シリーズ「霊の中に生きる」 No.5人の霊(5) ⑧

『孤高の預言者イザヤの召命』

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

人の霊(5) - 牧師の書斎

孤高の預言者イザヤ

【新改訳2017】

イザヤ書30章18節~21節


18

それゆえ【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。

【主】が義の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。


19

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者、もうあなたは泣くことはない。

あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。

20

たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、
あなたを教える方はもう隠れることはなく、
あなたの目はあなたを教える方を見続ける。


21

あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。

たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、、、、

20節

重要な言葉がここに隠され封印されている。
イェシュアの御弟子として歩もうとする者にとっては、

『苦しみのパンと虐げの水』は前提条件である。

愛する同胞イスラエルの民に預言し続け、無視されつづけられたイザヤは預言者たる召命を受けた時、主に悟される。

あなたはこの民(イスラエル)の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。

イザヤ書6章10節

私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。

「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

イザヤ書6章11節〜13節

イザヤよわたしはお前を預言者として召し出すが、お前の預言活動は表面的には徒労に終わる。

民の心はますます頑なになっていよいよわたし(主、)から離れていく。

しかしお前は語りつづけ預言しつづけなければならない。

人々に理解されても理解されなくとも、主の預言者は語りつづけなければならない。
人に理解されることなど預言者は求めてはならないということです。

イザヤに対する過酷なまでの主のご召命である。

『孤高の預言者イザヤの召命』

イザヤの召命はウジヤ王の死のときとされている。(6章1節)。742年乃至740年。

ウジヤの治世は安定と繁栄の中にあった。

しかし、それは見せ掛けの繁栄で、社会には不義が満ちていた。

ウジヤは、神に祝された善王であったと聖書は語るが、晩年は高慢の故に「重い皮膚病」で打たれて最期を遂げたと聖書は記す。

(歴代下26:16以下)

イザヤは、ウジヤの死というユダの衰退への暗い蔭を忍ばせる希望などまったく持てない状況の中で預言者として召命を受け、

ただ神にのみ信頼せよと語り続けるが、
その言葉は
民に受け入れられることはなく
理解されることもなかった。

ウジヤの死という
喪失と失意の中にありながら、
イザヤは神殿での礼拝を
欠かさず続けていた。

神の臨在がイザヤのすべてであった。

神殿での礼拝の中で主はイザヤに現れた。

ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。

その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、 互に呼びかわして言った。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

イザヤ書6章1節〜4節

イザヤは、この光景の中に、
主のご臨在を体感した。

霊の中に感じたのである。

モーセを通してイスラエルの民がトーラーを拝受した、その時と同様の光景である。

(出エジプト記19章18節)。

イスラエルにおいて神を見ることは死を意味する。
(士師記6章22節〜23節、13章22節)

「災いだ。わたしは滅ぼされる」

イザヤは恐れの声を発した。

イザヤは主を[聖なる神]として捉えた。

聖は分離を意味する。
聖なる主と罪ある人間とは
分離されなければならない。

イザヤはこの礼拝の場で主の聖に触れ、
自分が、罪に穢れ、醜い、
存在であることを覚える。

聖なる神の御声を聞き、
地の基が震い動き、
自分が何者か、
その存在が問われているのを
イザヤは感じるのである。

主の聖に触れて、
自己の罪を覚えたイザヤは、
主にその罪から聖めていただき、
罪を赦してもらわなければ、
主に近づくことができない存在が
自分自身であることに気づかされる。

この経験がイザヤを真の神礼拝へと導くのである。

人は圧倒的な神の聖に触れて、
罪を知り、
神との真の交わりを回復し、
真の人生を歩み始める。

イザヤはこの神の聖に触れ、
打ち砕かれ、聖別させられる。

聖なる主を王として見る信仰を与えられたのが
預言者イザヤである。

名君と言われたウジヤ王を失ったあと、イザヤは真の王をもはや人において見ることはできなかった。

この絶望すべき世にあって、イザヤは、聖なる主を、万軍の主、王なるお方として見つづける。

この事は、悔い改めない民に預言しつづけるイザヤの慰めとなる。

絶望すべき世も、イスラエルの滅亡も、
すべては、

主にあって希望を
見出すことができるからである。

わたしは主を待ち望む。
主はヤコブの家に御顔を隠しておられるが
なおわたしは、彼に望みをかける。
(8章17節)
と告白して
イザヤは預言者として歩んでいく。

神の民であるはずのイスラエルの民には
語れど語れど
まったく理解されることなき
『孤高の預言者』として。

わたしは東雲(しののめ)を呼び醒ます

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