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親子の絆

どの時代も、自然も、星同士も、
すべてのものは何かから生まれ
母から生まれいのちが繋がってゆく。

自分だけで生まれてきた命はひとつもないんだよね。

そんな親子の絆を意識した度、

今回は新城市の石座神社にお声がけ頂いてご挨拶した事からはじまり、はじまり〜。

石座神社の鎮座する地は、
石座神社遺跡であり、
戦国時代1575年に「長篠・設楽原の戦い」が為された場所。

石座神社遺跡は、
弥生時代から古墳時代前期に最盛期を迎えた集落遺跡であることが判っていて、

600棟以上の分布し
東西300m、南北100mの範囲に及ぶ可能性があると推測されているそう。

ってことは、
東三河地域では弥生時代の有数の拠点がここで、有力者がいたってこと。

これだけの遺跡が発見されている地域にて
長い年月が経った後、人が集い戦いの地となった。

歴史は密なる地に集う、のでしょうね。

石座神社は起源が古く、
太古より神峯山の巨石を祀る磐座信仰がはじまり。

神峯山山頂に鎮座し続けていたけれど、野火により度々消失した為現在の地に移った。

御祭神は
天之御中主尊と天稚彦命。

天之御中主尊!!です!!

天地
銀河
渦の中心
すべての始祖

神域には
末社として
荒波婆岐社(アラハバキ、社により漢字は異なる)はじめ、
主要な神々が集っており、

摂社として
諏訪信仰の須波南社(建南方刀美神)と
石座を神格した児御前社(石鞍若御子天神)が

大事に祀られています。



でね、
天之御中主尊曰く

「どんな子も 如何なる時も 愛しい我が子よ」

とのことで、
姿形に関わらず
どんな時代であろうとも
すべてが天之御中主尊の子であり
どの子も愛しい我が子であると。

くぅ〜!大いなる揺らぎのない愛。

天之御中主尊を母としたら
私たちは永遠に神の子ども。

長〜ぁい時を大いなる神心にて観続けてくれている。

神と人は共に在りてのこの世の成り立ち。

そして、時は1575年へ。

戦国時代の徳川家康と家康嫡男の松平信康。

石座神社の南南西、松尾山松尾神社にて初陣を飾った17歳の信康公。

石座神社の南、弾正山(現、八剱神社)に父家康公33歳。

武田勝頼率いる武田軍と
織田、徳川軍の戦いが為された長篠・設楽原の戦い。

武田勝頼、この時30歳。

奥平氏の城、長篠城を武田軍が攻め、
兵糧が底をつき
鳥居強右衛門が命を賭けて徳川に助けを求めに行った事、

織田、徳川軍の火縄銃での戦い。

武田軍、銃には力及ばず
武田の力が押されてしまった時の流れ。

若武者たちの
いのちを掛けた戦いにより
流れた血と失った命は莫大な数。

設楽原歴史資料館には火縄銃がたくさん展示されており、
どでかい火縄銃も展示されており、
その威力とエネルギーの重さにビリビリします。

武田勝頼は其の後追い詰められ亡くなり、

松平信康は織田信長に謀反の疑いをかけられ
生母築山殿が殺されたのと同じ頃
享年21歳にして二俣城にて自刃。

歴史の真実はわからないし、
戦乱の世は家族を人質に出したり、
いのちを引き換えにお家を守ったり、
いろいろな辛い現実があったであろうけど、

家康公と信康公にも親子の絆があり、
長篠の戦いにて初陣を立派に飾った事であろうと思う。

それは、
武田勝頼も然り。

みんな母から生まれ
親子ともに
護りまもられ成長してきたのだから。

令和三年

今もまだ同じ地球上で争いが有り、
人の命が奪われる事が無くならない。

刀や銃などは
はじめから武器ではなく、

人が生活する上で
便利な様に作られたものたちだ。

それを用いて
いのちを奪い合うことは

誰も望んではいないよね。

それぞれの主張や領土争いの為に、
武器を増やし
その殺傷能力を上げるなど、

人が与えられた能力に必要なものなのか⁉︎

地球上に生きとし生けるすべてのものが
共に生きている異なる存在であると認め合い、

平和である意識を常に持ちあえますように。

人が生まれ来た理由に
進化して舞い戻る

陰と陽が差別でなく融合されてゆく

みんなつながって生きているのだから。

最後まで読んで頂き有り難うございました。


神倭

https://kan-yamato.jimdofree.com

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