シリーズ「霊の中に生きる」 No.5 人の霊(5) ⑨


預言者イザヤ

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

人の霊(5) - 牧師の書斎

『イェシュア』と『イザヤ』

イザヤ書30章18〜21節

【新改訳2017】
イザヤ書30章18~21節

18

それゆえ【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。

【主】が義の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。

19

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者、もうあなたは泣くことはない。

あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。

20

たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、

あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。

21

あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く

このことばは終末における神の預言である。

「イスラエルの残りの者」に対する
神のご計画が預言されている。

日本語の聖書ではわからないが、この神のことばの中に意味を強調する「強意形のピエル態」と言われる動詞が二つも使われている。

ひとつは「待つ(待っておられる)」(「ハーハー」חָכָה)という動詞、

もうひとつは「あわれむ」(「ラーハム」רָחַם)という動詞(不定詞)である。

神は「恵みを与えようと待たれる神」であり、
あわれもうとする神」である。

神は民が立ち返ってくるのをいつも待っておられる神である。

そしてわたしたちをあわれまれる。

※イェシュアが語った「二人の息子を持つ父」のたとえ話を参照のこと(ルカ伝15章11節〜)

「あわれむ」という語彙がイェシュアによって使われる時、「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)という神の深い心情を表わす語彙として用いられる。

私たちが『シェーム、イェシュア』とイェシュアの聖名を呼ぶ時、イェシュアは直ちにきてくださり、熱い愛と光明をもってわたしたちを憐れんでくださる。

心腸(はらわた)が捩れるほどの言語に絶する超絶的な憐れみの愛をもって『イェシュアの聖名』を呼ぶ“ご自身の民”を恵んでくださるのである。

生命と力を注いでくださる。
熱い熱い油注ぎをなし給う。

ヒュマニズム的な同情程度で終わることなく、必ずこの恩恵が降された後には具体的な行動が伴ってくる。

これ福音書や使徒行伝の証詞する事実であり
現実であり、わたしたち『生命を与える霊=聖霊』注がれた者の証詞である。

こうした神の呼びかけのことばを、霊の中で聞いて信仰を働かせるなら、霊が奮い立たせられると同時に、神の大きな力が解き放たれる。

これが凄いことである。

天来の御国の愛が生命が地上にもち降されると言っても過言ではないだろう。

黙示録の筆者はこう書き記す。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、

「見よ、

神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。

先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

(ヨハネの黙示録21章1節〜21章4節)

神の御業における新天新地の理想郷!

エデンの回復、

神のご計画の最終目的はここにある、

イザヤはじめ、旧約の預言者が、同胞イスラエルの民に理解されないのを承知のうえで、その身を捨てて神に捧げ切り、預言しつづけ果ては無惨な死を遂げ、
また天界の“ただ一人のメシア(御子)”が肉体をもって神の栄光を現しナザレのイェシュアとなりて、この地上生涯を33年半、生活され歩かれた果てに十字架に架けられた。

当時のローマ帝国領土内において
最も残忍な十字架という極刑の死刑囚として、
処刑されねばならなかったのも、

地上世界にこの神の御国を、
『新天新地の理想郷(エデンの回復)』を、
神が来たらさがんがためである。

アシュレイ(幸い)な人よ!

生まれながらの人性を十字架され、
“霊の中に生きる人類の一人”とされた者は!

神と人とが同じ家、同じプレースに住んで
顔と顔とを見合わせるように
物語りする世界、

神の御心が人間の霊にビリビリするようにも
響いてきて響いてきてやまない世界、

この新天新地の理想郷なる世界の到来
この神の御国を来らせる戦いは
今もこの地上世界にて綴られている。

その後、わたしが見ていると、
“見よ”、

あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、

「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

御使たちは、みな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、

「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

わたしは彼に答えた、
「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。

すると、彼はわたしに言った、
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。
御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。

また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

(ヨハネの黙示録7章9節〜7章17節)

この“戦いの内容”を『御国の福音』というのである。

『イザヤ、イザイヤ』とはヘブライ語読みからであるが、
それは、『主は救い、主の救い』と言う。

そう、
まさしく、『イェシュア』と『イザヤ』は
同じ意味をもつ名なのである。

イザヤは来るべきイェシュアのひな形である。

マーラン、アター  主、イェシュアよ、来たり給え、!

アーメン


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