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「巣鴨の父」の息子

(2024/03/12記)

 書籍の編集をお手伝いをするなかで、たまたま著者の思いがけない過去や一面に気づくことがある。

 それは日頃、あまり他者に見せることのない姿だったりして、意外な発見に胸を打たれたりする。

 先日、成城大学の田嶋信雄先生の新著『ドイツ外交と東アジア 1890~1945』(千倉書房)をお手伝いしている折、ネットで氏の著作歴を検索していると、そこに意外な文字列を見つけた。

 『巣鴨の父 田嶋隆純』は文藝春秋の企画出版から2020年に刊行されており、田嶋先生が編者で、宗教学者の山折哲雄さんが共同監修者に名を連ねている。

品格のある装丁だ

 敗戦後、巣鴨プリズンに収容され、戦犯として裁かれた元軍人たち、とくにBC級で死刑囚となった人々の心の安寧のために教誨師が任命されたことは知っているひとも多いだろう。

 重光葵『巣鴨日記』(文藝春秋新社)や小林弘忠さんの『巣鴨プリズン』(中公新書)に登場する花山信勝の名前には私も覚えがある。

 A級戦犯の教誨師として名高い花山は、彼らの刑死後、間もなく任を離れている。GHQに乞われて大正大学教授・文学部長から転じた田嶋隆純は、その後、8年以上にわたって巣鴨の教誨師を務めた人物であった。

 GHQに憚ることなくBC級戦犯死刑囚の助命嘆願に奔走する活動ぶりから「巣鴨の父」と呼ばれるようになったという。

 そればかりではない。真宗豊山派の僧侶でもある田嶋は、若き日、『チベット旅行記』(中公文庫)で知られる探検家・仏教学者の河口慧海に師事し、留学したパリ大学では「大日経の研究」で文学博士を取得しているではないか。

 2006年に私家版として刊行された、この学者大僧正の評伝を増補改訂したのが『巣鴨の父 田嶋隆純』であり、同書の巻頭に置かれたグラビアを開くと、僧形ながらどことなく田嶋先生と似た雰囲気の温顔が覗いた。

田嶋先生と結構似ている?

 私はすっかり感心してしまった。私は田嶋先生から、ご係累のお話を伺ったことはない。しかし、学究の家に育った子がジャンルは違えど同じく学問の世界に進む話はよく聞く。

 田嶋隆純は昭和32(1957)年に65歳の若さで亡くなっているが、田嶋先生は昭和28(1953)年のお生まれというから、言うなれば「晩年の子」であろう。果たして父上の姿や言葉は、うっすらとでも記憶にとどめていらっしゃるのだろうか……。

 そんな感傷を抱きつつ、私は早速『巣鴨の父 田嶋隆純』を買い求め読み始めた。

 若き日、本山の期待を背負って旅立ったパリでの学問的研鑽は驚きに満ちており、帰国後、師である河口慧海とともに、世評高い『曼荼羅の研究』をめぐり著者の栂尾祥雲に論戦を挑む条はドラマティックである。

 やがて思いがけない招聘を受け、巣鴨での教誨師生活に入る。死刑囚・刑死者たちの遺書・遺稿700編以上を編纂して世に現した『世紀の遺書』の公刊は、本書のクライマックスの一つと言ってよいだろう。

 田嶋隆純が序文の筆を執った同書の発刊は奇しくも昭和28年。あぁ、あの本は田嶋先生と同年の生まれであったか、と胸を衝かれる思いであった。

 そして死刑囚たちの手記、詩歌の紹介に続き、本書は田嶋隆純自身の論稿が集成された後半に向かった。

 田嶋隆純の活動を紹介する文中、たまに昭和15年生まれの長女・澄子さん、昭和18年の生まれの次女・道子さんが登場する箇所はあるのだが、本書の編者に触れる箇所がひとつもないのはやや気になった。

 しかし田嶋先生のお人柄や、お姉さんたちと10年以上歳の離れた「晩年の子」であることまで勘案すればやむをえないこともあるのだろう……。

 そして書籍は最後半、ご長女・澄子さんの手記「父・田嶋隆純の思い出」に差し掛かる。

 すると、なんと言うことだ。ここに初めて、本書の編者「田嶋信雄」に関する記述が現れたのである。

「私は社会人になり(中略)夫信雄とのご縁をいただきました」

 え!? どういうこと? 田嶋先生の奥様が田嶋隆純の娘!? じゃあ、田嶋先生は入り婿ってこと? いやいや、それ以前に10歳以上の年の差婚だよね!

 それまで勝手な思い込みで組み立てていた様々な物語を、一瞬にして突き崩され、激しく混乱する私に、澄子さんからとどめの一撃が加えられた。

「夫の信雄が平成二十二年に他界したため、一緒の参拝は叶いませんでした……」

 旦那さん、亡くなっとるんかーい!(不謹慎でスミマセン)

 激しい突っ込みに崩れ落ちる私。まるで種明かしをするかのように現れた、澄子さんの手記に続く「田嶋隆純年譜」……。

 調べると田嶋隆純は過度の心労から1951年に巣鴨プリズン内で脳梗塞のために倒れており、1953年に田嶋先生を作ることは難しかったようだ。

 なにより、頁を最後までめくると、裏表紙の見返しに、本書の本当の編者である「田嶋信雄」さんのお写真が掲載されているのだった。

どちら様ですか……

 それは同じ温顔ではあるものの、私のよく知る著者・田嶋信雄さんとはいささか方向性の異なる風貌であった。同姓同名の別人ですやん…。

 危なかった。じつに危なかった。もし中途半端に本を読みかじったまま田嶋先生にお目にかかり、「そういえば、お父様は巣鴨の教誨師だったそうで……」などと口走っていたら、恥ずかしさのあまりしばらくは立ち直れなかったであろう。

 早飲み込みは事故の元である。くわばらくわばら。

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