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第2章 古代の戦争から読み解く 第7節 ガイアス・ユリウス・カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石

第1章 ジオポリテイ―ク序説

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争―中原争奪の地政学
第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学
第5節 アレクサンドロスⅢの東征―アリストテレスが教授した覇権の握り方
第6節 中国の統一―始皇帝が示した統一のガヴァナンス
第7節 ガイアス・ユリウス・カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石

第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

第7節 ガイアス・ユリウス・カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石

 ローマは、イタリア半島中央部のトスカーナ(「エトルリア人の土地」の意)の南に隣接するラテン人が住む都市国家ラティウムに始まる。紀元前4世紀以降、ローマはエトルリアに替わって周辺都市国家を併合、吸収し王政を布いて地中海に勢力を拡大しつつ共和政古代ローマの時代に移っていく。

 この時代、現在のフランスはガリアと呼ばれ、イタリアの北部から現在のフランス・ベルギー・スイス、およびオランダ・ドイツの一部に至る地域を言った。そのルーツは、オーストリア・ザルツブルグ近郊、ザルツカンマグート地方に先住し、ブリタンニア(イギリス)、エーゲ海・黒海沿岸などへと四周に移動して行ったケルト民族であった。ケルトは鉄器を使用するハルシュタット文化を生み、ガリアと名を変え南下し、エトルリアやラティウム(ローマ)にとって北から侵攻して来る脅威であった。

 ガイアス・ユリウス・カエサル(BC100-BC44・以下「カエサル」と言う)は、ガリアの総督としてガリアにおける地政学的および ” Geopolitik” な行動によってガリア全体をローマの属州化し、「古代ローマ帝国と今日のヨーロッパのかたち」に導く地ならしを行ったと言えよう。

1 カエサルの素性と立ち位置―ローマにおける政権の主導に至るまで―

 カエサルは、今日で言う「国会議員・閣僚など」を選挙で選出する古代ローマの共和政において政務官に推された。政務官は独裁に陥らないよう複数人が選出され、政務・法務・軍事・財務・造営・市民保護等に係る重要事項決定、執行など、重要閣僚としての義務と責任を負っていた。任期は1年であったが、非常事態対応時には任期を6ヶ月に制限して1人に全権を預ける「独裁(ディクタトル)」体制を採った。政務官は任期を終了すると元老院議員の資格を得る、或いは属州の統治や軍事をあずかる総督の任を担った。

 カエサルがこの地位に就くには、優れた能力と後押しする閥、そして人気があることが条件であった。そうでなければ余程の悪知恵と才覚が無ければ選任されない。才能に恵まれ人気もあったカエサルに不足していたのは血統書である。

 政務官ガイウス・マリウス(BC157-BC86)の妻はカエサルの叔母、父親の妹に当たる。マリウスは、ポエニ戦争でローマに味方したアフリカ北部領邦ユグルタの王位継承戦争(BC111-BC105)に加担して勝利、同様にポエニ戦争でローマに協力した現在のオーストリア・スロベニア地方のタウリスク人に対する他部族キンブリ人の攻撃(キンブリ・テウトニ戦争BC113-BC101)を撃破するなどに功績を挙げた。またマリウスは、市民兵制から職業軍人制への切り替え、兵士に対する武器の支給、軍事訓練の強化、軍隊の戦闘序列などの「軍制改革」を行ってローマ軍の勝利に貢献したことで知名度が高かった。

 しかし、後に政務官となるルキウス・コルネリウス・スッラ(BC138-BC78)も、この二つの戦争に参戦し手柄を挙げていた。紀元前88年、黒海南沿岸の都市国家ポントス・ミトリダテスとローマの戦争でマリウスとスッラが指揮権をめぐって対立、スッラ派が粛清されるが、紀元前86年、マリウスの死でスッラが復活した。

 カエサルにとって伯父マリウスの死は、後ろ盾を失ったことを意味した。しかもスッラは、ミトリダテス戦争に勝利してローマに帰還し「法制秩序再生独裁官」の座に登りつめた(BC82)。

 カエサルは父親の死(BC84)後、如何なる時もローマを不在にできない「ローマ神話主神ユピテルに仕える神官」に選ばれるが、神官職を巡るスッラの干渉を受け神職を辞退した。スッラは民衆派の有力者カエサルを粛清の対象とした。しかしカエサル・シンパの助命嘆願でカエサルは死を免れる。その時、スッラは「いいだろう。許そう。だが忘れるな。いつかあの若者が我々貴族を滅ぼすぞ。彼の中には多くのマリウスがいるのだ」と語ったと伝えられている。

 紀元前80年、そのスッラが独裁官を自ら辞任、これをカエサルは「自分から独裁官を辞めるようなおめでたい奴をスッラと呼ぶのさ」と評したという。

 紀元前78年にスッラが死去、カエサルはローマで活動できるようになった。紀元前71年、カエサルは軍団司令官に就任しエリートとしての道を歩み始める。同時期に、後の三頭政治に携わるライバルたち、グナエウス・ポンペイウス(BC106-BC48)はヒスパニア(スペイン)での戦争で、マルクス・リキニウス・クラッスス(BC115頃-BC53) はスパルタクスの反乱(奴隷戦争)に参戦し勝利、これにより二人とも紀元前70年、政務官に選任された。

 この時点でカエサルは、「高位高官世界における権力争奪」のリーグ戦に勝ち残ったひとりであった。ローマにおける最高位権力の座決定のトーナメント戦は、元老院に対抗する勢力として自然発生的に生まれていた3人組、カエサル、ポンペイウス、クラッススで争われることになった。元老院が一目置いたこの3人組のローマ共和政牽引の非公式な「寡頭政治体制」は「三頭政治」と呼ばれる。民衆派として民衆の支持を得ているカエサル、元軍団総司令官として軍事的背景に優るポンペイウス、経済力が豊かなクラッススの3者が元老院の強力な政治力に対抗したのである。これはヒトの世界において「適者生存、弱肉強食」の社会ダーウィニズムが発生する地政学的行動と言える現象でもあった。

2 ガリア遠征―ガリアにおける地政学的攻略とローマの最高権力者決定まで―

(1) ガリア遠征

 紀元前58年、カエサルはガリアにおけるローマ属州総督に就任、ガリアに入った。服従しないガリア人とは「ガリア戦争」で勝利すると、パトロンとクライアントの関係を結ぶ属州化を進めた。多数の部族はカエサルの要求や行動に拒否、抵抗したが、中には自らカエサル傘下に入りローマ軍の力で仇敵を討つ選択をしたガリアの部族もいた。

 カエサルが遠征したガリアには、多くがケルトから派生したガリア地方の諸部族、現在のフランス南部(ブールジュ・ボルドー・ポワティエなど)のアクィタニア人23部族、現在のフランス北部(アミアン・トゥール・ル=マン・オルレアン・ナント・パリ・ベルギー・スイス・ドイツの一部など)のベルガエ人22部族、その他の地域のケルタエ人26部族、合計71部族が居た。カエサルは、さらにブリタンニア・ケルト系ブリトン人部族を掌握、地域の属州化を強化していった。

 これらの部族、地域がローマ化されローマ帝国の一角を形成し、また現在のヨーロッパに発展して行くことになる。

 またガリア遠征中、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと会談、紀元前55年、ポンペイウスとクラッススの執政官選出、カエサルのガリア総督の任期5年延長を決定させた。

 この三頭会談が行われた年、カエサルは、ガリアと隣接するライン川東部、ドナウ川北部、現在のドイツ・オランダ・ポーランド・チェコ・スロバキア・デンマークにあたるゲルマニアに侵攻してゲルマニア人のガリア進出企図を粉砕、「ライン川防衛線」の礎を造った。
ゲルマニアの属州化は、ライン川西側の上流を高地ゲルマニア属州、下流を低地ゲルマニア属州としたが、ライン川東部のローマ化は成功していない。

 ガリア遠征中、紀元前54年、ポンペイウスの妻でカエサルの娘ユリアが死去、カエサルとポンペイウスの紐帯が切れた。紀元前53年には、西アジアの現イラン・トルクメニスタン・パキスタン西部・アフガニスタン西部に勢力を誇るパルテイア王朝攻略に東征中のクラッススが戦死、三頭体制が崩壊している。

 カエサルのガリア遠征中最大の激戦は、紀元前52年、現在のフランス中南部中央高地(1095年、この地方に所在するクレルモン=現在のクレルモン=フェラン市で行われたカトリック公会議でウルバヌスⅡ教皇が十字軍のエルサレム派遣を決したことで名が残る)に棲むアルウェルニ族族長ウェルキンゲトリクスとの戦いであった。ほとんどのガリア諸族が対カエサル連合軍に参加して敵対、しかしカエサルは現在のフランス東部、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域(セーヌ川源泉が在る)地方における「アレシアの戦い」で連合軍を降(くだ)しガリア全域をローマ属州化した。

 ガリア遠征に従軍した将兵は補充せず戦い抜き、犠牲者が出たことによって部隊編成が困難となることもあったが、苦楽を共にした長期にわたる遠征によって結束を高め一層精強な部隊に成長していた。それは、元老院やポンペイウスの警戒する処となり、ルビコン川からローマ方面へガリア遠征軍を進めてはならないという「禁足」につながった。

 しかしカエサルの部下将兵の結束とカエサルに対する信頼は、「ルビコン川を渡る『賽は投げられた』に投影」され、カエサルに対する恐怖心と、敵対感情を抱く元老院メンバーとポンペイウスは武力でカエサルのローマ凱旋を阻止しようとして対峙、「内戦」が勃発した。精鋭部隊の前に元老院・ポンペイウス側は敵せずローマを脱出する。

 カエサルは、ポンペイウス一派の残党狩りのため自ら軍を率いて追撃するが、紀元前48年エジプトでプトレマイオスXIIIの手によってポンペイウスが暗殺され、他のローマを逃げ出した元老院派も敗戦して消滅した。これによりローマ内戦は終戦する。
ポンペイウスがオリエントにおいてローマ属州化を進めた残滓として、カエサルに歯向かう勢力が居た。その一つは、カエサルが小アジアのポントス王を黒海南岸ゼラにおいて破った戦いである。カエサルは、ローマに居る腹心にこの戦いの勝利を「来た、見た、勝った “Veni, Vidi, Vici”」と伝えている。

 内戦を収め、ポンペイウスの残党掃討に勝利し、エジプトなど属州の安定的な統治体制を構築したカエサルは、ローマにおいて終身独裁官となった。

(2) 戦後処理―終身独裁官就任―

 カエサルはパワー・ポリテイックスを行使、ローマの共和政を支配、権限の一元的中央集権化によって独裁的体制へと改革した。そのための初度の行動はカエサル自身の「独裁官」就任であり、従来の半年制を終身制とした。ローマの共和政は追認機能しか持たなくなって行った。

 この改革は、帝政ローマの布石として後継者ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス=アウグストゥスに引き継がれていく。

3 カエサルの事業―”Geopolitik” 思考―

 カエサルの ”Geopolitik” は暗殺によって消えた。「終身独裁官」は ”Geopolitik” の始点でしかない。共和政から帝政への移行は諸制度の改革を筆頭にインフラ整備に至るまで「壮大な帝国経営」のノウハウに満ちていたはずだ。書くことが好きなカエサルであったが遺されていない。しかしそれは「ローマ化」の残滓がヨーロッパ世界に数多く存在することでわかる。

 ここにカエサル存命中の断片的政策・事業の状況証拠を抽出してみる。

・属州の都市整備/市民権付与の促進でローマ化を徹底
・元老院議員議席数の増加、別けてもローマ化の牽引者となる属州出身議員増加
・金銀換算率固定化/国立造幣所開設/利息の上限設定でマーケットを拡大
・地方議会の被選挙権拡大/解放奴隷の公職解放によって不満を吸収
・属州再編成/属州議会認知/税制公平化(公営徴税機関設置)による求心力強化
・階級(貴族・騎士・平民など)制の基本を資産制へ変革し参政意欲を高揚
・失業者と退役兵の植民先を属州に拡大分散し戦争の疲弊を救済
・教師と医師にローマ市民権付与し職業に権威を付与
・ローマの城壁撤去による国境防衛線への転換を図り、防衛思想の縦深性転換
・干拓/道路整備の拡大と延長は国力の強化、個人収入の増加に寄与
・ローマ暦(太陰暦)からユリウス暦(太陽暦)への転換で暦を共有
・軍制の改善=国家管理の充実で長期戦役による国民の疲弊を国が救済

 また、カエサル著『ガリア戦記』に描かれたガリア遠征の戦略的思考は、アメリカの政治学者・地政学学者のニコラス・スパイクマン(1893-1943)がアメリカの対ユーラシア大陸地政戦略「リムランド理論」(本稿第10章「戦争の世紀」で詳述)に主張している「地政学的発想」と類似(覇権国の ”Geopolitik” =ローマ帝国建設の ”Geopolitik”)しているのでここにそのいくつかを列挙しておく。

① ガリア有力部族とのBi-lateral allied relation(二国間同盟)の形成
② 強力な山岳部族に対する勝利とContainment(封じ込め)によるコントロール
③ 要衝に駐留、情報収集と監視を強化して対ローマ連合出現を阻止
④ 部族の戦車の機動力、鉄器製武器を採用、相手に勝る改良(RMA)で優位に立つ
⑤ 属州の優れた人材をローマで教育訓練後に現地リーダーに配置しローマ化を推進
⑥ 河川地帯部族を抱き込み、河川の利用価値とコントロールを強化向上
⑦ ガリアの統一を阻止できるクライアント国家との協力で反発勢力を制御