鴨々文庫

鴨々堂という 小さな古い建物で、時々galleryやっていました。

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最近の記事

鼻欠け地蔵

今日は、zoom会議や資料作りでちょっぴり忙しく。 どの様な資料かと言いますと、 義理のお母さまが、釧路・米町遊郭の遊女だったと お写真を送って頂いたので、 その方の家歴のファイリングや、 花街を縄張りとしていた博徒たちのリストを作りなど……。 兎にも角にも、毎日堆く積まれた書籍に囲まれ 一度地震など起きようものなら、 書籍の雪崩に巻き込まれそうな有様で。 そうした中、妓楼の楼主の一族が 明治3年には住むようになっていた 函館地蔵町の資料を読んでいると、 この街の名の由来

    • 箱館来訪 浜千鳥

       今回の取材は、北海道の遊郭史の中でも 古い歴史を持つ函館の遊郭の調査に行って来ました。  「はこだて」という町は、札幌や旭川、帯広、釧路…… などの様に、開拓農村で出来た町ではありません。  明治以降に開けた都市は、中心市街地から街を設計し 計画的に出来ていきましたが、この街は、 海から来て便利のよい所に、人々が勝手に家を建て 住みつくようになり、集落が町筋となり、 町が自然と広がって行ったのです。 弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書 「津軽一統志」によると、  166

      • 凍てつく廊下

        三寒四温。 寒さが皮膚に突き刺さる程に身に沁みると思いきや 襟元を少し緩めて外を歩いても丁度良いくらいだったり……。 お正月を過ぎると、そんな日を繰り返しながら ゆっくりと季節は春へと向かっていきます。 そうは言っても、やはり1月の雪国の寒さを 侮ってはいけません。 時として寒さは、人から生きる気力まで 奪ってしまうことがあります。 遊郭に限らず、かつての木造建築は、 今みたいな断熱材が入っていなかったので 綿布団も冷たく冷えていて、 自分の吐く息で口元に掛かる布団が凍

        • お茶とお菓子

          開拓が始まった頃は、皆、酒ばっかり飲んでいて お茶を欲しがる人などは、いなかったそうです。 けれども、人口の増加と共にお茶を好む人も増えて来て お茶屋の商売が成り立つようになってきました。  お茶といえば、菓子が付き物。 明治2年から3年の春頃までは、物資が不足していた為 小樽から持ってきた金平糖が、一握り十銭という高値で 売られていたそうです。  結構な値段にも拘わらず、飛ぶように売れていたそうですが、 人口比率で酒飲みの土工が急増した時には、男ばかりの世界だけに お

        鼻欠け地蔵

          御用火事を逃れた蒼海楼

          開拓使の家作料貸付である100円を目当てに、 開拓移民が増えた事については、以前にも触れていたのですが、 この時の移住民の数は、凡そ600軒程だったそうです。  100円という大金を手にしてみたく北海道へと渡ってきて、 酒代に投じてすってんてんになってしまった人や、 一旗揚げて故郷に錦を飾る為と、ムダ金は余り使わずに 懐にお金を納めたままの人もいて、 柾葺き屋根の建設は、遅々として進まず。  業を煮やした岩村判官が、草小屋に 火を放ってたと云うのですから、 何度聞いても

          御用火事を逃れた蒼海楼

          花街の大地主

          今日の札幌は、朝から大雪で 派遣の仕事に行き、帰ってくるだけで 少々お疲れモードだったのですが、 北海道遊郭史の研究で、 釧路の米町遊郭界隈の土地を所有していた方の 曾孫さんからお話を伺う段取りが出来ていたので 夕方から頑張ってインタビューをしていました。  さてさて、地元の方ならお名前を聞いただけで ああ!と、わかる翁なのですが、その方の人となりは 余り知られてはおらず。  インタビューにお答え頂いたのは、 翁の曾孫さんであり、なんと、現在は歌舞伎町で ママさんをして

          花街の大地主

          バラック小屋の赤提灯

          連日、新型COVID-19のニュースが続き 何とも言えない重苦しい雰囲気が漂う中、 友人から狸小路の外れにある「ひょうたん小路」の 赤提灯が、また一つ消えると連絡がきたので、 狸小路や、ひょうたん横丁について、 書いておきたいと思います。  札幌市民の食の台所と言われていた狸小路は、 創成川がまだ、物流を搬送する運河として利用されていた 頃から飲食店が建ち並ぶ老舗の商店街です。  明治2年に銭函の山大という運上屋の支配人をしていた 高橋亀太郎が旅人宿を始めたのが先駆けと

          バラック小屋の赤提灯

          樽前山大噴火・その後の施策

          北海道へ渡れば、土地が貰える。 家を建てることも出来る。 たくさん、お金儲けが出来るんだ!  こうして、海を渡って来た人々でしたが、 原野を切り拓く事の過酷さや、 火山噴火と揺れ動く大地という自然の猛威に触れ、 やはり、ここは人の住む所などでは無いと 思ってしまうのも無理はありません。  北海道開拓の使命を担っていた松本十郎判官らは、 なんとか、人々が逃げ出すのを食い止め、 この地に定住させようと、独断で 本庁や、官邸、病院などの土塁や、地均しなどの 土木工事を作り、市

          樽前山大噴火・その後の施策

          樽前山大噴火

          開拓黎明期は、住まいどころか 水も食料も満足に手に入るような状況ではなく、 家作料百両が欲しくて北海道へと渡ってきた人々も 定着はせず。  明治6年6月に、札幌を中心とした 道路や、本庁舎と関連施設の建築工事一糸段落した際に 札幌に移り住んでいた、およそ3千人の職人や工夫らが 解雇帰国してしまいした。  人口が急激に減った為、商家も立ち行かなくなり、 家屋を捨て夜逃げをした人々も多かったそうです。  解雇帰国の背景には、時の長官が功を急ぐあまり、 開拓予算を一斉に全て

          樽前山大噴火

          薄野の撥ね釣瓶(はねつるべ)

          札幌という地は、アイヌ語由来で サッ(乾いた)ポロ(大きい)ペツ(川) という意味で、札幌の中心部を流れる 豊平川が乾季になると渇水するので、 こうした名称となりました。 その名の通り、大きな川が流れるわりには、 生活用水を確保することが難しく、 開拓移民の人々は、随分とあちらこちらで 井戸を掘ったそうです。 こうして水の確保できましたが、 どこの井戸も夏の間は水があっても、 冬になると井戸の中が枯れてしまったとか。 近くを流れる川の水は凍結してしまうので、 人々は、

          薄野の撥ね釣瓶(はねつるべ)

          雪深いまち

          2021年1月。 今年は、雪の当たり年のようです。 北海道開拓が始まった頃の、今から凡そ140年前も 一夜で一丈二尺(約4.4m)もの積雪となる大雪が あったそうです。 深々と静かに降り積もった雪は、 建物をすっぽりと覆ってしまい  人々が、朝目が覚めても 室内が夜のように暗いままでした。 不思議に思い、雪囲いの上の隙間などから 外を覗いてみると、暗闇の向こうに 微かに光が差し込んで見えるような状況だったとか。  たまたま建物の外にいた雇人などが大声で 「戸などあか

          雪深いまち

          北海楼の和三郎

          妓楼の楼主でありながら副戸長となり、 周囲から信頼を得るようになっていた和三郎ですが、 花街の重鎮として以外にも、彼は北海道開拓史に大きな足跡を 残しています。  薄野の花街で、娼妓と芸妓の仕事を区分し、 見番を始めておいたのも高瀬和三郎と言われていますが、 明治の17年に、花街で儲けたお金を軍資金とし、彼は 豊平村平岸に1万円の大金を投じ一大りんご園を造成しました。  平岸の林檎園は明治14年から拓かれ始めたようですが、 和三郎も、先人たちの一群と言って良いかと思いま

          北海楼の和三郎

          女房貸しと草鞋(わらじ)脱(ぬ)ぎ

          薄野遊郭が出来る前の 明治3年末頃の札幌の人口は、 9戸22名と記録されていましたが、 明治4年末には211戸624名へと推移していたそうです。  この札幌移住人気の背景には、開拓使より 妻帯者が開墾の為に移住する場合は、百円の家作料を 貸し付けるという御触書があったからでした。  米一俵が2円前後で買えた時代なので、 百円という御金は、なんとも魅力的な話しだったのです。  開拓使の思惑は、妻帯者と共に永住しようとする者に 生活補助の為と考えていたのですが、当時の移民た

          女房貸しと草鞋(わらじ)脱(ぬ)ぎ

          越中屋と北海楼の楼主③

          和三郎が薄野に北海楼を開いた頃は、 まだまだ柾葺き屋根の家屋は少なく、 本願寺の向こうに藁小屋がたくさんあったそうです。  この本願寺とは、当時から、南7条西8丁目にあった 東本願寺薄野別院を指しています。 この藁小屋は兎に角火の始末が悪かったそうで、 ボヤ騒ぎが多く、自宅を建てた和三郎は貰い火を恐れ 立ち退きをして欲しいと岩村判官に願いをだしていました。 ところが藁小屋の住人たちは、一向に立ち退く様子は ありません。  業を煮やした岩村判官は明治5年5月に 自らの手

          越中屋と北海楼の楼主③

          越中屋と北海楼の楼主②

           非業な最期を遂げた越中屋の中川良助でしたが、 遊女・雨風を抱えていた北海楼の楼主・高瀬和三郎は どの様な人生を歩んだのでしょうか。  1829(文政12)年に秋田県大館市に生まれた和三郎の父は、 秋田藩の「目明し」という町奉行の役人でした。  嘉永3年、21歳となった和三郎は、 函館に渡り商売人となったといわれています。  和三郎の場合は、非常に珍しく明治31年に記録された 本人の談話が残っており、そこには、明治4年4月に函館から 札幌へ12戸が移動した頃の様子が記され

          越中屋と北海楼の楼主②

          越中屋と北海楼の楼主①

          台鍋と雨風という薄野遊郭きっての 売れっ子遊女を抱えていた 越中屋と北海楼。 両妓楼の楼主がどの様な人物だったのでしょうか。 北海道人名辞書の人名録によると、 「越中屋」の楼主・中川良助は、 妓楼の名の通り、越中国(現在の富山県)で、 1823(文政6)年に生まれたといわれています。 明治4年に薬行商人として札幌に渡り、 翌年に女郎屋を開いたとの記録もありますが、 その本には、「札幌に於ける貸座敷の初なり」と 書かれておりますので、この情報の信憑性は、 やや低いかもしれませ

          越中屋と北海楼の楼主①