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第2章 古代の戦争から読み解く 第6節 中国の統一―始皇帝が示した統一のガヴァナンス

第1章 ジオポリテイ―ク序説

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争―中原争奪の地政学
第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学
第5節 アレクサンドロスⅢの東征―アリストテレスが教授した覇権の握り方
第6節 中国の統一―始皇帝が示した統一のガヴァナンス
第7節 カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石

第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 中国春秋戦国時代の覇者の行動は、秦の封建領主「政」と中国を統一に導いた「始皇帝」の二つの人格に分けて考えられる。

 前者は、「地政学」的に戦国七雄が中原の覇権掌握を目標に戦いを繰り返し、呉越同舟の合従連衡と遠交近攻を重ね、今日的には武力衝突と外交、懐柔篭絡などハイブリッドな政戦略を交えて競い、最後にただ一人他の六雄を打倒し「覇者の座」に就いた「秦王政」である。

 そして後者は、「統一国家中国」の建設を ”Geopolitik” に進めた「始皇帝」である。

 覇権掌握の説明には「秦の第31代王の政は中国戦国時代の6国を破って紀元前221年に中国統一を果たした」、「戦国時代の動乱を制し初めて中国の統一を果たした秦の始皇帝」が多い。
 しかし、真の中国統一は、勝ち抜き戦の最終勝者となって中原を布武した時点であって、単に最後の敵を打倒したからと言ってそれが統一ではない。統一とは、終戦処理が行われ、一つの権威の下に支配者の秩序が徹底されなければならないはずだ。

 始皇帝にとっては、当面の敵をすべて倒したがその全てに勝者の意思を強制できる体制が整っていないから「統治体制の急速整備」を行う必要があり、そのためにも「統治者は始皇帝を名乗る自分以外にはいないのだ」と宣言することが事の始めであった。
 次は、国家を形成しこれを統治するためには、「国家の体裁を整えなければ統一とは言えない」という国家統一基本構想を明らかにすることであった。これには、様々な分野にわたり統一事項を国中隈なく徹底共有する政治を進めなければならなかった。これが ”Geopolitik” である。

 中国の統一には、敗戦した相手全てに勝者の意思を強制しなければならないし、強制できなければならない。それは、隷属させた領邦全てが、覇者が行う「統治=治世」の事業を受け入れるということでもある。。
 従って、「紀元前221年に戦国時代に終止符を打った」秦王政は、「強力な中央集権国家の建設」を目指し、「統一行政」を進める最高位の立場を示す新しい称号「秦始皇帝」の宣言とともに、覇を唱えた国土、領域に威令が隈なく行きわたるように広範な ”Geopolitik” 政策の推進にとりかかったのである。

1 覇権の地政学―群雄割拠のリーグ戦から戦国七雄への収斂―

 『史記』には、「中国創世記」の三皇五帝から始まった皇帝の世襲・禅譲が「徳の有る者」に限られることを強調しているが、逆に徳の無い者が皇帝に就いた場合があることも示唆している。司馬遷は、「夏」以降の世襲・禅譲が必ずしも有徳者に限らず行われたことを、「有徳の外れは、権謀術数、あるいは武力で皇帝位に就く『革命・簒奪』を多くして『乱世』を生む」と示唆している。

 「三皇五帝」が神話化し、夏・殷が実在した状況証拠が出たものの、中国は統一されていない。夏、殷、周の宗主権は、地方分権の、同時代の地中海ギリシア・アテネのデロス同盟における盟主の立場にも似ている。従って、宗主国(パトロン)の国力や権威が衰えるとその権威に依存していたクライアント国は離反していく。
 抜きん出た力を発揮して他を吸収合併していく傾向は歴史上必至であった。適者生存や弱肉強食の現象である。『史記』において夏王朝は暴君桀王、殷王朝は暴君紂王が現れて革命が起き次代に移行したとある。殷の次代が周である。

 周は宗主国として地方分権領邦領主を「侯(侯爵)」として認証する権威を持っていた。『史記』が示す周王朝の影響下にあった主要諸侯「魯・斉・晋・楚・宋・衛・陳・蔡・曹・燕」とならび、「秦」は甘粛省西部を領有して、西周代において小領主の「大夫」、東周代に「侯爵」格上げされた。そのきっかけは、周王朝の危機に際して直接に援護したこと、秦に接する領域外の蛮族犬戎(西戎)の脅威を排除した功が著しかったことであった。
 周は、王位継承の戦争に勝利した平王(即位BC770)が都城鎬京(長安・現在の西安)を、紀元前771年に洛邑に東遷した。東遷以前を西周、東遷後が東周である。東周が始まり「晋」が「韓・魏・趙」(三晋とも)の三国に分裂(BC453)、周王朝から諸侯とされる(BC403)までの時代を、周の時代に著された儒家経典の東周前半の歴史書『春秋』の名をとり「春秋時代」、以降の時代を「戦国時代」と言う。

 周が衰弱すると、数多くの侯や大夫が覇を競う戦国時代を形成した。しかし弱小の領邦は大国に吸収され、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七つの領邦国家に収斂して中原の覇を争う時代を迎えた。周の権威を利用し、周王を推戴して天下布武の座に就く侯もあったが、春秋時代を経、戦国時代に入ると勝者が「帝」を名乗る時代精神へと変化し、中原を制すれば覇者として認知される時代を迎えていた。

2 中国の地政学的収斂(しゅうれん)

 秦王政は、覇者への地政学的行動に拍車をかけ先頭を走った。秦は、中原を東西・南北にそれぞれ1,000km余、対峙する六雄相手に戦略的遠征を重ねた。

 秦を中心に六雄は東寄り南北に存在した。西側は外夷・蛮族の世界であったが、秦は西戎を制していた。東の隣国が「魏」、「趙」、「韓」、「楚」、東北方の渤海北部には「燕」、その南に「斉」が渤海西岸に位置していた。

 秦の台頭が目覚ましくなるのは、紀元前249年、秦王朝において首相相当職の「相国(邦)」の地位を得た重臣呂不韋の周攻略からである。秦は、趙(BC236-BC228)、韓(BC230)、楚(BC225-BC222)、魏(BC225)、燕(BC222)、斉(BC221)の順で15年間を要して攻略を完成させた。

 秦が覇者に至った戦い方にひとつの憶測を付しておく。紀元前236年から紀元前221年の15年間の軍事行動は全て外征であった。敵地では、様々な情報をもとに作成した地図が使用されたはずだ。外征地では、敵国の不意急襲を警戒し友軍の無駄な損耗を回避しなければならなかった。地勢に恵まれなければ地形地物が敵の戦闘を有利に導いてしまう。軍団の規模に応じた兵糧の獲得、給養の地を確保するには先行性が求められた。何よりも戦場、敵情の掌握は勝利の鍵となった。

 このように外征では、「外征地の情況全てが敵軍団に有利に働く」という前提を克服して、外征軍団が有利に行動するための情報収集とその分析、活用が必須であった。そして、決戦時において勝利するには、外征軍が最高度に戦闘力を集中発揮できる将兵のコンディショニングを整えなければならなかった。それは情報活動の成否にかかっていた。重要情報の適時的確な提供を可能にする情報ネットワークを維持できなければ外征軍は常に不利な条件下の戦闘を強いられ、戦闘士気も低下する。

 情報収集には間諜の派遣、買収、敵方間諜の捕捉など様々だが、利用されたのが、独自の軍事能力に組み込まれた情報機能に加え、戦国時代の戦場を生業の場とする縦横家である。縦横家は本来、思想と弁舌で諸侯に自身を売り込む策士のことを言うのだが、戦国時代の諸領邦を巡って知り得た情報、知見を売り込むことも生業であった。

3 中国統一の “Geopolitik”

・人材登用
 秦の国家運営は、秦以外の外国人に負うところが多かった。外国人雇用に対する身内の反対が「逐客令」の提案になって表れたが、「逐客令」は実績優先で廃案とされ、行政改革などに貢献する有能外国人の任用を法体系の下、実力を尊重し継続した。

・皇帝名の布告
 提案を受け秦王政自ら「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議(始皇本紀第六)」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」と決定した。

・五徳終始
 始皇帝はまた戦国時代に成立した古代中国に生まれた自然哲学思想で、「万物は火・水・木・金・土の5種の 元素 から成っている」という五行思想と王朝交代を関連付け、周王朝は徳を「赤い火」で象徴し繫栄、継承する秦王朝は相克し「火を消す黒(水)」とされ、儀礼用衣服や皇帝の旗に黒色が採用された。

 始皇帝は、まずその名乗りと旗振りから始め、人材登用によって次の「中国統一の諸事
業」を開始した。

(1) 地方分権体制から中央集権体制への変革

 始皇帝が行った「中国統一の大改革」の第一は、周前王朝が行っていた「一族や功臣、有力氏族の長を世襲の諸侯とし、封土を与えて統治を任せる支配制度で支配階級が血縁関係を基にした氏族制による封建制地方分権体制」を中央集権体制とすることであった。

 このため、領邦の独立した分権を取り上げ、中央集権の下に、36「郡」(後に48)を設置、その下に「県」、その下位に「郷」、「里」と段階的に小さな行政単位を設置した。しかも、配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制の慣習から「中国統一の対象となる郡県」に、中央政権が任命・派遣した官僚が治める郡県制地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったのである。

 これによって統治の仕組みも変革した。中央政府(朝廷)では行政・軍事の別に官僚制度が布かれ、官僚を取り締まる監察制に「御史大夫」を配置、地方には中央から派遣された皇帝直属官僚が行政を仕切る郡県制が促された。
 この制度は、始皇帝の「中国統一統治」徹底の基盤となり、直接統治による強力な中央集権体制の確立を進めることになった。加えて、この中央集権が力となって、次代の漢王朝が長期政権を築くことができただけではなく、秦王朝以降2000年にわたりこの制度が継承された。

 他方で問題が無かったわけではない。農民は地方自治の強力なピラミッド構成により今日的に言えば、国税・地方税の二重負担を強いられ、重税に苦しむことになった。また、旧支配層諸侯にとっては、制度の規定により勝手な税収を妨げられ減収を招き不満、反発を生むことになった。

(2) 文字

 漢字書体の標準化、統一が行われたことは、文書の共有、別けても中央集権体制のカギである中央と地方の意思疎通を文書通信で行うネットワークの発展を促した。他方で地域によって異なる書体が廃止されることにもなった。標準の書体は、皇帝が使用する「篆書(小篆)」文字で、臣下が用いる文字は「隷書(『篆書』 の簡略文字)」であった。

(3) 経済発展のための共通化・標準化

・度量衡
 度量衡の統一は、長さ・重さ・容積の基準(標準器)が地方に徹底された。当然度量衡の標準化は経済、産業、文明度を高揚、活性化させた。これら標準器には篆書による詔書(権量銘―国定を示す証明)「廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之」 が刻まれていた。

・通貨
 半両銭は、紀元前336年に秦が国の鋳造する貨幣を正式化したことを起源とする。秦は統一中国建設のため、半両銭(度量衡単位の1両の2分の1の重量)の使用を強制し、領邦諸国ごとの通貨を廃止、統一した。

・荷車の軸幅
 道路幅を一定にして車の幅、車軌(しゃき=車軸の長さ)を規制した。この改革は、土木事業推進のための資材や道具を開発増産する事業にも影響したはずである。加えて、この基準化は、軍事力整備上、戦車や輸送車両の仕様の基準化を促し、それ自体が大量生産を生む効果をもたらしている。

・位取り記数法
 数値の「位」、例えば10進法では、1・10・100・1000・・・・、或いは「桁」・例えば一桁・二桁・三桁・・・の数え方の基準設定を示している。

(4) インフラ整備―交通網・防衛目的の要衝建設―

・道路
 道路の拡幅、舗装、延長は経済の活性、中国の国家意識高揚、そして何にも増して軍事行動を基準とした抗堪性と高速性を備えた道路建設は国家統一事業の中でも優先度が高かった。
当然、道路交通網の整備には、ナポレオンが軍事行動の利を優先して右側通行をルール化したように「道路交通法整備」も行われた。

・運河
 中国の文明は中原に加え、黄河・長江流域の役割も大きかった。人の移動、物資の輸送に大きな役割を果たしていたからである。広大な領域に威令を徹底させる、物流を活性させる、何にも増して大河は、軍事力の展開に大量輸送を可能とし、他方、大河自体が防衛線として機能する。
 このため、始皇帝は、軍事輸送のため中国の南北を結ぶ動脈として大運河建設に着手し、中国の南北を接続した。長江右岸の支流湘江(湖南省最大の川)と珠江(現在の香港とマカオの間を流れ南シナ海へ注ぐ)が合流する漓江(現在チワン族自治区桂林市を流れる)を結んでいる。この中国主要河川を結ぶ運河は、秦の南西進出の要衝となった。

・万里の長城
 戦国七雄の頂点に立った始皇帝だったが、北方、北西には遊牧民の匈奴、東胡、月氏らが中国への侵入を狙っていた。このため始皇帝は、北の脅威に対して防衛任務に長じていた蒙恬(蒙恬)を継続して当たらせるとともに、過去400年にわたって領邦国家が山の尾根、河川、崖などに築いて来た防衛城壁を接続し、長大な連続する城壁(万里の長城に発展)を建設した。

(5) 焚書坑儒
 顕現するしないに関わらず、強力に推進する国家事業に反発、抵抗する者はいつの時代にも存在する。
 特に、初めて中国統一事業を完整させようとする時代にあっては、改革事業がほぼすべての過去を破壊して新たな社会を建設するわけだから、これまでの安定が失われる人々も多い。緩やかな革命の場合を除き、急激な変革には人の生命財産が犠牲になる。その犠牲を何処まで局限できるかによって後世の評価も決まる。

 始皇帝の中国統一事業は戦乱期を抜け出した直後であって、戦乱の世に回帰することが無い「法」を重んじた統治の推進が時代精神であった。そのため、戦国時代に理想を説いて巡った諸子百家の一派で『韓非子』など法治主義を説く「法家」が重用された。
 他方で、事業に批判的な中国古来の「有徳者が皇帝の座に就く」ことを理想とする諸子百家の儒家が著した書物の規制が行われ、国が管理する書物を除き没収、「焚書」が盛んに行われた。
 加えて始皇帝に逆らう、騙す、裏切る、反抗する学者や口先で取り入る方士たちが生き埋めの刑に処された「坑儒」も盛んに行われた

(6) 天下巡遊

 始皇帝は戦国七雄の頂点に立った翌年、紀元前220年から「天下巡遊」を開始した。古来、慣習としての先祖への報告、次は故事に倣う儀礼的巡幸である。歴史上、中国にとって初めての「中国統一事業」が始まっているこの時期、始皇帝の「視察」には多くの意味合いがあったはずだ。
 実体は、統一事業進捗の確認、事業の欠落を見出す、事業推進の障害を見つける、さらに中央集権制度の徹底具合を直(じか)に知る、制度に係る率直な改善意見に耳を傾ける、統一事業推進をエンカレッジすることであったと思料する。

4 “Geopolitik”の成果

 残念ながら、始皇帝は悪評芬々(ふんぷん)たる「神仙への傾倒―不老長寿へのあこがれ―」の亡者の悪評を受け歴史にその名を残した。
 しかし、始皇帝は、中国統一のスタートである戦国七雄トーナメント戦の地政学的勝者となり、真の「初めての中国統一」を成し遂げるための事業を推進した。

 「統一事業」として目的に適った成果が挙げられたかの評価は少ない。評価は専ら人物評である。『史記』を描いた司馬遷の記述が人物に傾いているから仕方がないのだが、「トーナメント勝者の名乗りを上げた」時点では「中国を統一した」ことになっていないという持論からすれば、事業の成果を統一という文脈で評価したいし評価を知りたい。

 「おそらくは」であるが、始皇帝政権の短命と「神仙への没入」は、「始皇帝自身が描いていた『中国統一事業』が段落した」からであって、「もうやることが無い」状態に陥り、短期間に事業に集中した力が萎(な)えたからでもあったと考えたい。時代が2200年遡っても人間の能力や感性は現在と大きな違いは無いはずだ。本項では、「始皇帝は真に地政学的覇者で“Geopolitik”の皇帝であった」と評しておきたい。