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漢方修行のため九州から東京へ飛んだ日 周りからは「気が狂った」と陰口を言われていたようだ

 平成6年3月31日に私は宮崎空港にいた。お腹に臨月の娘を育んでいる妻と2歳半の長男、母と義理の両親、その時初めて少し心細い気持ちとなった。本当にこの選択は正しかったのか・・・。
 昭和63年から故郷に戻り、内科研修後腎臓内科をめざしていた私がどうして全てを捨てて後ろ盾のない東京で漢方の修行に向かわねばならないのかと、本当に上手くいくのか、どこまで心と身体が持つだろうかと・・・
 周りからは「何で医者が漢方を」「ついに気が狂った」という疑問とも悪口とも聞こえる声が耳に入ってきました。

 私は女子医大に転籍することが決まった後も、宮医大でのデューティーは最後まで果たそうと、サボりませんでした。そんな時1つ下の医師から「どうせ居なく名なるのに・・・」とふと本音を吐かれました。そのような言葉は周りの多くが持っていたようです。まぁ、そう思われても仕方ないことをしたのだから・・・うらやましいのだろうなと、自分で納得していたつもりであった。
 そんな中でもただ1人だけ、U医師のみは本当に心配してくれた。宮崎に戻った後も色々と気を使ってくれ感謝している。不思議なことに彼の兄は漢方の基礎的な分野を研究される有名な方でいろんなご縁に感謝している。
 実際に東京行きが少しずつ現実の話となると、いろいろ心配事も出てきて少し弱気になってきた。そんな私がどうにか12年間頑張れたのは予想もしない母の厳しい言葉であった。

「退路を断っていきなさい」
 あなたはみんなに迷惑をかけていくのだから、貴女のわがままだから、だからもうこちらに戻るところはないのよ。簡単に戻れるなんて考えないこと。退路を断って東京で戦ってきなさい。ある程度のポストや結果を出すまでは、宮崎の地を二度と踏むことは許されない。という母の意外な言葉で目が覚めました。
 さらに父は父で更に厳しいひと言をつぶやきました。
「義理の父殿に土下座して謝らざるおえないといかんだろうね。彼方のお父さん達はとても不安だろう。私達はお兄ちゃんがいるからいいけど、彼方はひとりっ子みたいなモノだから、それを東京に連れ去るのだから・・・」
と、私が考えていなかったことをわからされました。

 30代前半という若さがあり、私は12年間東京でがんばり、それなりのポストにつき、医学博士も頂きました。宮崎の地を初めて踏んだのは、祖母の葬儀の時、そして次は漢方メーカーの講師として宮崎の地を踏みました。

 さて、これはまでは宮崎を離れた時の話ですが、実は女子医大を抜けて宮崎に戻るまでの葛藤はその100倍ぐらいありました。宮崎出働く医師を増やしたいという宮崎県がどうしてその話しを聞きに来ないのか、宮崎にずっと居る医師や国内留学という東京サイドからいえばお客さん的な医師とはちがう立場で働いている医師がその立場やポストや将来の得られるものを捨てる覚悟をどうつけたのかについては是非知って欲しいです。それをご存じなければ宮崎の医師不足は絶対に解決しないのです。

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