踏切

たぶん去年の今頃に、「秒速5センチメートル」を確か初めて観た。確か、というのは、作品タイトルもずっと知っていたし、大昔にニコニコ動画のエンコード制限がずっと厳しかった頃の、エンコード設定テスト動画で映像自体も多少見たことがあったので、通しで観ても結局「本当にこれが初めて観た回だったのか」はついぞわからなかったからだ。

その時も確かこれぐらいの、いやもう少し後だったか、とにかく夜更けから朝に向かう時間帯に観たと記憶している。この映画をおそらく何度か観たことがあると思われる恋人とAmazon Prime Videoで何とはなしに観始めて、まあ特に劇的なこともなく観終わったのだけれど、時折思い出す感想があって、この1年は何度も思い出したけど、いつか忘れる時が来るかもしれないから書いておこう。

わたしが「桜花抄のあたりは観たことがあったような気がしていたけど後半になるほど観ていない気がしていて、でもこの尺でこの内容で途中で見るのをやめたとは思えない」と言った時、恋人は「まあ、桜花抄が貴樹の人生のハイライトですからね」と答えたのだ。これがとても印象に残っている。

人生のハイライト、という考え方を、なぜかあまりしたことがなかった気がする。おそらくだけど、わたしは割と生きている限り自分の人生の良さは基本的に加点され続けて更新され続けていくと根拠もなく信じている。だから局所的な、極大的な輝かしい記憶はあれど、そこが最大だと思う気持ちは今の所ないし、おそらくこれから先人生でどんなに良いことがあっても、生きてればさらに良いことがあるぞと思いながら生きている。普段はそんなに常にポジティブなわけではないが、たぶんわたしにとって人生とは結局そうなのだ、なんだかんだ。今のところ。

でも同時に、遠野貴樹さんの人生のハイライトが桜花抄の部分にあたるという考えも非常によくわかる。物語が終わるあたりの時点での遠野貴樹さんは去年映画を見た時の恋人や、今のわたしとおよそ同じ年齢だと思われるので、これからいくらでもいろんなことあるよ、というのは簡単だけど、おそらくあの世界はそういう風には想定されていないんだろうなというのはわたしにも分かる。

創作に限らず、取り返しのつかない、何者にも代え難い何かを失うということは人生にきっと必ずあるのだと思う。これも幸せなことに、今のところわたしの人生からただ失われたものというのはあまり思いつかなくて、代わりに失われたことによって学びや感慨があったもの、形を変えてわたしの人生にまた関わってくれるものであったり、あるいはわたしにレッドカードを突きつけられて退場した人生に二度と現れなくてよいものたちが思い浮かぶ。本当にラッキーな話だと思う。

よくできたフィクション作品を通すと、自分の人生だけを生きていたら出会うことがない、もしくは気が付くことができない世界に触れることができる。もちろんノンフィクションにそれを見出す人もいるだろうが、わたしの場合はどうしても生身の人間はわたしが情報を得られない部分で生活や人生をやっているんだな、というのがノイズになってしまうので、テーマ・哲学・学びみたいなものだけを純粋に得るのが難しい。

ここ数年はつい「作品」らしいものに触れることから遠のいてしまっていたが、今年はこうして継続的にアウトプットを行おうともしていることだし、積極的にいろいろなものを取り込みたい。自分だけの感想ではなく、それこそ恋人や友人たちとも作品に触れる機会があると良いなと思う。

結局のところ、わたしの心にあの感想がずっと残っているのは、あの感想が出てくる恋人の人生のハイライトが実はわたしと出会うより前に終わってしまったものだったらどうしよう、というありふれた心配なんだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?