音楽だとなぜだかこうなる話

料亭へ来たお客が席につくなり「フィンガーボールもないの?」「ナイフとフォークじゃないの?」と言ったら皆さんはどう感じますか?
怪訝な顔をすると思います。なぜなら、この人は和食を食べるときに洋食の作法を持ち込んでいるからです。

普通に考えたら、同じ食べ物とはいえ洋食と和食ではそれを生み出した文化背景が違いますから「んなもん腹に入っちまえば一緒でい!」とは言え、やはりしっかり味わって楽しむにはそれぞれで作法をある程度変える必要が出てきます。

同様にですが、小説を読むときと家電製品の取扱説明書を読むときに同じ読み方をする人もいないと思います。無意識ではあれ、読み方をギアチェンジしていますよね。

これらは当たり前の事として受け取ってもらえるとは思いますが、こと音楽になると話がどうしてか状況が変わってしまいます。

クラシックなど洋楽器されてる人から「五線譜ないんですか?」「コードないんですか?」と和楽器してる人に対して聞かれることが時々あります。

そうなんです。邦楽は五線譜では元々ない(現代では五線譜化してるケースもありますが)世界ですし、西洋の機能和声では作られてないものなのです。なんならドレミですらない音階で、厳密に言うと音がずれてるケースもあります。

日本国内にいるのにここまで邦楽が知られてないこと自体も考えたら不思議なものですが、それは今回はさておき。

知らないから「五線譜ないんですか?」と聞かれるだけなら説明して終わるのですが、なまじ音楽教育しっかり受けてる「西洋音楽こそが音楽である」という原理主義な方に出会うとマウント取るためにあえてこの種の言葉を投げつけられたこともあります…(ごく稀なんですがね、ええ…)。

結局この「五線譜もないんですか?」的な言葉は冒頭に出した「ナイフとフォークじゃないの?」というのと同根なのです。

こちらからすると「そもそもが音楽の成り立ちも違いますし、それによって覚え方も、得意とする奏法も音階も違いますから…進化の仕方が違うだけの話です」と言いたいところなんですが。やはりあちらはあくまでも西洋音楽からの尺度で測ることしかできないので「劣った音楽」という見方から脱却できないわけです。

そうなると平行線になってしまいますが、これも食べ物で考えたら「そうめんをパスタみたいにしてみたけど美味しくないわね」みたいなことになるわけです。そうめんはそうめんのうまさがあるわけで、それをパスタ基準で考えること自体がナンセンスなわけですが。(ちなみにそうめんをパスタのようにして美味しく食べる方法はあるそうですね。)

閑話休題。ここで言いたいのは「邦楽の復権を!」とか「洋楽を焼き払え!」とかではなくて「音楽には多様な形態がありそれぞれに文化がある」ということをお互いに知ることの大切さです。

確かに西洋音楽は機能和声で美しいハーモニーを作り出したり、楽器の音量の拡大化や合理化を進めていて素晴らしいものです。ですが、繊細な和楽器の音は別方向での進化を遂げており、ことに「音色」と素材に関する拘りは他の音楽に比べても凄まじいものがあります。

このような違いをお互いに知った上で交流することで、また新たな音楽が生まれる素晴らしいきっかけになるかもしれません。それがお互いの無理解で失われてしまうのは残念なことです。

非西洋音楽に出会うことで、別な音楽文化があり別な音楽のあり方があり聴き方がある、これを知ることでより自分がやっている音楽への理解も深めることになります。外側を知ることで、自分の立ち位置や特性を知ることはマイナスにはならないと思います。

学校現場でも、本当は和声がどうのを教えるよりも実は「世界が多様であり、それぞれの価値観がある」ということを教えるほうが大事ではないかと思います。別に皆が音楽家になるわけでもないのですから、コードがどうのとか枝葉の問題よりも、音楽という具体例をきっかけに世界の多様さと重層性を知ることが、これからますます実生活で大切になっていくのですから。

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