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"春田と牧"で令和流『ホームドラマ』の再興を

 2024年1月5日から3月1日までテレビ朝日系列で放送されたテレビドラマ、おっさんずラブ―リターンズ―(以下、リターンズ)をリアルタイムで1話から最終話まで見ながら、ネットやSNSでいろいろな意見を目にした。
もともとファンであってもそうでなくても、このドラマに対する受け止めが他のドラマに比べても様々であった印象である。

 下記の前回の記事でこのドラマのストーリーについて、特に中盤の6話終わりから9話始めまで、黒澤武蔵(吉田鋼太郎)など主要キャストのあり方のブレが大きく、ストーリーの筋が壊れてしまっていた旨を書いた。

日本のテレビ・ラジオ番組において権威のあるギャラクシー賞を主催する団体からは、(リターンズは)単なるドタバタコメディドラマになってしまったという酷評も見られた。

 この意見が全てだとは思わないし、リターンズからおっさんずラブの虜になった私にとっても悲しいが、ストーリーの筋が壊れていてついていけず、いわゆるライトな一般視聴者なら途中で挫折しても全くおかしくはないとも思っていた。私自身も全話見た後でも、どこか消化不良のようなモヤモヤした感覚がある。
私はリターンズと平行して何度も見返した2018連ドラ「おっさんずラブ」(以下、S1)と劇場版で"春田と牧"など新旧キャストの妙に惹かれていたから、彼らを最後まで見届けようという気持ちがあったが、そういった思い入れのない視聴者は、特に中盤6話あたりからのよく分からない展開に戸惑い、離れる人も多かったのではないか。

 この分かりにくい展開において、倫理観や社会通念上の問題が問われる内容が見受けられたのも、混乱が起きた原因であると考えている。決して人気作の続編が難しいからではない。
今回は様々な問題をまとめ、リターンズの良かったところにも触れながら、リターンズがどうあるべきであったか改めて考えていきたい。


中盤以降のストーリー展開の崩れ

 武蔵の『はるたん』への想いの迷走

 多くの視聴者が戸惑ったのは、特に6話最後から最終話にかけてまでの筋道が壊れてしまっていたストーリー展開ではないか。
まずはその一つとなった、主要キャスト黒澤武蔵の春田創一(田中圭)への想いを過去作品から時系列で追ってみる。

1.S1の最終話の武蔵
 牧凌太(林遣都)と別れた春田は生活が大きく乱れ、それに乗じて武蔵はいつしか春田の実家に住み込み1年間同棲した。そしてフラッシュモブを利用して、武蔵は春田にプロポーズして、春田は雰囲気に飲まれ承諾してしまう。
結婚式の準備を着々と進め、挙式を迎えたが誓いのキスをするところで、春田は動揺を隠せなくなる。その様子を見た武蔵は「春田ー!行けー!」と牧のもとへ行くよう促した。
 最終話の最終盤で、部下の武川(眞島秀和)と話すシーンがあり「いい思い出になるにはもう少し時間がかかるだろうなぁ」と述べている。

2.2019劇場版「おっさんずラブ」の武蔵
 武蔵は階段から落ちた影響で、春田のことだけを忘れる記憶喪失となり、今までの経緯を忘れ、再び春田に恋をしてしまう。しかし最終盤で春田を思い出す。
 おそらくその直後に、自主退職をしたのだろう。
 リターンズに出てくる武蔵の自主退職のときの写真を見る限り、牧が一緒に写っているからだ。牧は劇場版のラストでシンガポールへ赴任しているので、自主退職はそれより前かほぼ同時の出来事と推察される。
このときの気持ちをリターンズ6話で菊之助(三浦翔平)に話している。
「『はるたん』のことが忘れられなくて好きで好きで…そんな自分が嫌で早期退職したんです」
既に春田と牧は劇場版の最後で結婚指輪をしており、二人は夫夫(ふうふ)となっている。
それを知り、春田と会うことが辛くなり、早期退職を選んだのは理解できる。

3.リターンズ前半の武蔵
 1話で春田と牧の家の家政夫として派遣された後、牧との生活に悩む春田に「新婚生活は家族になるための入口」と諭しながらも、イヤーマフラーをしてもらったことがきっかけで、かつてのように「はるたん」と叫びたくなる気持ちを抑えようと試みていた。

 2話では家政夫として働きながら胸のざわつきやモヤモヤを自覚し、「恋?いや、違う。私は春田と牧二人の幸せを心から願っている。今さら横恋慕しようなどという気持ちは微塵もない。では、なぜにモヤモヤするんだ…」と悩んでいた。
 そして元妻の蝶子(大塚寧々)と偶然再会したときに心情を話す。
「俺はね、春田と牧の幸せを心の底から望んでるんだよ。この気持ちに嘘偽りはない。ただ牧凌太、彼にだけは対抗意識みたいなものが芽生えてしまうんだよ」
「どちらが本当に心の底から春田を愛しているのか、いや愛しているというよりも、はるたんのことを想っているのか、それを試したくなるというか、思わず競いあいたくなってしまうんだ」
それを聞いた蝶子から「息子を愛しすぎて、そのパートナーに意地悪したくなる…それ姑の感情」と指摘されると、それを聞いた武蔵は「今のこの俺のポジションに名前をつけるとすれば、しゅうとめー!」と納得した表情を見せる。
 3話の冒頭でも「つまりこれからは親のような気持ちで愛息子のはるたんを愛し見守っていけばいいということか…うん、黒澤武蔵、納得!」と晴れやかな表情をしている。
 3話で春田と牧にW不倫を問いただすか葛藤しているところでは、以下のような武蔵のナレーションがある。
「一度は夫夫(ふうふ)として契り合った二人。たとえ道ならぬ恋に落ちてしまったとしても人として正しい順番があるんじゃないだろうか。そしてどんな結末を迎えようとも誠意を持って向き合うべきなんじゃないだろうか。なぁ、愛息子はるたんよ」 

 そして春田と牧が不倫をしていないと分かったときは「もし二人が不倫で(中略)別れちゃうなんてことになったらさ、もう俺は何のために…」「春田と牧が幸せでいてくれさえしたらそれでいいんだからさ…」と嗚咽しながら語った。

4.リターンズ中盤からの武蔵
 5話の最後では旅行で撮った春田の写真を見て「かわちい、かわちい…」と一人悶えていた。
 
6話で春田と牧の結婚式の準備に付き添ったときには春田を見送りがてら「はるたんしか勝たん」とつぶやいている。また結婚式の試着に付き合ったときには「かわちい…もう、推しが尊すぎてしんどい」と言っている。
この時点では武蔵にとって春田は"推し"であったようだ。

 ところが同じ6話で菊之助を自宅に泊めた際には、自主退職の理由を述べたあと、こう語った。
 「確かに好きな人への想いを断ち切るために距離をとるというのは正しい方法かもしれない。
でもそれは、ただ単に目の前の問題から逃げているだけで、きちんと自分と向き合って『区切り』をつけるべきだったんじゃないか。そう思う日がいまだにあります」
 「少なくとも私の時計の針は退職したあの日からずっと止まったままです」
 ここで武蔵の言う『区切り』とは一体何だろうか。
 武蔵は春田とは1年同棲し既に一度求婚したが、春田は最終的に牧を選んでいて、春田への『区切り』は既につけてあるはずだ。
 武蔵の自主退職の時点では、春田と牧は既にお互いを生涯唯一のパートナーとして認め合っていたし、リターンズでは悩んだり多少の喧嘩があったとしても、夫夫(ふうふ)関係は深まっていて、春田も牧もそれを終わらせる素振りは一度も見せていない。

 私はここに、"春田と牧"は法律婚の出来ない同性カップルだから、パートナーのいる人が相手でもアプローチをしても構わないという、プロデューサーや脚本家の考えが見え隠れしているように思う。
それは6話の結婚パーティーでバレンタインデーのチョコレートをあげようとした武川や和泉(井浦新)、7話で武川が和泉に「好きな人はみんなで分かち合えばいいと思わないか」と言った"シェア"発言にも表れていると思う。

武川と和泉の気持ちは最終的に春田と牧へは伝わらないものの、結婚式を挙げた二人に対して許される言動なのだろうか。
 同性カップルは異性カップルと同様、お互いを生涯唯一のパートナーと認め合い、同居し生計を一にしていれば、事実婚関係、いわゆる内縁状態になることが最高裁の判例などでも既に認められている。
春田と牧も既に同居し生計を一にしているから、事実婚状態であると言える。
下記の記事の通り、結婚の概念には日本において、現状でも事実婚もふくまれる。

 7話では医師にストレスによる吐血と診断され、「ストレスか…」とつぶやき「もしかして…はるたんへの気持ちに蓋をすることで、多大なストレスを抱えこんでいたんじゃないのか?親の愛などと自分を偽り無難にやり過ごそうとしたツケが回ってきたんじゃないのか?」と独白し、春田と会った後に「その一生懸命で優しい君がす…」と言いかけて手で口を塞いでいる。
 しかし最終話の9話で武蔵は元気であることが分かるので、そもそも病気になるほどのストレス自体が存在していないことになる。それゆえどうしても「春田を恋愛対象として好きな武蔵」の設定を再び作るための「余命ネタ」に見えてしまう。
 武蔵が恋愛対象として春田をやはり好きだと再認識するまでの、説得力のある描写が少ないので視聴者は混乱してしまう。
2話で「今さら横恋慕しようなどという気持ちは微塵もない」と言い切り、3話では春田を"愛息子"、6話の結婚式準備では春田を"推し"と呼んでいたのに、同じ6話で菊之助へは突然『区切り』をつけていないと話し、以降春田が好きである気持ちを隠せなくなり、8話では春田へのビデオメッセージで「僕は…今でも『はるたん』が好きです」と本人に伝えてしまう。
3話でW不倫を疑っていた春田と牧に対して諭した武蔵は自己矛盾を抱えた存在になってしまった。
いくら死期が迫っている設定だとしても、やはり春田のパートナーが同性の牧であることや、武蔵が主要キャストであることから、元婚約者の武蔵であっても「好き」だとアプローチをさせても構わないという、プロデューサーの意図が見え隠れしているように思う。

 新規視聴者への配慮の少なさ

 主要キャストであった武蔵の言動の変遷は、S1からの視聴者ならば「『はるたん』が大好きなあの武蔵だから」とある程度は理解が出来たのかもしれない。
しかしリターンズから見た視聴者からすると武蔵が主要キャストだとそこまで理解できていないので、中盤まで春田と牧を見守っていたはずが、5話では新婚旅行についてきて、6話でなぜか二人の結婚式の準備に絡んでいる突飛な人にしか見えない。

 そして6話の最後以降は「余命ネタ」で長く引っ張られ、8話でなぜか春田と熱く絡んだりと内輪でのやり取りが多く、よく分からずに途中で脱落してしまった人が多かったのではないか。
春田と武蔵の関係は最低でもS1を見ていないと、リターンズの内容だけでは深く理解できなかったと、私自身が新規視聴者であるからこそ分かる。
 だからやはり"春田と牧"を軸としたストーリー展開を後半も貫くべきであった。
 二人が仲睦まじい様子は新規視聴者にも分かりやすいし、リターンズでもかつて春田と武蔵の関係が強かったことを話を追うごとに丁寧に説明しつつ、武蔵も迷走せずに活躍できる分かりやすいストーリーに十分出来たはずだ。

 主人公・春田の悩みも唐突な印象に

 最終話の春田を幸せにする会についても、そもそも春田の悩みが、6話最後から最終話まで引っ張った武蔵の「余命ネタ」から派生し、最終話で少ししか描かれなかったために、「内輪の主役お疲れさま会」に見えてしまった点において賛否が分かれた。

 ただ8話までの混乱した流れを考えると、キャストと現場スタッフはよく最終話の9話で何とか着地させたなという印象さえ持った。
「余命ネタ」「お疲れさま会」という設定は先にあったようだが、間をつなぐ春田の葛藤の描写が少なすぎて入り込みにくかったのだろう。
 
最終話のあらすじ記事から引用する。

春田は武蔵との涙の別れを通して、「自分は明日死んでも後悔しないくらい、一生懸命生きているのだろうか?」と自問自答するように。

https://thetv.jp/news/detail/1184716/p2/

 そもそも春田は武蔵とは実際に涙の別れをしていない。武蔵の余命や病気は聞き違いだったからだ。そこから自分の人生について自問自答をするようになるには、論理が飛躍しすぎではないか。

 そして劇場版で春田は担当する街の人たちと一緒に街を作っていくのが自分の夢だと悟り、エリートの牧にも「偉くなれよ」と声をかけていたのだが、リターンズ最終話で急に出世頭の牧と自分が釣り合うかどうか悩み始める。
その間の隔たりを埋める描写は少なく、最終話になって、ストーリーにおいて重要なはずの主人公の悩みが唐突に出てきた印象が拭えない。
もう少し前から、第一営業所との吸収合併話(最終話の一つ前8話で登場)や春田の仕事内容などと合わせて、詳しく描かれて欲しかった。
 ちなみに係長級は一つの職場に複数人いることが一般企業では普通であるが、最終話で第二営業所の名前は残せたものの、春田の肩書きが係長補佐のままで終わっていたことも消化不良の感覚が残った。

無視できない3つの大きな問題

 元死刑囚の言葉が台詞に

 リターンズ最終話で、武蔵が元公安の和泉に「ボディを透明にして」と話す場面があった。(※この言葉を検索する際には十分にご注意ください)
余命1ヶ月を聞き間違えた武蔵が気恥ずかしさのあまり、元職が公安の和泉に自分の存在を消してほしいとお願いしようと発した言葉と考えられるが、この言葉を選ぶ必要のない場面であった。
2024年3月13日に発売されたリターンズのシナリオブック、すなわち脚本家徳尾浩司氏が書いた脚本にもこの台詞が掲載されていることから、現場のアドリブではなく、徳尾氏の書いた言葉であることが分かる。
 ところがこの言葉は、1990年代前半に起きた埼玉愛犬家連続事件の元死刑囚が事件の過程で処理方法を表現した言葉として述べられたものである。またこの事件をモチーフとした映画「淋しい熱帯魚」でも使われていて、この映画は演劇界隈では比較的有名な作品である。
いずれを引用したとしても、元の事件があることはすぐに分かることである。当然ながら事件には被害者遺族がおり、遺族がこのようなコメディドラマで急に使われたことを知ったらどう思うだろうか。
 かなり独特な言い回しであることから、徳尾氏がこの言葉が偶然生み出したとするには苦しい。
 意図的にこの言葉を利用した場合にはどのような意図だったのか、意図的ではないとしたら、検索したらすぐに分かるレベルの言葉でありながら、なぜ調べる手間を省いたのか。脚本家が地上波ドラマで放送される言葉には特段の注意を払うべきなのは当然であろう。
 またリターンズ各話のタイトルは、何らかのテレビ番組や映画などのタイトルや有名な台詞のパロディになっている。
8話のタイトル「余命1か月の家政夫」は、ドキュメンタリーの実話が元になっている映画「余命1ヶ月の花嫁」から取られたものだと考えられるが、武蔵は聞き間違いから実は元気だったオチになっていて、実話の結末を考慮するととても楽しめるようなパロディだとは思えない。

 コメディにおいて病や死を扱うのは相当高度な技術やセンスが問われるのだが、一連の扱いが面白いとは思えず、むしろ不謹慎であり相容れない感覚を抱いた。
 いずれにしても、徳尾氏が上記の事件の台詞を武蔵に言わせた意図や、エグゼクティブプロデューサー三輪氏はじめ貴島氏など4人のプロデューサーがいながら放送されてしまったことは、倫理上の問題やチェック体制が大きく問われるものである。

 宗教儀式としての結婚式での乱闘

 リターンズ1話の冒頭で、キリスト教式と見られる結婚式での乱闘シーンがあった。
春田の夢オチではあったが、牧師とおぼしき聖職者役がいて、武川(眞島秀和)が挟まれた祭壇にははっきり十字架が映っている。キリスト教式ではないと弁解するには苦しい。
 クリスチャンではない日本人にとっては単なるバカ騒ぎに見えるかもしれないが、クリスチャンやクリスチャンが多い海外での受け止めはそうはいかない可能性がある。世界の宗教で信仰している人数が一番多いのはキリスト教であると言われている。
 例えば、神社の中のようなセットで神職のような格好をした人の目の前で、結婚式の最中に紋付き袴の男たちがセットを壊しながら乱闘したら、どう思うだろうか。夢オチだからいいと言って納得できるだろうか。
日本人ならおそらく不謹慎だと捉える人が少なくないだろう。それと同じ不快感を与えてしまう可能性があるのだ。
 それが証拠に、1話と同日に撮ったと思われる6話の結婚式では聖職者役の顔は常に光で隠され、誓いの言葉のシーンはなく、指輪の交換時にも二人の引きでの映像もなかった。
それらは聖職者役が真ん中に立ち、行っていたはずだからだ。

おそらく1話の時点で何らかの指摘が入り、6話の結婚式の大事なシーンをあのように変更せざるを得なくなったのだと考える。
 宗教への配慮を欠いてしまったがゆえに、ファンが待ち望んでいた大事な6話の結婚式のシーンまで編集せざるを得なくなってしまったことをプロデューサーはどう弁明するのだろうか。

 法律婚を望む同性カップルへの配慮

 6話の武川が春田に話した言葉をきっかけに一部のLGBTQ+当事者から批判があった。
 武川の言葉は以下の通りであった。
 結婚式の招待状を渡しながら春田が話す。
「何か形になることをやっておきたいなぁって思って。俺たちの場合婚姻届を出すとかそういうものがあるんじゃないんで」
問題となったのはそれを受けた武川の言葉だ。
「そうだな。ただ世間一般の夫婦のように法的な根拠があったとしても、その愛が永遠に保証されるわけじゃない。お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも俺は十分だと思う」
「ですよね…」と春田が返事をする。
これもアドリブではなく、脚本家徳尾浩司氏の台詞そのままである。
批判の主な内容は、周りの祝福さえあれば法的根拠はいらないと言っているように聞こえる、とのことだった。
現在全国では同性カップルによる法律婚の実現を求めて複数の裁判が同時に行われている。その中において、より慎重さと配慮が必要であったことは否めない。
日本経済新聞の文化面でも物議を醸した例として取り上げられてしまった(※下記のリンクは途中から有料記事です)。

男性同士の恋愛ドラマシリーズ「おっさんずラブ」。3月に放送を終えた「リターンズ」は好評だったが、批判的な声も飛び交った。同性婚は必ずしも必要ではないという印象を与える場面が散見されたからだ。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79202960T10C24A3BC8000/

現代の"爆笑胸きゅんホームドラマ"を

 3つの問題を出さない方法はあった

 上記の1つ目の問題が起こったのは、明らかに脚本家の言葉の選択センス不足と、プロデューサー4人のチェック機能が働いていなかったことに尽きる。
中盤以降のストーリーなどの乱れを見るにつけ、対応すべき課題が多すぎて、一番大きな問題を見落としてしまったのではないか。
こういった台詞を言わされてしまった俳優が事実に気づき、「おっさんずラブ」もしくは同じ組での仕事を断ることになってしまったらどうするのだろう。
中盤から対応すべき課題が多すぎたとしたら、明らかに設定を詰め込みすぎた影響ではないか。
やはりプロデューサーは脚本家やチーム全体の能力を見きわめ、設定を詰め込み過ぎずにプロット段階からしっかり作り、台本やドラマ編集時のチェック体制を万全にして、俳優や現場スタッフに無理な対応をさせないドラマ制作を心がけるべきではないのか。
 これは2つめの問題にも通じる。
 6話での編集に1話放送後にかなり追われたであろうことを考えると、余計な手間が生まれてしまったはずだ。
結婚式での乱闘シーンを考えたときに、宗教をセンシティブな問題と捉えられる人間の目が必要で、それがあれば日本でも一般的な、人前結婚式での対応も出来た。
一般的な日本人の感覚で宗教を考えているようでは、特にテレビ朝日のプロデューサー2名は大手マスコミのテレビ局員として社会的見識が甘いと言わざるを得ない。
 またそれは3つ目の問題でも同様である。全国で法律婚を望む同性カップルが裁判を行っていることは、一般的なネットニュースですら扱われている。プロデューサー4人がマスコミの一員としてそれを知らなかったでは済まされない。
武川の言葉の変更は現場でも十分出来たはずで、ストーリーの大筋では必要ないためカットする判断も可能だった。
例えば「(春田の言葉を受けて)今は届を出せないとしても、まずは仲間に祝福されるのはいいことだと俺は思う」などと少ない修正で済んだはずだ。
 私自身は日本のエンターテインメントに特定の社会的主張を必ずしも盛り込む必要はないと考えている。それは「(あなたにどのような背景があろうと)あなたと必要な意思疎通を図りたい」という共通の概念を消極的ではあっても日本社会は内包しており、それが望まれることが多いからである。
ただリターンズは内容の性質上、同性カップルの結婚にまつわる話題はどうしても避けては通れないだろう。
 特定の主張を明示するのを避けたかった意図は見えるのだが、それならばなぜ中途半端に法律という言葉を持ち出してしまったのか。
それは2話のちず(内田理央)の発言や最終話での春田の発言にもあり、とりあえず触れておけばいいというような若干投げやりな印象さえ持った。
当事者のファンの中には傷ついた旨を述べている人も見かけた。果たして脚本家とプロデューサー4人は慎重に台詞を検討したのだろうか。
同性カップルが法律婚出来ない現状において、"春田と牧"の結婚に関する台詞には一層の配慮が必要だったのは間違いない。

『爆笑』『胸きゅん』『ホームドラマ』のあり方

 リターンズ公式サイトの最終回の説明文には、このドラマを表現しようとしていた言葉がある。

アラフォーはるたんが牧と《ふうふ》になり、模索してきた《家族のカタチ》――。

笑いと涙いっぱいで駆け抜けた《爆笑胸きゅんホームドラマ》は、ついに完結。

果たして、それぞれがたどり着く“愛の結末”とは…!?

愛すべきおっさんたちよ、永遠に!

https://www.tv-asahi.co.jp/ossanslove_returns/story/0009/

 アラフォーはるたん(※注『はるたん』は武蔵だけが春田を呼ぶ呼称であるため、本来ならば春田とすべきだろう)と牧がふうふになり、模索してきた家族のカタチ──
ならばなぜ、"春田と牧"を軸とした家族になっていくストーリーにしなかったのか、やはり謎は残る。
 ただそのあとの『爆笑』『胸きゅん』『ホームドラマ』を作ることが制作陣の目的の一つであったのなら、その点においては異論はなく、むしろキャストと現場スタッフの現場力の高さを考えると挑戦してほしかった。
挑戦したのかもしれないが、主要キャストの迷走やメリハリのなさ、設定の詰め込みすぎなどストーリー設定の粗雑さにより、実現出来ていなかった。

 稀代の同性カップル"春田と牧"を中心にして、レギュラーキャストの年齢層や置かれている設定も幅広く、キャラクター設定も武蔵や武川のような中高年の独身男性から、ちずのようなシングルマザー、マロ(金子大地)と蝶子のような歳の差カップル、そして鉄平兄(児嶋一哉)と舞香(伊藤修子)の子育てカップルもいる。
 どんな状況にいる人たちも取りこぼさず、いざというときはお互いに助け合っていく、"少しゆるめの"共同体にいる人たちの葛藤や活躍を描く『ホームドラマ』になれる素地は十分にあった。
 リターンズにおいて実際に"愛の結末"が気になったのは新規キャストの和泉と菊之助くらいで、武蔵、武川、和泉による"春田と牧"への横恋慕をラブストーリーとして無理に仕立てる必要はなかった。
S1と劇場版はラブストーリーではあったが、"春田と牧"は実写の同性カップルとしては比類なき人気を誇る二人になったから、続編となったリターンズでは、今は圧倒的に数が減ってしまった『ホームドラマ』に正々堂々と挑戦してほしかった。

 「おっさんずラブ」の個性豊かなキャストが形成する"少しゆるめの"共同体は、より人々の生活の細分化が進んだ令和の時代の今にふさわしいし、多くの人たちに響く内容が描けるはずだった。

 ただ上記の最大の3つの問題点をはじめ、後半の武蔵の迷走などで崩れてしまったストーリー展開により、後半になるにつれて、みんなが『爆笑』できる部分がだいぶ薄れてしまった。
 そして『胸きゅん』部分については、"春田と牧"のカップルだけでなく、新規キャストの和泉(井浦新)と菊之助(三浦翔平)も担っていたところは良かったのだが、主演の田中圭に二役をさせ、秋斗という瓜二つの人物を登場させたところはまさに賛否両論真っ二つとなってしまった印象である。
 また既に書いたように、武蔵が6話で突然春田への横恋慕を考えるようになった変遷により、武蔵はS1からリターンズ前半までの言動と自己矛盾を抱える存在になってしまった。
この6話からの武蔵、武川、和泉による"春田と牧"への横恋慕とも見られる言動は、それこそ同性カップルは法律婚が出来ないから、結婚パーティーのときですらアプローチしてもいいという偏見の表現になりかねない。
 「不倫ダメ、ゼッタイ」はS1の舞香の台詞にあったが、これは当然春田と牧のような、互いを生涯唯一のパートナーだと認め合っている同性カップルにも適用されるはずだ。

 『ホームドラマ』については、7話でシングルマザーのちずが倒れた際に、春田や牧、マロが手を差しのべたり、武蔵がちずを励ましたりなど、"少しゆるめの"共同体のような形を自然に見せていたのがとても良かった。

このドラマではそれをFamilyや家族という言葉で表現していたのだろう。
 ただ家族には濃淡があるのが普通で、主人公の春田から見ると牧が一番濃い家族であり、その次は春田の母(栗田よう子)、そして牧の両親(春海四方、生田智子)である。
S1で交際相手として春田をわざわざ実家に連れていった牧が、結婚相手として春田と一緒に両親に会いに行く話がなかったのは不自然に見えた。
そういった家族の核の部分をすっ飛ばしてしまったからか、最終話ではとにかくみーんな家族!と雑にまとめ上げたように見えてしまった。
おそらく、互いに困ったときに扶助する"少しゆるめの"共同体のような形を描きたかったのではないかと思うが、それが全体的にしっかりと見えたのは7話だけであった。

 3話から出てきた「おむつパートナー」「おむつ同盟」という言葉は、たとえ介助の範囲であっても、個人の尊厳にも関わる繊細な問題でもあるため、扶助する間柄を示す言葉として適切とまでは言いにくい。介助や介護の問題にも踏み込むのならより丁寧な描写が必要であった。
 それではシビアな問題には手をつけられないのかというと、5話の冒頭で一人暮らしの武蔵が孤独死のニュースを思わず消してしまうシーンもあるように、シニア付近の世代ならではの孤独の辛さや怖さも表現されていたところがあった。
 武蔵はスーパー家政夫としても活躍できていて、まだまだ社会で役目を果たせる力があり、あるいは現代の標準となっている再雇用が行われれば、元の職場の天空不動産で活躍することも出来たはずだ。
 ちなみに周囲の実例としてもこれはある。
待遇がこれまでとはあまりにも低くなる問題はあるが、労働人口の自然減により、そもそも働き手が必要とされている。
業務のスムーズな継承が必要な場面で現役世代を支えているだけでなく、人手不足で無茶な要求をされる職場を助けている役割を果たしているケースがあるのだ。
 「ジジイで失うものがないからこそ上に物申す」と職場を救っている60代を知っている。肩書きを失っても、後輩たちのために知恵を出して汗を流すカッコいい人たちが実際にいる。
これこそ武蔵にピッタリな役割ではないだろうか。コメディにするなら、副業として本社や第一営業所に再雇用だけでなく清掃係などとしても潜入し、牧にちょっかいを出しながらも協力しながら情報を収集し、第二営業所とその顧客や『はるたん』の降格危機を救うのもありではないか。牧と武蔵の関係緩和もさらに見せることが出来るだろう。

 また5話では菊之助の想い人が和泉だと分かった蝶子が、菊之助の苦しい胸の内を聞く場面もあった。
この場面は図星の菊之助が慌てる箇所や「春田くんって『存在が罪』よね」と蝶子に噂話をされた春田や和泉がくしゃみをするコメディが織り込まれていて、短い場面だが『爆笑』『胸きゅん』『ホームドラマ』が実現されていたと思う。


 横恋慕のような武蔵や武川、和泉の描写や、どうせこの制作陣は武蔵を死なせはしないだろうと6話からネット上でも見透かされていた「余命ネタ」をやめて、仕事面や生活面での理不尽や困難にみんなで助け合って立ち向かっていくシーンをもう少し多く丁寧に描いていたら、そういった現代の社会情勢に合致した"少しゆるめの"共同体が自然と描けていたはずである。
 最終話の桜の下に向かう春田と牧に、無理に家族の定義を台詞で言わせることなく、キャストと現場スタッフの強い現場力で『爆笑胸きゅんホームドラマ』がちゃんと完成したことだろう。

"春田と牧"で令和流『ホームドラマ』を

 冒頭で紹介したギャラクシー賞主催団体による座談会では、リターンズをBL(Boys Love=男性同士の恋愛)ドラマの枠で紹介していた。
でも単発、S1と劇場版で「おっさんずラブ」はBLドラマを卒業したのではないかと思っている。
 それも主人公の春田は最強の伴侶の牧を得て、二人は夫夫(ふうふ)となり家族となったからだ。リターンズからはもう、"春田と牧"の家族としての物語、つまり『ホームドラマ』である。
 武蔵が春田を、武川が牧を若干ひいきする程度ならともかく、結婚パーティーの準備や本番で複数人が"春田と牧"に絡んだり狙う話は蛇足であり、真剣に新しい家庭を作ろうとしている同性カップルを面白がるような感じにすら見えてしまった。
 笑いと真剣さ、例えば二人の結婚式のような重要なシーンは1話かけて、牧もしっかり関与させた、結婚式に向けた準備から本番だけの内容で作るなど、各話ごとに緩急をつけたドラマ制作をしてほしかった。
「おっさんずラブだから(何が起きるか分からない)」という枕詞を、プロデューサーは何を起こしても構わない言い訳に使っていないだろうか。
S1でそれらしき枕詞が合致する箇所は6話最後から最終7話にかけてだけだと思う。ちゃんとメリハリがあったから、最後には受け入れられたのだ。

 "春田と牧"という奇跡の実写同性カップルを擁しながら、リターンズでは、二人を中心としたちゃんとした『爆笑胸きゅんホームドラマ』を作れなかったのが悔やまれる。

 なぜS1や劇場版と同じように、武蔵を最後はカッコよくビシッと決める設定にしなかったのだろう。制作陣はおそらく武蔵を重要視していたのに、リターンズでは「余命ネタ」で周りを振り回してしまった人で終わらせてしまった。

 同性カップルのドラマは増えたが、"春田と牧"という最強の夫夫(ふうふ)が中心となり、新旧キャストによる"少しゆるめの"共同体が互いに助け合うドラマなど、まだどこにもない、だけど今の時代の流れに合った、令和流『ホームドラマ』の先駆けになれただろう。

 牧凌太を演じた林遣都はリターンズ終了後に、NHK「あさイチ プレミアムトーク」やMBS(TBS系列)「情熱大陸」に出演もしくは出演予定である。

 前者ではリターンズの朝食のシーンや結婚式前夜のシーンなどが放送され、後者では密着番組の紹介として「おっさんずラブ」シリーズの最新作などに密着と書かれている。
 MBS(大阪/毎日放送)は歴史的にTBSと仲が悪く改善傾向にはあるものの、テレビ朝日との関係性がいいこともあるだろうが、TBS系列としては林遣都が好評価を受けていた超人気ドラマ「VIVANT」の映像だけが優先的に使用されてもおかしくなかった。
 林遣都演じる牧凌太が「おっさんずラブ」においてとても重要な登場人物である、とNHKとMBSが理解しているからこそ、リターンズの映像使用や密着があったのだろう。

やはり主人公の春田創一とそのパートナー牧凌太は、他局のプロも認める奇跡のカップルであり、"春田と牧"は「おっさんずラブ」シリーズの新たな軸となった証左であると考えているが、プロデューサー陣4人はプロの評価をどう受け止め、テレビ朝日はどう次に活かすのだろうか。

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