「デリシャスパーティ♡プリキュア」 感想



 プリキュアシリーズ19作目「デリシャスパーティ♡プリキュア」。モチーフは「ごはん」。各プリキュアはお料理をイメージしたキャラクターデザイン。個人技もそれに基づいた形になっており、キュアスパイシーはパン型のシールドを、キュアヤムヤムは麺状の無数のカッターを、キュアフィナーレは金平糖のエネルギー弾を駆使して戦う(プレシャスは個人技がx000kcalパンチだったので、一人だけ料理?ではありましたけど)。


 各話、料理を“作ること”をメインに描く作品ではなく、料理を“食べること”をメインに描かれる。キラキラプリキュアアラモードがお菓子をメインに据えていたので、モチーフには驚きませんでしたが、アラモードのような”作る”方向を予測していたので、”食べる方面”を重視するのには驚いたというのが本音。ただ、作品の根底に流れるのはこれまでのシリーズとそう変わらないと思いました。


 プリキュアが守るのはお料理の妖精レシピッピ。このレシピッピが敵となるブンドル団に奪われることにより、お料理に関わる何かが変質する(もしくは消失する)。そのお料理の味が変わったり(ジェントルー)、その料理が食べられなくなったり(スピリットルー)、その料理にまつわる記憶(ナルシストルー、セクレトルーは概念そのものでしたが)が失われる。その人々の料理への大切な想いを守るのが、今回のプリキュア。“日常を守る”という点ではこれまでのシリーズとそう大差はない。


 本作では、シリーズ初のナレーションが採用されました。心情を第三者的に語ることで、想像を促す形になっている。例えば2話のローズマリーに対して「浮かない顔ね」と言ったり。ただ、それだけではなく場面転換で冗長になりそうな説明台詞を削る役割も持っている。こういったナレーション(あらすじなど)は他シリーズでもプリキュアが担う場合もありましたが、本作は別の立ち位置のキャラクターを味方に用意しており、場面転換必須の物語となっている。知らない情報は語れない。そのために起用した面もあるのかなと思いました。


 そして本作最大の特徴でもあるのが、そのプリキュア以外のキャラクターの存在。


 その筆頭は品田拓海が変身するブラックペッパーでしょうか。他のシリーズでも共に戦う男性キャラクターはいました。ただ、それは要所であったり(例えばGo!プリンセスプリキュアのカナタ王子、魔法つかいプリキュアの校長先生など)、トドメ技のパワーアップ要因であったり(Yes!プリキュア5 GoGo!のココとナッツなど)と局所的なモノでした。ただ、ブラックペッパーはかなりの話数プリキュアと共闘していく(離脱する話数もありますが)。しかも、ただ戦うだけではなく、その想いも、その覚悟も、プリキュア達と何ら遜色なく描かれ、共にプリキュアと並び立って戦うキャラクターとして描かれました。


 そして、もう一人、ローズマリー。味方で、常識人で、大人で、綺麗めでそれでいて格好良い。普遍的に好感を持てるように造形されています。繊細さと優しさ、美しさを兼ね備えつつも、要所はその力強さで締める。一捻り加えてあるところが面白い。物語中では今回の戦闘で必須の能力デリシャスフィールドを扱え、毎回戦闘(最初と最後以外は戦う力を失っているので基本的には司令塔的な役割ですが)に参加する。


 二人とも、最終話付近でのラスボスとの戦いにもしっかり参加してくる。この二人により、本作の戦闘シーンは元々の動きの良さに加えて、戦闘のバリエーション、さらには戦いを通した二人の想いもしっかり入れてくるので、結果として山場が多く、展開に飽きませんでした。


 特徴は戦闘だけではなく、日常でも。ローズマリーのアドバイスで何度も解決のキッカケになっていく。本作では年季の入った言葉が主要メンバーに影響を与える。それはローズマリーからだけではない。


 「この言葉はね、バトンなの…(略)…だからね、次の世代が壁に突き当たった時、乗り越えられるようにお手伝いが出来たら」(——和実よね 38話より)


 和実ゆいの祖母、和実よね。彼女からの言葉も影響している。キュアプレシャスの和実ゆいの口癖は「ご飯は笑顔」。これを筆頭に、祖母の言葉をよく使う。「言葉はバトン」。その祖母から受け取った言葉で、困難を乗り越えて行く。そしてこれは何もゆいだけではない。ゆいを通して、ここね、らん、あまねへと。


 「ごはんかパンか、悩んだらうどんもある」(——華満 らん 10話より)

 「味が違うほど良い。合わせ味噌」芙羽 (——芙羽 ここね 10話より)

 「昨日食べたものが今日の自分を作る明日の自分を作る、今日食べたものが明日の自分を作る!」(——和実 ゆい18話より)


 各々に印象を残したゆいの祖母の言葉は彼女たちそれぞれにある。ここねとらんは10話、あまねはキュアフィナーレに変身した18話が象徴的だと思います。彼女らは全員、ゆいを通したその「言葉のバトン」を受けて、その言葉が彼女たちを助けるキッカケとなっている。ただ、そのバトンを受け取ったタイミングは各々の考えを補強するに過ぎなかった。受け取るだけではダメだった(和実よね自身も言葉の限界、と理解している)。


 どのシナリオも強調されていたのは自分自身で一歩を踏み出す「勇気」なのだと思う。


 その勇気は各々大切なモノを掴み取るために。全員、物語開始時点で大切な何かを喪失した状態、もしくは物語上で「喪失」させて描かれる。そしてそれを人と人とのつながりを強調して。


 わかりやすいのは芙羽ここねでしょうか。


 ここねは人付き合いに難があるキャラクターとして描かれました。そもそも物語開始時点での彼女は一人の方が気楽だった。一人の静かな時間が好き。人と関わるのに面倒さすら感じ、他人と距離を置いていた。その人付き合いは赤の他人どころか、出張が多く滅多に家に居なかった家族まで含めて。当初、23話で家族と一緒に居られる時間が増えても、その家族と何を話して良いのかわからないほどに。


 「私、守りたい、大切な場所をあの子と。どんなことも一緒にやればなんでもできるってもう知ってるから」(——芙羽 ここね 4話より)


 ここねのお当番回は自分の世界を広げる方向へと物語は紡がれる。


 ゆいから受け取った「合わせ味噌」の話。ただ、その受け取ったバトンだけではダメだった。15話でのクラスメイトとのランチで描かれるのは、ここねは周囲に意識が行き過ぎて、自分が食事を楽しむことすらできなかった。確かにゆいの祖母の言葉で「共有すること」のキッカケにはなっている。彼女は5話での初めての料理や、6話でゆいにお弁当を作ってくるシーンもそうですが、一個に集中するとやり過ぎるキャラクターでもある。だから「合わせ味噌」って言葉に感銘は受けたが、他人に合わせ過ぎないという部分までは上手く活かせられなかった。他人に合わせ過ぎる格好になってしまう。そういった意味でここねは不器用だと思います。そんな不器用なここねが、自分を保ちつつ、周囲と上手く付き合っていく過程が描かれる。


 「家族でイースキ島に引っ越したいと考えているんだ」(——芙羽 しょうせい 35話より)


 ここねのお当番回のラストでは家族と一緒に居るか、友達と一緒に居るかの決断に迫られる。元々両親と離れ離れであり、一緒に居るのすら緊張し、クラスメイトとは壁を作っていた。そんな彼女がどちらを選ぶ?で悩む。当初の彼女からは考えられない選択肢。そこに対する彼女が出した結論は“どちらも取る”という決断。幼少期に叔母からの何気ない一言から「わがまま」を言うことへある種の忌避感があり、わがままを言えなくなっていたのが、ここね。そんなここねが「わがまま」を言う勇気を出す。当初の彼女からは考えられないほどの変化をしている。喪失から大切なことへの気付き、それを獲得するために一歩を踏み出す。言葉のバトンたる「合わせ味噌」の話を踏まえつつ、それだけではなく周囲の人の言葉を貰い、自分の経験を経て選び取る。最初と最後の考え、そして自身の決断を以て、広がった彼女の世界。この変化がハッキリとわかりやすい。


 自分の価値観を変化させて世界を広げたのがここねだとしたら、自身の価値観をそのままにしたのが華満らんだろうか。


 華満らんはその自身の「大好き」を相手に伝えることに主眼が置かれる。彼女は幼少期に周囲と大好きなモノへの情熱の温度差が大きく、周囲に理解されなかった経験が幼少期のトラウマになっている。それが原因でらんは物語開始時点では自身の「大好き」を表せなくなっていた。自己を出して伝えることは我慢できないからキュアスタへの投稿のみで、自分の大好きを表現していた。だからか、彼女の行動は引っ込み思案というか、喋る相手を選ぶ。例えば15話、多分同類と認識しているゆい相手には最初から普段通りのごはんへの情熱を語っているのに、クラスメイトが来た瞬間にその語りは出来なくなってしまう。


 「ごはんかパンだけで悩むな。迷ったときはうどんもある。迷ってたときこそ、他に何かいい方法があるはずだって」(——和実 ゆい 8話より)


 ゆいを通してらんが受け取ったこの台詞は、確かにこれがキッカケとなり、この話では助けになる。ただ、らんには発想力と諦めない心…その情熱。これは彼女には元々あったモノであり、その考えの補強に過ぎない。彼女にとって本当に必要だったのは自分の大好きを伝えられること。自己をさらけ出す、自分を好きになる、その勇気を持つこと。これを幼少期から失っていた。お当番回の最期で、グルメレポーターに挑戦するのは最も自己をさらけ出す行為に他ならない。自己をさらけ出すことに恐怖していたらんが、最も自己をさらけ出す展開を描く。


 「えっと、変ってこと?」

 「ノー!全然、だれにも真似ができないってこと」(——華満らん&タテモッティ 36話より)


 らんは恐らく、ゆい、ここね、あまねなど、レシピッピが見える友人、同じごはんへの情熱をぶつけても大丈夫な友人に触れることで、自分を好きになり、自分を出すことに勇気が出せるようになったのだと思う。思えばらんのお当番回は大好きを伝えることに主眼が置かれている。例えば16話の肉じゃが回などは、その最たるもので、偏見を持ってきた相手にすら、その変わっている部分が格好いいと言われる。変わっているという認識は変えられていないし、むしろそれを大切にし、元から彼女の中にある大好きを、勇気をもって伝えられる。


 らんとここね、どちらも最初は一人でも良いとなっていた。ただし、結論は異なる。9話でのここねとらんの喧嘩回からもそうですが、この二人はかなり対比されているように思う。心配性のここね、楽観的ならん。物語開始時点で、二人とも対人関係に難があるのは同じ。「分け合う」というテーマはかわらないですが、らんは好きなことを大切にし、その気持ちを伝えたい。ここねは仲良くなった周囲の人間と一緒に居たい。価値観を変化させたのがここね、価値観をそのまま大事にするのがらん。どちらも「共有すること」、対人関係に難がある前提は同じ、それなのに結論は異なる。その思考の対比が面白い。


 そして「共有すること」の対象も違う。ここねがクラスメイト、家族と身近な見える範囲をその共有対象に考えたのに対し、らんの共有する対象は目に見えない誰か。キュアスタだけではなく、21話で歴史を語ったのも、35話でグルメレポートをしたのも、らんの共有する対象については一貫している。


 幼少期の出来事での喪失から、大切なモノを獲得するのがここねとらん。それに比べるとあまねはそういった幼少期に失っているモノはなかった。


 「何かあるなら力になるよ。あまねにはいつも助けてもらってばかりだし、フルーツポンチの恩返しもしたい」(——山倉 もえ 18話より)


 あまねは真面目で正義感が強く描かれました。ちょっと頑なな部分はありますが、らんとここねとは異なり、特に物語開始時点で他人と壁を作るようなこともない。元々無自覚ではあるものの他人を元気づけられる。対人関係において、本人に問題はなかった。彼女の喪失は外的要因で引き起こされる。


 「過去は変えられない、でも!未来はこの瞬間から創っていけるんだよ!あまねさん、明日はどんな自分になりたい?」(——和美 ゆい 18話)


 それはジェントルーにされなかったら表出はしなった。物語序盤、ブンドル団のジェントルーとして操られていた彼女。洗脳されていたとはいえ、ジェントルーの時にレシピッピを苦しめ、飲食店への被害を出し、人々の笑顔を奪った、その記憶は残っている。その悪行を行った自責の念で彼女は自分を生徒会には相応しくないとする。あまねにとって生徒会長と言うのは、みんなを笑顔にするためのモノ。幼少期からみんなを笑顔にするパフェを見て、そういった「みんなを笑顔にする」存在になりたいと思っていた。それを一度失いかける。彼女が受け取った「言葉のバトン」は、その自分の行ったことを受け入れるまで。


 ゆいを通した「言葉のバトン」で自分の”今までの”行いまでは許せた。ただ、33話で表出したのは、ナルシストルーへの負の感情…その感情を抱く自分を認められないこと。彼女がナルシストルーに洗脳を施され、ジェントルーとして操られる対象となったのは、ナルシストルー曰く「現地の人間で地理に明るいから」程度の理由。その理不尽さから考えると、あまねが彼に憎しみなどの負の感情を抱くのは当然のこと。それでも完璧たろうとし、正義感が強いあまねは、その負の感情を抱く自分自身が許せなくなってしまう。


 彼女のシナリオはそんな決して相容れない存在とも「分け合う形」となる。


 「誰かを許せず、恨む気持ち、それはだれもが自然に持っているものよ。おかしなことじゃない。大事なのはその感情にながされないことよ。流されてしまえば今度はあなたの大切なものを傷つけてしまうかもしれない」(——ローズマリー 33話より)


 あまねのお当番回の37話では、感情のままにナルシストルーの処分(ウバウゾーに踏みつぶさせようとする)を決めようとするセクレトルーに対して、感情に流されずナルシストルーを助けるフィナーレが描かれる。彼女の心に燻っているものがそのままだった場合、助けないという選択も取れる。自分の手を汚さずに相手を消せるという意味で。しかし、彼女はそんな感情には飲まれない。世の中に絶対の善悪などというものが存在しない限り、善悪なんてものは所詮相対的なモノであって、だからこそ、ただ感情に任せて振り回す“正義”ほど滑稽なものはない。自分が負の感情を抱くことへの恐怖、それを乗り越え、感情に飲まれず自身の正義を貫く勇気。


 37話ラストではあまねの作ったりんご飴でナルシストルーには美味しいを、ナルシストルーが直したくす玉であまねには感謝を、お互い知らず知らずのうちにお互いの長所を与え合う形になる。許すのではなく、相容れない相手を通して自分と向き合う。そんな相手とでも「共有すること」を描く。正義感の強さと頑固さ、そして理不尽な過去を経験したあまねだからこそ、描けたシナリオだと思います。


 そして和実ゆい。本作の主要人物を見渡した時、彼女は特殊な立ち位置で描かれました。あまねを筆頭に、主要人物全員、何かしら、しがらみのある中、彼女だけは物語開始時点から、非常に精神的にも立場的にも“健康”で“真っ直ぐ”で“純粋”だからこそ、みんなの“ヒーローみたいな”少女と位置付けられました。


 コメコメが憧れ、ここねが初めて友達になりたいと思い、らんが最初から気兼ねなく話すことができ、あまねが心を動かされ、拓海が惚れこみ、ローズマリーの予想を超えて行く。和実ゆいはそんな女の子。


 ゆいは精神的にも肉体的にも(勉強は置いておいて)ひたすら強いキャラクターとして描かれました。1話の頃からそうですが、この子は変身しないでもヒーロー的存在として描かれている。他の主要人物とは違って規範となるキャラクターとして。最初に強さを描いた後は終盤に至るまではひたすら他者との関わりのみでキャラクターを出している。


 彼女が本編で得たものはなんだったのか。前述したとおり、彼女は「言葉はバトン」を繋いできた。他の人に渡してきた存在となります。他の主要キャラクターがそうであったように、その受け取ったバトンだけではダメという点において、彼女も例外ではなかった。いや、むしろ、彼女はその「言葉はバトン」に頼りきりになっていた。祖母の言葉に絶対的な信頼を置いておいた。


 「お前はただ自分が信じたいものを都合よく信じようとしただけにすぎない。お前の自分勝手な想像を押し付けた結果が今だ」(——フェンネル 42話)


 本編でゆいに突き付けられるのは、その理想を押し通すことによる代償。彼女はフェンネルの良心を信じるあまり、戦闘でブラックペッパーとコメコメを傷つけてしまう。拓海は父親がクッキングダムを追われる原因となったフェンネルに対し、憎しみで突き動かされる。ここまで徹底的に人の優しさを信じて来たゆいの「みんなを笑顔にしたい」。彼女がこの理想を通そうとしたことにより、フェンネルへのブラックペッパーの攻撃を妨害する結果になり、フェンネルにその隙を突かれ、ブラックペッパーは負傷し、力を失う。


 自分の理想を押し進めたことによって、身近な者の喪失…支えてくれていた人を一度失い(死ではなく、傷つけ、力を失わせたという意味で)、彼女は立ち止まってしまう。


 和実ゆいは身近な人に支えられているというのが強調されていたと思います。その支える存在を拓海のブラックペッパーというキャラクターで視覚的に見せることも、ナレーションで祖母の存在を意識させるのも、ゆいへ憧れたコメコメを描いてきたのも、どの要素も本編で丁寧に積み重ねている。そしてそれを終盤で一度喪失させる。


 「『大切な人の笑顔に答えはある』。お料理を教わった時に言われたの、ずっと忘れてて。でもあの時思い出したんだ。これで本当に大切な笑顔を守れるのかって。そう思ったら答えはすぐに見つかった」(——品田 拓海 43話より)


 その喪失が、ゆいにその彼女が思っている以上に、彼女は他者に支えられてきたことを気付かせる。そして拓海は唯一、ゆいと幼少期の思い出…故人となる和実よねとの思い出を共有できる存在。そんなゆいを支えて来た拓海を通して、ゆいは再度、祖母からの「言葉のバトン」を受け取ることになる。


 ラスト、フェンネルに対して「笑顔になって欲しい」という彼女の結論は、最初と同じ。変わってはいない。だが、物語最後で至った結論は最初とは決定的に異なり、誰かに支えられている、その繋がりをしっかり認識した上で、自分の意思で決めたモノとなっている。重みが違う。それはフェンネルに対する行動にもよく表れていると思う。フェンネルには多分“彼女自身の言葉だけ”では改心はしない。


 「ジンジャーさん、あなたの想い。結ぶから」(——キュアプレシャス 43話より)


 だから、最期は、ただ、結んだだけ。


 決着はジンジャーとフェンネルを結んだだけで終わりにした。フェンネルが改心に至ったかはハッキリさせない。ただ、大きな違いは頑ななまでにジンジャーの想いを受け取らなかったフェンネルに、その想いを受け取らせたこと。ゆいの行動は、ゆいの名前に込められた「人と人の想いを”結ぶ人”になれますように」を体現するかのごとく。


 「共有すること」。それを各々のヒロインで描く…それは、


芙羽 ここねでは「身近な人と分け合うこと」、

華満 らんでは「見知らぬ誰かに伝えて行くこと」、

菓彩 あまねでは「相容れない相手を通して自分と向き合うこと」、

和実 ゆいでは「世代を超えて人と人の想いを結んでいくこと」、

…に集約されている。


 背景でも、思い出でもなく、大切なモノは、与えられるのではなく決断する意思。だから自らの手で掴み取らないとならなかった。「言葉のバトン」はあくまでキッカケにすぎない。


 そして、本作の「共有すること」で最も面白いのは、それが作品内に留まらないと思えた点。


 それはローズマリーことマリちゃんを通して。マリちゃんはフェンネルとの因縁はもちろんこと、最終決戦では力を取り戻し、プリキュアと並び立って戦い、42話ではラスボスと相打ちにまで持っていく。日常部分でも、マリちゃんを視点にブンドル団やジンジャー関連の謎が進行する。物語の終盤“展開の主軸”となる登場人物だと思います。


 マリちゃんは2話でプレシャスを戦わせることに罪悪感を感じたり、各キャラへのアドバイスであったり、恐らく最も常識的な存在だと思います。ただ、同時にマリちゃんはその常識に最も縛られた人間でもあるのだと思います。多分、マリちゃんの存在って基準なのだと思います。私たちの常識で測ってしまう限界。そこをプリキュアたちが乗り越えて行く。


 例えばマリちゃんは44話でフェンネルの力の前に一度諦めかけてしまう。それに対して、プリキュアはそれでもと立ち上がっていく。それ以外でも戦いではプリキュアの行動に驚かされていくことが多い。そしてその限界が最もわかるのがシナモン関連でしょうか。ローズマリーの同僚、シナモンは冤罪でクッキングダムを去った。その時のローズマリーはシナモンを信じ切れなかったことが明かされている。


 「憧れのプリキュアとレシピッピたちを守ることが出来て、不謹慎かもしれないけど、私、とても幸せだった。プリキュアのように強く美しい存在を目指していたから」

 「私の想像を遥かに超え。あなたたちは強く逞しく輝いていた。言い伝えのプリキュアがどんな人かは知らない。ただ私にとっては皆こそが唯一無二。伝説の戦士プリキュアよ。最後にお礼を言わせて。みんなお料理を救ってくれて本当にありがとう。フェンネルを最後まで信じてくれてありがとう」(——ローズマリー 45話より)


 だから、物語ラスト、ローズマリーからゆいに対する「“最期まで信じてくれて”ありがとう」って言葉が活きる。ゆいのこれまでの愚直なまでに他人を信じた行動と、ローズマリーが子供の頃に憧れたプリキュアへの想いが、ここでようやっと重なる。


 このローズマリーが抱いた「プリキュアへの憧れ」って点に限って言えば、その憧れの気持ちはシリーズファンであれば、誰にでも共感できるものだと思う。その憧れ対象が今作以外だとしても。ここに人それぞれ意味で共感できるのであれば、ローズマリーを通して、プリキュアへの憧れを視聴者まで含めて「共有すること」を描けたのだと思います。

「おむすびってお米の恵みと食べる人、それに作る人の想いを結んでくれるんだって」(——和実ゆい 45 話より)

 ここまで各キャラを通して徹底的に「共有すること」を描いてくると「デリシャスパーティ」のタイトルに込められた意味は分かりやすい。それはゆいが語るおむすびの話が端的に表している。この物語が描いたのは、「ごはん」という誰にも身近なモノをモチーフにし「人と人、想いは繋がっている」という当たり前のことだったのだ。最後は予定調和。気持ちの良いハッピーエンド、そんな”普通”の日常で締める。


 “当たり前”を物語として描くことがどれほど困難か。それでも、そんな“当たり前”の大切さを描く。それを丁寧に積み重ねてきたからこそ、44-45話でのゆいの全員への感謝の気持ちに心を動かされたのだと思いました。


 以下は物語とは関係ない話。


 2022年3月頃、東映アニメーションへの不正アクセス事件が発生し、本作はその影響を受け、約一か月以上の放送中断を余儀なくされました。そのために全体話数が45話となってしまった作品です。個人的に物語は描かれたモノが全てであり、そこには確定性が生じ、だからこそ、削減された“可能性の話数”について言及することに必要性を感じていません。そのため、本作品の感想は、この件については触れないようにと思っていました。ただ、これだけはあえて言わせて欲しいって内容となります(リアタイで視聴していたのもあって、あの期間はやはり思い出してしまいます)。だから、以下は物語とは関係ない話、です。


 突然の物語構成の変更があったかもしれない、データがなくなってしまったのかもしれない…想像でしかないが、一カ月の延期が大変な状況であったことは想像に難くない。そんな大変な状況にありながら、それでも、何気ない“普通”にこだわり抜き、物語を破綻なく、これだけの大団円に導いた制作陣の皆様方、素敵な作品をありがとうございました。



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