この3ヶ月という日々と、約十年

今年の2月の末くらいまで、ここ数年の主な仕事は接客業だった。十年位勤めていた職場で(その間に違う職場でもやはり接客をしていたわけだけれど)、最後のほうは同僚や先輩というのは何だかゆるやかな家族みたいな雰囲気があり、お客さんは何年も前から知っている近所の顔見知りみたいな方も少なくなく、わたしはよく話を聞いたり、したりしながらのびのびと仕事をさせてもらっていた。(何と幸せなことだったろう。)

3月末をもってその職場を去る、というのは2月上旬には自分の中で決まっていたことなのだけれど、新型コロナウイルスの影響で強制的に2月末に早まった。もう3月の予定もすっかり出ていた頃だったので雇用はしっかり守られたけれども、その職場自体は閉鎖になってしまった。

翌日からの閉鎖が決まったのが前日の夕方だったので、問い合わせの電話を受けたり、やって来るお客さんにその旨を伝えたりするのが忙しかったのを覚えている。閉館業務に伴い、日常的に使用してた日付印をさわっていたが、それをその当時の再開予定日の約2週間後に合わせながら、「わたしは今日が最後になるかもねぇ~」なんて冗談半分、本気半分で申していた。それを聞いていたスタッフは何も言わず、何ともいえない困ったような表情を浮かべてからパソコンの画面を見つめていた。どこかの絵の題材みたいに。

それからその職場で接客することは無くなったわけだが、多数の人と会話しなくなることで、何らかの機能が低下したり、けっこうストレスを感じるのではないかという懸念があった。何らかの機能というのは、例えば機嫌がよくなくても微笑むことで得られる感情作用とか、人の表情を見て何かを汲み取る作業とか、それぞれの人と違った話題を共有して会話することで活性化する能の部分とか、そういうような。そもそも、ある程度見知った人たちと会話し発話しなくなること自体が、ストレス解消の機会を奪っているのではないかとわたしは思った!
もちろん、ストレスを解消するつもりでこの職場に通ったと思うことはなく、改めてそれまでの環境を振り返り、もちろんストレスを感じることもあったのだけれど、同時にストレスの解消もしていたのだと思い至った。...なんということだろう!

昨年末、訳あって同時にしていたもう一つの仕事を辞めていたので、今年に入ってから初めて倉庫という職場で業務をすることになった。人々は仕事中黙々と手を動かし、連携し、時々会話をする。

どこの職場にも秩序があり、人々がお互いを観察し観察されながら、補いあおうとしている。ひとつの事業所の仕事という枠組みの中でその業務を成し遂げることは、どうやったて一人ではできない。いくつかの職場を少しずつ観察したのと、ある程度時間をかけてそこに仲間として組み込んでくれた環境があったお陰で、わたしはそれを学んだのだと思う。
職種が全く違っても、基本的なことはあまり変わらない。その秩序がおかしな信念に基づいていない限り、人々が補完し合うのは必須であるに違いない。

挨拶をしたり、挨拶をされたらなるべく大きな声で明るく返事をしたり、何かを教わったらきちんとお礼を述べたり、自分ができることがあったら些細なことでも協力しようと試みたりすることの大切さをどこへ行ってもなくすことはできない。今いる場所で笑顔で挨拶をしてくれる人がいる温かさを感じること。それだけでなく、ミュージカルの『キャッツ』のグリザベラのように、涙ながらに過去を歌い上げるわけではなくとも(今年観た映画のジェニファー・ハドソンが良かった!)わたしにとって仕事だけでなく、プライベートのちょっとした挑戦を応援し、話を聞いてくれる場所があったこと。スタートアップ企業の実業家のように野心に燃えているわけでなくとも、未来にひょっとすると生涯の友人に出会えるかもしれないという希望。そういうものを心の中に温めながら、なんだか十年前よりも、少し強くなった気がする。

黙々と作業することは思ったより苦手ではないみたいだし、案外人に会わなくても大丈夫みたい、というのが最近の感想だ。家には人がいるので全く話さない訳ではないけれども、発話する機会が減ったというので思い出したことなのだが、わたしはそもそも内省的で、内向的なところがあるということだ。自分自身をうまく表現できないと感じていた学生時代や卒業してからの数年も、よくわからないポエムや(今読み返すと恥ずかしい類の)散文のようなものを書いていたのを思い出した。そういう場所はわたしの中にきっちり忘れられずに置いてあり、必要なときがくるとそっと開示される。放っておくことはできても、無くなりはしないんだな、と思う。




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