れて、ギュッと押すとムニュっと切れたトコロ天が出てきた。ガラスの器に盛り、二杯酢をかけて出来上がり。お好みで練りがらしや味の素をかける人もいた。かき氷は大きな鉄製のかき氷機に氷屋さんで適当にカットしてもらった氷の塊をセットして、ボタンを押すと、ウィーン、ウィーンと機械音を発しながら、シャリシャリと氷が削れて下に置いたガラスの器に落ちていく。氷の削れ具合を見ながら、かき氷がきれいな山形になるように下に置いた器を回していく。氷は意外に速く削れて器にどんどん積っていくのでモタモタしていると、削れた氷が上手く器の中に落ちず外にこぼれたり、山形がきれいな形にならなかったりする。あたしは、いつも上手く出来ずに結局は母にやってもらうことになる。母は器用に器を回して、たちまちにしてふんわりとしたきれいなかき氷の山を作った。シロップはいちご、レモン、メロン、みぞれ、練乳。
 店の終わりには、毎日鉄板を掃除する。熱い鉄板の上に熱湯をかけて、蒸気がシュワーっとなっているところをテコで焦げをこそげ落しながら拭いていく。休みの前の日に粉や具材が残った時は、残り物で大きなお好みを焼いてくれた。それを近所の子たちとテコを片手に、
「あつ!あつ!」と言いながら端から食べていく。食べ終わると、みんなで大きな鉄板を掃除するのも楽しみのひとつだった。

 店は思惑通り、近くの高校の生徒が部活帰りにやって来た。先生も来ることがあって、店は学校公認の店だった。時々、
 「お酒、置いてないの?そしたらええわ」
と言って帰るお客さんもいた。店の壁には「押し売りお断り」と書いた紙を貼っていた。母は
「お酒置いとったら、もっと流行ったと思うけど、おじいちゃんに反対されとったからなぁ」
とよく言っていた。でも、お酒を置いてなかったから、学生が来られる店だったんだろうし、近所の人や友達も来て、放課後の溜まり場みたいで楽しかった。

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