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もう行けない街

会社のslackで長いエスカレーターの話題を見て、真っ先に思い出したひとつのエスカレーターがある。


大学生の頃、2018年の9月に、ロシアのサンクトペテルブルクという街に語学留学した。

語学留学と言っても、わたしの専攻はロシア語どころか文系ですらない情報系で、ロシア語は第二外国語として履修していた。

その頃のわたしは高校時代から国家を擬人化したヘタリアという作品にハマっており、わたしはロシアさんのことがとっても好きだったので、卒業に必要な自由単位という枠でロシア語を学べると知った時は迷いなく履修を決めた。

第二外国語でロシア語を選ぶ人たちは完全に二つに分類できる、と思っている。ロシア語を学ぶことに非常に強いモチベーションを持っている人か、選択肢にあったどの言語にも本当に興味がなくて、ただ単位が欲しい人だ。

日本で暮らしていると、意識して機会を作らない限りロシア語を使う場面は全くない。どころか、ロシア語圏は海外旅行先としてもそんなに候補に上がる方ではないので、「ちょっとやったことがある」を活かす場面があまりにも少ないのだ。

おそらくあの教室で誰よりもでっかいモチベーションを持った熱心な学生だったわたしは、先生から「ロシア語を専攻していない学生でも夏休みの期間に参加できる語学留学のプログラムがあるから、参加してみませんか」と声をかけてもらった。

それで、初めてロシアという国、サンクトペテルブルクという街に足を踏み入れることになったのだ。


留学中はホテルではなく、ホームステイで過ごした。平日の昼間に通うサンクトペテルブルク国立大学まで、地下鉄で何駅か乗ったところに1ヶ月間住むことになった。

サンクトペテルブルクという街はロシアの中でもかなり大きい都市で、かつては首都だった。わたしの母ぐらいの世代だと、レニングラードという名前の方が伝わりやすいこともある。

地下鉄とバスが発達していること、歴史的な観光名所が数えきれないほどあること、今は遷都したがかつて首都であったことから、わたしはサンクトペテルブルクのことを、何となく京都っぽいなと思っている。そういえば中心街は道が直交しているのも似ているかもしれない。

そんなサンクトペテルブルクはフィンランド湾に面しており、運河でもある大きな河川、ネヴァ川が市内を流れている。わたしが過ごすことになった、ソビエト時代の名残を感じる大きな集合住宅にあるおうちは、サンクトペテルブルクの中心部、大学のある方に対して、ネヴァ川を挟んだ島にあった。

大きな川を挟んだ地域で地下鉄が走っているということは、それよりもさらに深いところを走らせなければいけない。川沿いの駅で改札とホームを結ぶエスカレーターは、ちょっと笑っちゃうぐらい深かった。

あんまりにも深かったのでエスカレーターに乗っている間じゅうずっと回した動画を、今も残してある。動画は2分以上もある。

そのエスカレーターに、手すりをちゃんと持って乗っているとあることに気づく。エスカレーターが進むより、手すりが進む方がちょっとだけ速くて、だんだん腕が前の方に持っていかれるのだ。

え!?と思って周りのロシア人(たぶん)たちをよく観察してみると、みんな時折手のポジションを調整している。

とにかく長いエスカレーターだったし、サンクトペテルブルクの駅は歴史的な建物を流用したものも多い。駅もエスカレーターもそんなにぴかぴかではなかったので、もし最初はぴったり同じ長さに作っていたとしても、いつの間にかどちらかの長さが変化してしまったのかもしれないなと思った。


そんなことを思い出しながらあの長いエスカレーターについて改めて調べてみたら、実はあれは地下鉄の駅に有事の際のシェルターとしての側面も持たせるために長く作ってあるという記述を見かけた。

日本語の文献でありソースもないため、確かな話かどうかは分からないなと思う。が、同時に、今の情勢がふとよぎる。

1ヶ月間の留学は、それはそれは楽しかった。普通に気をつけていれば、海外旅行でよく聞くようなスリなどのトラブルに遭うこともなかったし、街並みもとっても綺麗だった。何より、想像していたよりもずっと親切な人たちばかりだった。初めに乗り継ぎで降り立った空港でSIMカードを買うときすら英語が通じなかったけど、その人が親切であることは感じたし、ロシア語を勉強しに来たのでほかの言葉が使えないことも嬉しかった。

結局まるまるひと月サンクトペテルブルクから出ることなく過ごして、飛行機の乗り継ぎのわずかな時間しかそれ以外の場所には行かなかったので、他の都市にも行ってみたいと思った。
卒業までにお金を貯めて、次は卒業旅行でウラジオストクからモスクワまで、シベリア鉄道ロシア号での大陸横断をやるぞとわりと本気で思っていた。カップ麺をいっぱい持ち込んで、車内にお湯が沸かせる設備があるらしいのでそれを使って食べたり、途中駅のホームでイクラや何かわからないものを買ったり、乗り合わせた人との交流を楽しんだり、永遠と思われるほど続く針葉樹の車窓をただ眺めたりしたかった。

まずコロナが流行った。海外旅行どころか近所の移動すら制限される状況になった。ようやくちょっとだけ落ち着いてきたから、卒業旅行は流石にもう時期的に厳しいけど、社会人になったら必ず近いうちにと思っていた矢先、開戦のニュースが流れた。

日本で暮らしていたらロシア語を使う場面がないと思っていたのに、急に至るところで毎日ロシア語が流れるようになった。勉強してきたロシア語とは使っている語彙が違うので、初めは断片的にわかる単語があった時に前後の内容を聞き取って辞書で引いたりしていたが、それも次第にやらなくなった。


この間の年末年始に実家へ帰省して、家族とさまざまな話をした。

母はコロナ前ギリギリの時期に一度ドイツへ行ってからというもの、すっかりドイツという国の魅力にとらわれてしまい、毎日熱心にDuolingoという語学アプリをやったりNHKのラジオを聞いたりしている。昨年の初夏にはついに念願かなって二度目の渡独を果たした。

お正月にこれからの一年について話している中で、今年はオーストラリアでコアラを抱っこして写真を撮りたい、でもやっぱりクリスマスの時期にドイツにも行ってみたい、という文脈で母が何気なくわたしに問いかけた。

「めぐはどっか行きたい国とかないの?」

そういえばあまり最近考えてなかった問いだったので、まずわたしも何気なく行きたい国を思い浮かべようと考えて、次に思い浮かんだその国のいまについて考えたら、微妙な間が空いた。

しまったなぁと思いつつ、ほんとうに他にちょうどいい国も思いつかなかったので、素直に、あの時のロシアにもう一回行きたいなあと思っていることを話した。

そして、あの時のロシアには、あのサンクトペテルブルクという街には、おそらくもう行けないんだなと自分が2年ぐらいかけて徐々に思うようになっていることに気づいた。

一旦こういった形になってしまって、しかもこれだけ長く続いていると、ぜんぶがもとの形に戻ることはきっとない。今の状況がどんな流れでどこに落ち着くのかはまったく分からないけど、国自体も、そこで暮らす人たちの気持ちも、そこで暮らしていない人たち、たとえばわたしの周りの人たちの気持ちも、あの時とは決定的に変わってしまう。わたし自身もきっと。

もちろん国の立ち位置やふるまいという意味では、2018年の情勢だって別にとっても良かったという訳ではない。軍事侵攻が始まったことはもちろん大きな変化だが、何もなかったところにいきなり降ってきた訳ではない。あの時だってちょっとずつちょっとずつ2022年の2月24日に向かって、そして今に向かって動いていたはずだ。

長いエスカレーターの手すりみたいに、すぐには気付かないぐらいゆっくりと離れていって、ついにはあの時触れていたところは、いつの間にか手の届かない遠くへ行ってしまった。

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