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飛ぶ男

未完の小説をこれまでいくつくらい読んできたのだろう。太宰治の「火の鳥」「グッド・バイ」。それぞれ、太宰治の新しい一面を見ることができたであろう期待が頓挫したままになっている。芥川龍之介の「邪宗門」。人気漫画の打ち切りのように、すごい場面で未完になっている。カフカの「城」。未完であることが完成であるような、カフカの逆説そのものみたいな作品。

安部公房の「飛ぶ男」もまた、死後フロッピーディスクに残されていたのが発見された、未完の作品だ。未完のものを、しかも本人の意図しない形で発表されたものを果たして作品と呼ぶべきなのか。それは難しい問題だ。自分のこととして考えると、もしぼくが死んでしまって、このCPUが弱小のパソコンから作りかけの短歌を発表されたとしたら、そうした未完成品が世に出ることを激しく厭うだろう。寺山修司の『月蝕書簡』を読んだときにそれを思った。『飛ぶ男』を読んだときも、率直に「これは未完成品だ」と思ってしまった。でも、不思議なことにたとえば「邪宗門」のように、あるいは『シャーマンキング』のように打ち切りという感じはしなかった。かといってカフカのように未完成という完成に達しているわけでもない。文字の損なわれ方は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のいくつかのバージョンを彷彿とさせるのだけど、ぼくは小説が「自壊」した、という印象を抱いた。「陰謀の成立」あたりから文章はおかしくなりはじめ、それはおそらく改稿や推敲の痕なのだろうけれど、ちょうど主人公が入眠したあとであること(睡眠導入剤を飲んで文章を書くとこうなりがちである)、あるいは電波云々の話をしていること、なんとなくガロっぽい、というのか全体を貫くバッドテイストなどが、抜け落ち、崩壊していく文章の世界を外側から信用に足るものにしている気がしてくる。ソローキンの小説のようなものが、意図せずに生み出されている。これは確実に安部公房の意図とは異なる質感だろうけれど、そのように読めてしまうのは他ならぬ安部公房の作品だからなのだと思う。フロッピーディスクというオールドデバイスの存在も、そのグリッチ感に一役かっている。

内容に少し触れておくと、解説で福岡伸一が書いている「閉鎖空間で自己完結する王国」に闖入者が、しかも今回は「弟」であるように、無視が倫理的に、あるいは原則的にし難い他者≒家族が侵入してくる、という構造はかなり安部公房っぽい。これはもしかして天皇制に関係しているのか、八紘一宇への抵抗か、などと初期短篇集と併せて思ったりもするのだけど、安部公房をそれほど読んでいるわけでもないので適当なことは言わないようにしておく。政治的な立場は置いておいて、〈個〉の失われていくことへの抵抗が安部公房にはある。アパートの隣人、という他人が侵入してくるのも近代的な建築によって創出された壁もまた〈個〉を担保してくれるものではない、ということを表現しているのかもしれない。

個人的に気になった点。

飛ぶ男が右手の携帯電話を頭上に掲げ、左右に振ってみせた。

単純な疑問として、1993年に携帯電話ってあったのか、という声が頭を過ぎる。1985年にはNTTからショルダーフォン101型が発売される。1987年には更に小型化されたTZ-802型が出るものの、まだ1kg弱の重さがあったようで、これでは「飛ぶ男」との取り合わせは悪い。1989年にはHP−501、1991年にmovaなどの小型機も出てきて、どうやらハンディタイプの携帯電話は存在していたようだ。しかし、1994年まで、携帯電話はレンタル制であった。端末買い切りではなかったので、そこまで普及はしていなかった。レンタルには初期費用として約十五万円、月額二万円弱に追加して通話料などが必要であった。と、いうことは飛ぶ男はなかなか裕福で、かつトレンドに意識的であったことがわかる。

また、保根治が「ほと」という音からほとほと、という副詞と「女陰」という二重のイメージを想起する場面がある。これは、ひょっとしたらよくある連想なのかもしれないけれど、ぼくも自分の歌で同じようなことをしていたからびっくりした。

ほとほとと時間が漏れて流れてはとりもどせるなら光も殴る/上篠翔

この「ほとほと」は「火陰」をイメージしたし、この連作全部がそのようにして作ってある。そんな自分語りはいいのだけど、安部公房もまたそうした言葉遊びを盛り込んだ小説を書いている、ということを嬉しく思う。



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