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今夜、少女は空を飛ぶ

「わぁ、なんて高いんだろう!」
 まるで無邪気にはしゃぐ幼子の様に、嬉々とした声で少女は言う。
 深夜、初めて忍び込んだ学校の屋上。冬の冷たい風が、身体の芯から体温を奪う。口元からは吐息が、白いもやとなって視界に入り、消えていく。
物心ついた時から、少女は空を飛ぶことを夢見ていた。乗り物なんかじゃなく、自分の意志で身体そのものを、空で自在に操ってみたかった。
「ん……と、よいしょっと」
 自分の背丈ほどある落下防止用のフェンスを乗り越え、幅三十センチも満たない足場へ降りた。そこから臨む夜景に、少女は目を輝かせる。
 街は寒さが音までも吸い取ってしまったかの様に、静まりかえっていた。普段目にする車も歩行者も、今は居ない。
 ――私の街が、私の世界が、眠っている。
 もしもここから一歩、飛び出せたなら……
 少女は人間に翼がないことを、大いに愁いていた。たった二本の足で、大地に縛られてどうしようもない自分を呪った。
 翼さえあれば、何処へだっていけるのに。少女にとって世界は、不自由で、窮屈でしかなかった。
「どうせなら青空の方が、良かったんだけどね」
 残念そうに呟きながら、まずはフェンスを掴んでいた両手を放す。あとはもたせかけている背中を、前へと押しやるだけだ。
 夜空を見上げると、雲一つなく。一面星にまみれていて、その中で目に留まったオリオン座を指でなぞる。天体に詳しくはないが、その特徴的な形はすぐに見つけられた。
「ま、今日みたいに星が綺麗な空なら、いっか」
 口元を緩ませながら、勢い良くその身を宙へ委ねた。ただ自由になりたかった少女は、ようやく大地から飛び立ったのだ。
 瞬間、脳内にこれまで生きて過ごした時間の全てが再生される。悲しいこと、怒りや悔しさ。僅かだけれど、嬉しさや楽しみも。体験した事が全部、昨日の事のように鮮明に、思い出されていく。
 その時ほんの一瞬だけ、身体がフワリと浮いた気がして。
 これが空を飛ぶ感覚なんだなと、彼女は思う。
 ――やっと、私は自由になれた。
 少女は満足げな表情を浮かべ、重力に引かれていった。
 


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