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草創期の宿場と遊女

 札幌のまちづくりをしたのは、明治2年に着任した島義勇判官が

「五洲第一の」を造るという構想の元、碁盤の目に区割りをし、

その基盤を築いたと言われていますが、私はどうしてもこの件が、

しっくり来ないのです。

 何故なら、基点を南北に走る創成川は、慶応2年から現在の東区に

幕臣・大友亀太郎が農村を作る為に引いた人口河川であり、

タラレバでは無いのですが、戊辰戦争で幕府軍が買っていたならば、

大友亀太郎が開祖であるとなったのでしょうし、大友掘り(現在の創成川)

が完成したのは慶応4年・明治元年なので、半分は大友亀太郎の功績なので

は?と思ってしまうからです。

 まあ、「勝てば官軍 負ければ賊軍」賊軍の功績など、認めるわけには

いかぬという事なのでしょうか。

 ですが、亀太郎が開墾したことで、札幌村には農民23戸、アイヌ民族も3

戸ほど軒を連ねていたことが「移民履歴調」に記録されています。

 その後も、大友堀りを中心に集落が拓けていき、明治3年には宿屋が

一軒あったと、米沢藩藩士・宮島幹の著「北行日記」に記されています。

 この宿屋は、南1条西1丁目の角にあった菅野治佐衛門の「秋田屋」の事か

と思われるのですが、開拓使本庁や町会所などを別としたら、

柾葺屋根で建てられた民間第1号の建築物ではないかとも言われています。

 それ以外の宿屋といえば、草葺きの掘立小屋のようなものでしたが、

石狩りからやって来た丸八清水利右衛門や、銭函の高橋亀次郎などが、

旅篭渡世の名乗りをあげていたそうです。

 そして、札幌村の名手とされていた津軽出身の高木長蔵は、丸八の裏に

「長盛楼」という飲食店を開き、高木の家を借り受けた石狩からきた

中川良助が秋田家の隣に札幌初といわれている飲み屋を開きました。

秋田屋の反対隣りは小川万次郎が銭湯を開き、ぽつりぽつりと明かりが

灯り、宿場町のようなものが出来上がりました。

 宿屋といっても、訪れるのは開拓に従事する男性ばかり。

こうした宿屋や飲み屋には、「飯盛女(めしもりおんな)」という

遊女がつき物でした。

 

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