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6月8日のお話

1876年6月8日。英国。

ダイアンはいつになく興奮した様子で、テムズ川を行きかう船を眺めていました。いつか、いつかあの川を下り大きな海の船に乗って「ヒイズルクニ」の日本に行きたい。アメリカ大陸よりも西、インドよりも東にあるという日本に行って、本物の「着物」という芸術を持ち帰るのだと考えていました。

ダイアンが育った家庭は、社交界に出入りする父と美しいものを愛する美しい母と勉学を志す兄との4人家族でした。父の跡を継ぐべく厳しく育てられた兄と違い、母の寵愛を受け、母が収集する様々な美術品・絵画に慣れ親しんで育ちました。そういう彼が、流行りもののジャポニズムに興味を持ったのは当然の流れだったのかもしれません。極めつけは、ひと月前、人気作家クロード・モネの描いたラ・ジャポネーズを見たことでした。学問に忙しい兄に代わり、父に随行したパリの画廊で、その真っ赤な持ったりとした布に怪物のような顔が描かれた衣服をまとう女性が妙に恐ろしいようで目を離せなくなったのです。

息を止めて、しばらくその絵と対峙していると、ダイアンはその恐ろしいような気持ちがどうやら美しさに感動する畏れなのだということに気が付きました。そうなると、もう心はすっかりジャポネーズに囚われてしまい、父親が用事を済ませて帰るというまで、彼はじっと絵の前で立ち尽くしてしまいました。

それからロンドンに戻ったダイアンは、しばらくジャポニズム、日本のことを調べあさり、遠いその国への熱がピークに達する頃に「そういえば兄の学友に、日本から来た人物がいた」という話を思い出したのです。ダイアンは、忙しいからと渋る兄にせがみ、その学友である日本人「ジョージ・サライ」と面会を果たしました。それが、ついさきほどのことだったのです。

ジョージは日本の中でも、京都という古い都に次ぐ、ミヤビの文化をもつカナザワから来たと言い、ダイアンの日本文化への熱を、最初は目を丸くし、そして次第に穏やかな微笑みをもって最後まで静かに耳を傾けてくれました。ダイアンは話しながら、「日本人というのは、どうも不思議な空気をまとっている」という感覚になりました。あの妖しい赤を生み出す情熱がありながら、目の前にいる男は、優しい馬のような瞳をまっすぐに向けて、じっとダイアンのことを見つめているのです。

たまに、「それは隣の大陸の文化で、日本のそれとはちがいますね」などとダイアンの知識を修正しつつも、ダイアンの熱は全く否定せず、かといって一緒になって思いを語ることもありませんでした。もしかしたら、この人は自分の兄の様に学問だけにしか情熱を傾けらないのかもしれない…。ダイアンはいよいよ不安になってきました。しかしそれにしては、一時たりとも彼の瞳がダイアンから逸らされることはありません。

会ったとたんからハイテンションだったダイアンも、さすがに居心地がわるくなり、「ごめんなさい、ジョージ。気を悪くしましたか。」と消え入りそうな声で恐縮しました。

ジョージの後ろであきれ返ったように弟を見下ろす兄が、大きくため息をつきました。だから嫌だったんだ、と聞こえてきたようで、ダイアンはすっかりうなだれてしまいました。

そんな様子を見ていたジョージは、くすりと息を漏らすように笑うと、まぁそう下を向かないで。とダイアンと目線を合わせるように屈みこみ、そっと彼の手を取りました。

ジョージの下からの視線にすくい上げられるようにダイアンが顔を上げると、ジョージは先ほどより少し強めの声色で、ダイアンに語り掛けました。

「私の国の文化に多大な興味と愛情を示してくれて感謝します。私はダイアンに勇気づけられました。異国の地で、自分の故国のことを褒められるほど、うれしいことはありません。だから顔をあげてください。」

10歳ほども年下の自分に、丁寧に丁寧に言葉を紡がれて、ダイアンは妙に気恥しくなってまた目をそらしたい衝動に駆られました。しかし、不思議なことにどうしてもジョージの優しい瞳から目をそらすことが出来ません。まるで、あのモネの絵を見た時の様にすっかりダイアンは動けなくなってしまいました。

ダイアンの瞳をとらえたまま、ジョージは優しい瞳を少し鋭く光らせて続けます。

「私があなたの国の言葉を学んだ学校は、このような隣国の故事の言葉から名前がつけられました。”寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし”。つまり、身が安らかに治まっていなければ、高く遠い目的を達成することは叶わない。という意味です。」

ゆっくりと伝えられるジョージの言葉に、ダイアンは見たこともないはずのカナザワの学び舎が目の前に広がるような気がしました。優しい瞳のジョージが、自分と同じくらいの年齢の少年姿になり、懸命に、異国語を学んでいる姿がその風景に重なります。

熱い思いを持つことは大変結構なことです。しかしそれに思考を奪われてはいけません。身を焼かれてもいけません。成したいことがあるならば、まずは身と心を安らかに保つ力が必要です。

と、ふいにここで、ジョージが言葉を切りました。そして、屈んでいた腰をすっと伸ばし立ち上がると、口元を大きくにやりと歪めてダイアンを見下ろしました。見下ろすといっても、小柄なジョージとダイアンの身長差はほとんどありません。しかしこの時ダイアンは、ジョージがその身丈よりも随分と大きく見えたような気がして、思わず大きくのけぞってしまいました。

ジョージは楽しそうに続けます。

「でもね、その学び舎で出会った私の恩師はこうも言っていたんだ。」

身を安らかに治めるだけでも、遠きをいたすことはなし。それだけでは目標に到達することなんてできないよ。高い目標を叶えたいなら、太陽から目を背けずに王道を歩く覚悟が必要なんだ。太陽の方向を向いていたら、自分を脅かす影は必ず自分の後ろにさがる。太陽が真上に来た時にはそいつを踏みつけることができる。しかしひとたび太陽から目をそむけてしまうと、そこには長く伸びた暗い影、足元をすくおうとする漆黒の穴が君の勇気を挫きにくるだろう。

ダイアンは、人が変わったように口調を替えたジョージの向こう側に、彼が敬愛した恩師という人物の残像が見えたような気がしました。そして、彼らから自分に、言葉をかけてもらったような感覚を味わい、身体が武者震いするのを感じたのです。

それから、どうやってジョージと別れたのか、そのあたりはよく覚えていません。頭の中が、刺激と、感激とでいっぱいになり、その熱をどうにか覚まそうと歩き続けてテムズ川のほとりまできてしまったのです。

時間はすっかり夕刻になり、ぼんやりと川から顔をあげたダイアンの視線の先に、ちょうど、大きな夕陽が飛び込んできました。反射的に彼は瞳をとじかけましたが、その瞬間、

太陽から目を背けずに。

脳裏にジョージの言葉がよみがえりました。ダイアンは、まぶしいのをがまんして、ぐっとまぶたに力を入れて太陽を睨みつけます。すると、光が過度に瞳にあふれ、テムズ川の水面の反射が、視界一面に広がるような錯覚に陥りました。

それはまるで、大海原に沈む夕日が自分のために光る道を用意してくれたような光景でした。

ジョージ・サライと出会ったこの日。ダイアンは太陽の美しさを知ったと、のちの手記の中で記していました。


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