家康の師

NHKの大河ドラマ「どうする家康」では初回で桶狭間の合戦が終わって、家康の幼少期は描かれていませんが、昔の大河では主役の武将の生涯を描く場合には教科書的な定番として子役が少年時代を演じて何回か過ぎてから主演の俳優が登場するみたいな感じでした。家康の少年時代を描くとすれば必ず登場するであろう、家康の師と言える存在だったのが太原雪斎です。戦国時代には「黒衣の宰相」などという言葉があるように僧侶が政治に介入したり大名の軍師のような存在だったりしたことも多かったわけですが、雪斎もまた僧侶でありながら今川家のプレーン、軍師的な存在として活躍していました。雪斎の出自は今川家の家臣の子息だったようですが幼少の頃から仏門に入り京都の寺で修行していたところ、今川義元の父である氏親に義元の教育係として呼び戻されます。義元が今川家の家督を相続してからは、北条家と武田家との調停に奔走して甲相駿三国同盟を成立させたのも雪斎の働きと言われています。また雪斎が凄いと思うのは僧侶としても高名ながら義元に代わって自ら軍勢を率いて何度も出陣しているということです。徳川家康が絡む話では、今川家の人質になる筈だった幼少の頃の家康(竹千代)が手違いで織田家に奪われてしまったということがありました。その際、雪斎が軍勢を率いて織田家の安祥城を攻めて城主の織田信広(信長の兄)を捕え、竹千代との人質交換を行ったということです。その雪斎が、元服まで人質として駿河で過ごしていた竹千代の教育も担当していたわけです。雪斎が家康の師というのは異説もあって実際にそうだったのか定かでは無いようです。ただ雪斎が住職だった臨済寺に竹千代がいて寺で教育を受けていたというのは事実のようなので、竹千代は少なくとも雪斎の謦咳に触れることはあったことでしょう。いずれにせよ家康を教育したのが高名な雪斎だったというのが時代劇ドラマで描くには絵になる話ではあります。さて「どうする家康」では今川義元は初回で討たれてしまいましたが、割に立派な武将として描かれているように見受けられました。過去のイメージでは弱小勢力だった織田信長に討たれたことで残念な武将として描かれることが多かったものです。太っていて馬に乗れないので輿に乗っていて、武将というよりは公家風の装いだったとか、武士の嗜みに欠ける軟弱な武将だったので不覚を取ったみたいな。時代劇ドラマに登場する義元は大抵そんな感じでしたが、しかし「信長公記」によれば義元は馬に乗っていたという話もありますし、また公家風の装いというのは家格の高さを示すもので軟弱だったということにはならないようです。信長の家臣で義元を討ったのは毛利新介ですが、最初に義元に襲い掛かった服部小平太は槍で義元を突いたところ反撃を受けて槍の穂先と膝を斬られて負傷したということで、義元が自らそうして反撃しているところをみてもそれなりの武芸の嗜みがあったことがわかります。

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